海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十三話 病床の星図

 白い天井だった。

 知らない天井だ、と思った瞬間に、体が痛みを思い出した。脇腹。腹部。肩。背中。傷の場所を順番に数えながら、ここがどこかを考えた。

 ヘンドリックの診療所だ、と気づくまでに少し時間がかかった。

 

 右手を動かした。動いた。左手を動かした。動いた。指を握り込んだ。

 メリケンサックは、もうない。誰かが外したのだろう。

 手の関節に、真鍮の跡が残っていた。

 

 天井を見たまま、愛玲は廊下を思い出した。

 十人。全員、自分が落とした者たちだ。

 だが最後は倒れた。

 

(足りなかった)

 

  *

 

 記憶が、遠い場所に戻っていった。

 

 赤い柱。清朝の屋敷の天井は、こんなに白くなかった。

 夜の音がした。叫び声ではなかった。短い、乾いた音だった。

 廊下を走った。扉の向こうに何があるかを知りながら、それでも走った。

 両親はもう動かなかった。

 

 次に覚えているのは、朝の光だ。

 誰かの手が、愛玲の肩を引き起こした。

 老人の手だった。骨の浮いた、しかし岩のような手だった。

「立て」

 声に感情はなかった。「泣くな。強くなれ」

 

 李河(リーホォ)はその頃、すでに五十を超えていた。

 清朝に仕えた武官の生き残りで、暗殺を生業とした人間だ。戦場と路地裏の両方を知っていた。弟子を取ることなど、それまで一度もなかった。

 

「なぜ私を」と愛玲は聞いた。

「血筋だ」と李河は言った。「それと、目だ」

「目?」

「死んだ目をしていない。それだけで十分だ」

 李河はそれ以上の説明をしなかった。愛玲も、それ以上は聞かなかった。どちらも、余計な言葉を必要としない種類の人間だった。

 

 その後の十年余りを、愛玲は李河の下で過ごした。

 体術。刃物。毒。暗号。変装。上海の路地の読み方。

 何一つ易しいものはなかった。何一つ、教えてもらえなかった。やってみろ、失敗しろ、もう一度やれ——それだけだった。

 

 だが今夜、廊下で倒れながら、愛玲は思った。

(足りなかった)

 体術だけでは届かない場面がある。それを今夜、肌で知った。

 銃を覚えなければならない。これは感情ではなく、算数の話だ。

 

  *

 

 ドアがノックされた。

「どうぞ」

 入ってきたのは、白衣の男だった。

 井川修平だ。両手に小さな瓶を持っている。

 

「あの」と井川は言った。「お見舞いに参りました」

「……あなたが来るとは思っていなかったわ」

「傷の回復を早める成分を計算して調合しました。ビタミン類と、タンパク質の前駆体と、あとは——」

「ありがとう」

 

 愛玲は遮った。「で、拠点はもうダメなの?」

「地下に穴が空きました」

「すごい爆発ね」愛玲は天井を見たまま言った。「あなたの仕業?」

「そうなんです! 実は炸薬量を二倍に増やしまして、起爆角度の修正値も完璧だったんですが、床面の摩擦係数が想定と——」

「その話は後で」

「はい」

 

「ユウキは来た?」

 少し間を置いてから聞いた。「彼は無事?」

 

 井川が答えた。「ついさっきまでずっとここにいましたよ。傷の具合が落ち着くまで帰りませんでした。いまは陸軍の仕事で席を外していますが、夕方にはまた来るとのことです」

「そう」

 愛玲は天井を見たままだった。口の端が、わずかに動いた。

 

「黒石さんは頭を打ちましたが、意識は戻っています。先生は脇腹を——」

「みんな生きているのね」

「はい」

「それなら、いい」

 

 栄養剤の瓶を一口飲んだ。苦かった。「……これ、本当に効くの?」

「計算上は確実です。ただ、味は考慮していませんでした」

「正直なのは認めるわ」

 

 井川が立ち上がった。帰り支度をしながら口を開いた。

「計算上、傷は五日で——」

 言いかけて、止まった。

「すみません、お大事に、という意味でした」

「最初からそう言えばいいのよ」

「善処します」

 

 扉が閉まった。

 

  *

 

 窓から光が入っていた。フランス租界の空は、上海にしては白かった。

 

 手のひらを見た。メリケンサックの跡が、指の関節に残っている。

 廊下の戦闘を、もう一度、静かに整理した。

 換気口組を三人。穿壁からの先発を三人。精鋭の四人を、武器を使って。

 十人だ。

 

 だが最後は倒れた。

 

 体術で仕留める限り、近づかなければならない。近づけば傷を負う。傷を負えばいつか足が止まる。これは体術の限界ではなく、構造の限界だ。

 銃を覚える。それだけのことだ。感情の話ではない。

 李河が「道具は選ぶな」と言っていた。まだ半分しか聞けていなかった。

 

「次は負けない」

 

 白い天井に向かって、一度だけ言った。

 宣言ではなく、確認だった。

 

 窓の外で、午後の光が動いていた。

 愛玲はもう一度目を閉じた。

 意識が遠のく前に、赤い柱の色が、一瞬だけ瞼の裏に浮かんだ。

 

  *

 

 同刻、高杉拠点。

 

 高杉晋作は座椅子に座ったまま、半壊した書斎を見渡していた。

 天井の一部が落ちている。床には爆発で開いた穴がある。廊下の壁が崩れたまま、まだ誰も手をつけていない。

 潮崎と黒石が向かいに座っていた。黒石は頭部に包帯を巻いたままだ。

 

「ここは直せますか」と潮崎が言った。

「直せる」と黒石が答えた。「ただ時間がかかる。無線機材の大半が損傷している。換気口も塞がなければならない」

「どのくらい」

「一ヶ月。早くて」

 潮崎が溜息をついた。「一ヶ月は長い」

 

 高杉は黙って二人の話を聞いていた。

 やがて、三味線の弦を一度だけ爪弾いた。

「ここから移る」

 

 二人が顔を向けた。

「実は以前から考えておった。新しい物件も見つけておる」

「この上海に、そんな場所が?」と潮崎が言った。

「ある」高杉は静かに言った。「霞飛路《ジョッフル》の裏手じゃ。新築の里弄住宅でな。扉を閉めてしまえば蟻一匹入れんと言われておる。この廃屋よりずっと新しい」

「なぜ今まで言わなかったんですか」

「急かされると値が上がる。それだけのことじゃ」

 

 潮崎は書斎の惨状を改めて見渡した。床の穴。崩れた壁。

「……では、この話し合いに意味はなかった、ということですね」

「無駄話は頭の整理になる。意味はあった」

 高杉は三味線を膝に置き直した。「移転は三日後にする。それまでに運べるものを選り分けておけ」

 

 黒石が包帯の上から頭を押さえながら言った。「無線機材の優先順位は私が判断します」

「任せる」

「換気口の塞ぎ方については」

「もう塞がんでいい。捨てる場所じゃ」

 黒石は少し黙った。「……そうですね」

 

 廊下のどこかで、フランス側の警吏がまだ動いている音がした。

 高杉はそちらを見ることなく、目を閉じた。

「次の拠点では、もう少し静かにやりたいものじゃ」

 

 誰も答えなかった。それが正直なところだった。




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