海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十二話 香炉という名の煙

 ヘンドリックの診療所の待合室には、上海の夜明けが静かに入ってきた。

 

 真崎勇気は外套のまま、木の椅子に座り続けていた。眠れなかった。眠ろうとしなかった。

 廊下の奥で扉が開き、ヘンドリックが現れた。袖をまくったままだった。

 

「手術は無事終わりました」

「意識は」

「途中で戻りました。すぐに鎮静剤を。血圧は安定、出血も止まっています」ヘンドリックは静かに続けた。「数日はここで安静です。それまでは私が診ます」

「もう一度、あの連中が来ないとも限らない」

「この辺りはフランス当局との付き合いがある。おいそれと手は出せますまい」

 真崎は息を吐いた。「先生のご尽力、感謝します」

 

 ヘンドリックは少し間を置いてから言った。「高杉先生の患者は、みなどこかおかしい。何十年も診てきて、そう思います」

 

 真崎は内ポケットから封筒を取り出した。

「今回の処置と、諸々の費用。これで足りますか」

 ヘンドリックは封筒を開いて中を見た。しばらく黙っていた。

「シンサクとはいつも、こういう厄介事を抱えてきましたからね」と、老医師は言った。「これでは多すぎます。半分だけいただきましょう」

「先生ほどの腕前なら、惜しくはありません」

「では惜しくない金額で適正に請求させていただく。それが商売というものです」

 ヘンドリックは半分だけ抜き取り、封筒を真崎に返した。

 

「あなたも診ましょうか」

 真崎は首を横に振った。

「……高杉先生の患者というのは」老医師は軽く目を細めた。「みな、こういう答え方をするんですよ」

 

   *

 

 同刻、旧ドイツ系商館の裏倉庫。

 劉鏑(リュウ・ディ)が薄暗い倉庫の中央に立っていた。

 縛り上げられていた両手首の縄は、もうない。左肩に鈍い痛みが残っている。脱出の際に関節を外した跡だ。上海の弄堂(ロンタン)で育った男は、こういう抜け出し方を子どものころから心得ていた。

 

 香炉(シャンルゥ)が椅子に座って煙草を吸っていた。

 三角巾はまだ右腕にある。表情に変化はなかった。

 

「何人やられた」

「……十人です」

 シャンルゥの目が細まった。「女一人に」

「……はい」

「無線技師は」

「確保できませんでした」

「爺さんは」

「……仕留め損ないました。拠点には」沈黙。「日本側が増援を寄越しまして」

「ほう」シャンルゥは煙草を長く吸った。「で、女は」

「手負いにしました。ただ……全員を捕えることは」

 

 パシン。

 平手が劉鏑の頬を打った。今回は軽くなかった。

 

「何やってんだ、お前は」

「……申し訳ありません」

「十人だぞ。女一人に十人」

「……」

「腹が立つを通り越して呆れたな」

 

 シャンルゥはもう一発、打った。今度は逆の頬だ。

 劉鏑は顔を動かさなかった。

 

 しばらく、煙草の煙だけが漂っていた。

「拠点は」とシャンルゥが言った。

「床が抜けています。当面は使えません」

 シャンルゥは煙草の灰を落とした。しばらく黙っていた。

 それから立ち上がった。「次はない。分かるな」

「……はい」

 

   *

 

 旧高杉拠点の廊下では、フランス側の警吏が数名、粛々と動いていた。

 

 高杉が手配した。フランス当局とは古くから関係がある。要るときに連絡をよこせば動いてくれる、そういう関係だ。見返りの話は表には出ない。

 警吏たちの動きは手際が良かった。倒れている者を一人ずつ確認し、生存者と死者を分ける。生存者には縄をかけて連行する。死者は静かに運び出す。

 上海のフランス側にとって、ドイツの残存資金が流れ込んだ青幇は邪魔な存在だ。情報も欲しい。後始末に乗り出す理由は、向こうにもあった。

 

 警吏リーダーが高杉の傍に来た。帽子を手に持ち、英語まじりのフランス語で言った。

 

