海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
ヘンドリックの診療所の待合室には、上海の夜明けが静かに入ってきた。
真崎勇気は外套のまま、木の椅子に座り続けていた。眠れなかった。眠ろうとしなかった。
廊下の奥で扉が開き、ヘンドリックが現れた。袖をまくったままだった。
「手術は無事終わりました」
「意識は」
「途中で戻りました。すぐに鎮静剤を。血圧は安定、出血も止まっています」ヘンドリックは静かに続けた。「数日はここで安静です。それまでは私が診ます」
「もう一度、あの連中が来ないとも限らない」
「この辺りはフランス当局との付き合いがある。おいそれと手は出せますまい」
真崎は息を吐いた。「先生のご尽力、感謝します」
ヘンドリックは少し間を置いてから言った。「高杉先生の患者は、みなどこかおかしい。何十年も診てきて、そう思います」
真崎は内ポケットから封筒を取り出した。
「今回の処置と、諸々の費用。これで足りますか」
ヘンドリックは封筒を開いて中を見た。しばらく黙っていた。
「シンサクとはいつも、こういう厄介事を抱えてきましたからね」と、老医師は言った。「これでは多すぎます。半分だけいただきましょう」
「先生ほどの腕前なら、惜しくはありません」
「では惜しくない金額で適正に請求させていただく。それが商売というものです」
ヘンドリックは半分だけ抜き取り、封筒を真崎に返した。
「あなたも診ましょうか」
真崎は首を横に振った。
「……高杉先生の患者というのは」老医師は軽く目を細めた。「みな、こういう答え方をするんですよ」
*
同刻、旧ドイツ系商館の裏倉庫。
縛り上げられていた両手首の縄は、もうない。左肩に鈍い痛みが残っている。脱出の際に関節を外した跡だ。上海
三角巾はまだ右腕にある。表情に変化はなかった。
「何人やられた」
「……十人です」
シャンルゥの目が細まった。「女一人に」
「……はい」
「無線技師は」
「確保できませんでした」
「爺さんは」
「……仕留め損ないました。拠点には」沈黙。「日本側が増援を寄越しまして」
「ほう」シャンルゥは煙草を長く吸った。「で、女は」
「手負いにしました。ただ……全員を捕えることは」
パシン。
平手が劉鏑の頬を打った。今回は軽くなかった。
「何やってんだ、お前は」
「……申し訳ありません」
「十人だぞ。女一人に十人」
「……」
「腹が立つを通り越して呆れたな」
シャンルゥはもう一発、打った。今度は逆の頬だ。
劉鏑は顔を動かさなかった。
しばらく、煙草の煙だけが漂っていた。
「拠点は」とシャンルゥが言った。
「床が抜けています。当面は使えません」
シャンルゥは煙草の灰を落とした。しばらく黙っていた。
それから立ち上がった。「次はない。分かるな」
「……はい」
*
旧高杉拠点の廊下では、フランス側の警吏が数名、粛々と動いていた。
高杉が手配した。フランス当局とは古くから関係がある。要るときに連絡をよこせば動いてくれる、そういう関係だ。見返りの話は表には出ない。
警吏たちの動きは手際が良かった。倒れている者を一人ずつ確認し、生存者と死者を分ける。生存者には縄をかけて連行する。死者は静かに運び出す。
上海のフランス側にとって、ドイツの残存資金が流れ込んだ青幇は邪魔な存在だ。情報も欲しい。後始末に乗り出す理由は、向こうにもあった。
警吏リーダーが高杉の傍に来た。帽子を手に持ち、英語まじりのフランス語で言った。
「Monsieur Takasugi. Tout est sous contrôle. The bodies will be removed before morning」(――高杉殿。万事、掌握しております。遺体は夜明けまでに片付けます)
「Merci」高杉は短く答えた。「身元が判明したものは知らせてくれ。情報料は出す」
「Bien sûr」
警吏リーダーは帽子を被り直して廊下へ戻った。
潮崎が床の穴を板で塞ぐ作業をしていた。完全には無理だが、踏み抜かない程度には塞げる。井川が机を元の位置に戻していた。二人とも無言だった。
潮崎が廊下を見渡した時だった。
壁際に落ちている縄。
劉鏑がいない。
「先生、捕まえたヤツが——」
「知っておる」
高杉が静かに言った。「足音で気づいておった」
「なぜ止めなかったんですか」
「よい」
「よくはありません。あいつはシャンルゥの——」
「よい」もう一度、静かに言った。「むしろ好都合かもしれん」
潮崎は言葉に詰まった。「……それは、どういう」
「のちに分かるじゃろう」
高杉は三味線を膝の上に置いたまま、目を閉じた。
*
真崎が拠点に戻ってきたのは昼前だった。
半壊した廊下を見渡してから、高杉の傍に膝をついた。
「先生、お怪我は」
「いい」高杉が遮った。「それより聞け」
高杉は三味線の弦を一度だけ爪弾いた。
「香炉について話す」
「名前の由来から」と真崎が言った。
「香炉は煙を出すものじゃ。そういう男という意味じゃ。沈伯英《シンハクエイ》という通称を持っておるが、上海の裏社会では名前を持ちすぎる男でな」
「香水の話も聞いています」
「ほう。どこで」
「青島で。コティの香水を」
「左様。上質な西洋の香水を集めるのが趣味でな。部屋に百本近くあると聞く。ドイツ系の煙草を好みながら、香水は仏蘭西のものを愛でる。不思議な男じゃ」
高杉は続けた。
「あの男の父親は、かつて上海の青幇で一大勢力を持っておった。三十年以上前の話じゃ。わしがまだ若かった頃」
「先生と揉めたのですか」
「揉めた、というより縄張り争いじゃな。わしが上海に来た当初、父親はわしの動きを邪魔した。それがしばらく続いた」
「結果は」
「わしが残った。父親の一派は散り散りになった」
高杉は平淡に言った。「そういうことじゃ」
「シャンルゥはその時、何歳だったのですか」
「十かそこらじゃったかの。公の場で一度顔を合わせたことがある。父親の隣に立っておった。小さな目をした子どもじゃった」
真崎は、路地のすれ違いを思い返した。
(あの男、四十数歳か。俺より若いかと思っていたが……)
「だから先生のことを」
「知っているどころか、恨んでおる。父親の仇じゃからの。ドイツの資金で青幇を立て直したのも、その遺恨が根っこにある」
高杉は三味線の弦を、もう一度だけ爪弾いた。
「なかなか手強い敵を育ててしまったものじゃ」
「自分で育てたんですか」
「育てたのではない。放置した。それが結果的に育てたことになった」
高杉は、わずかに口の端を上げた。「お前に言える義理ではないがの」
*
拠点を出た真崎が、路地を歩いていた時だった。
角を曲がった先で、一人の男とすれ違った。
男は何も言わなかった。真崎の方を見もしなかった。長衫の袖に両手を入れ、路地を歩いていた。
だが、すれ違いざまに、微かな臭いが鼻をかすめた。
ドイツ系の煙草の匂いだ。
真崎が振り返った時には、もう男の姿は路地の霧の中に消えていた。
「戻っているというのか」
声に出したが、誰もいなかった。
「あいつが……」
青島のビスマルク砲台の前で感じた、あの空気と同じものだった。
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※続きは明日19:40に更新予定です。
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