「Monsieur Takasugi. Tout est sous contrôle. The bodies will be removed before morning」(――高杉殿。万事、掌握しております。遺体は夜明けまでに片付けます)

「Merci」高杉は短く答えた。「身元が判明したものは知らせてくれ。情報料は出す」

「Bien sûr」

 

 警吏リーダーは帽子を被り直して廊下へ戻った。

 

 潮崎が床の穴を板で塞ぐ作業をしていた。完全には無理だが、踏み抜かない程度には塞げる。井川が机を元の位置に戻していた。二人とも無言だった。

 

 潮崎が廊下を見渡した時だった。

 壁際に落ちている縄。

 劉鏑がいない。

 

「先生、捕まえたヤツが——」

「知っておる」

 高杉が静かに言った。「足音で気づいておった」

「なぜ止めなかったんですか」

「よい」

「よくはありません。あいつはシャンルゥの——」

「よい」もう一度、静かに言った。「むしろ好都合かもしれん」

 潮崎は言葉に詰まった。「……それは、どういう」

「のちに分かるじゃろう」

 高杉は三味線を膝の上に置いたまま、目を閉じた。

 

   *

 

 真崎が拠点に戻ってきたのは昼前だった。

 半壊した廊下を見渡してから、高杉の傍に膝をついた。

「先生、お怪我は」

「いい」高杉が遮った。「それより聞け」

 

 高杉は三味線の弦を一度だけ爪弾いた。

「香炉について話す」

 

「名前の由来から」と真崎が言った。

「香炉は煙を出すものじゃ。そういう男という意味じゃ。沈伯英《シンハクエイ》という通称を持っておるが、上海の裏社会では名前を持ちすぎる男でな」

「香水の話も聞いています」

「ほう。どこで」

「青島で。コティの香水を」

「左様。上質な西洋の香水を集めるのが趣味でな。部屋に百本近くあると聞く。ドイツ系の煙草を好みながら、香水は仏蘭西のものを愛でる。不思議な男じゃ」

 

 高杉は続けた。

「あの男の父親は、かつて上海の青幇で一大勢力を持っておった。三十年以上前の話じゃ。わしがまだ若かった頃」

「先生と揉めたのですか」

「揉めた、というより縄張り争いじゃな。わしが上海に来た当初、父親はわしの動きを邪魔した。それがしばらく続いた」

「結果は」

「わしが残った。父親の一派は散り散りになった」

 高杉は平淡に言った。「そういうことじゃ」

 

「シャンルゥはその時、何歳だったのですか」

「十かそこらじゃったかの。公の場で一度顔を合わせたことがある。父親の隣に立っておった。小さな目をした子どもじゃった」

 

 真崎は、路地のすれ違いを思い返した。

 (あの男、四十数歳か。俺より若いかと思っていたが……)

「だから先生のことを」

「知っているどころか、恨んでおる。父親の仇じゃからの。ドイツの資金で青幇を立て直したのも、その遺恨が根っこにある」

 高杉は三味線の弦を、もう一度だけ爪弾いた。

「なかなか手強い敵を育ててしまったものじゃ」

「自分で育てたんですか」

「育てたのではない。放置した。それが結果的に育てたことになった」

 高杉は、わずかに口の端を上げた。「お前に言える義理ではないがの」

 

   *

 

 拠点を出た真崎が、路地を歩いていた時だった。

 角を曲がった先で、一人の男とすれ違った。

 男は何も言わなかった。真崎の方を見もしなかった。長衫の袖に両手を入れ、路地を歩いていた。

 だが、すれ違いざまに、微かな臭いが鼻をかすめた。

 ドイツ系の煙草の匂いだ。

 

 真崎が振り返った時には、もう男の姿は路地の霧の中に消えていた。

「戻っているというのか」

 声に出したが、誰もいなかった。

「あいつが……」

 青島のビスマルク砲台の前で感じた、あの空気と同じものだった。




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※続きは明日19:40に更新予定です。
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