海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十四話 二重底の分室

 日本海軍の上海事務所に、朝の光が斜めに入っていた。

 

 秋月慧は潮崎が話し始めた瞬間に書類を置き、向き直った。

 拠点の急襲。愛玲の重傷。黒石の頭部打撲。高杉の脇腹の傷。井川の爆弾と、床に開いた穴。劉鏑の脱走。フランス側による後処理。

 潮崎は淡々と報告した。感情を抑えた、整った報告だった。

 

 秋月は一通り聞き終えてから口を開いた。

「損害の把握は分かった」と短く言った。「新拠点への移転は」

「三日後です。高杉先生が既に手配されていました」

「そうか」

 

 窓の外を一瞬見た。

 机の端に束ねてある傍受電報の一枚に目が止まった。ロンドン発の暗号電報を解読したものだ。西部戦線の今週分の損耗数が走り書きされている。数字だけを追った。六桁だった。

 

「少佐」と潮崎が言った。「申し訳ないとお思いでしょうが」

「思っている」

「海軍の仕事は今、我々どころではないほど忙しいのは承知しています。世界大戦が本格化して、上海でも動きが増えている。それに——」

「妻のこともある」秋月が先に言った。「上海に連れてきた。慣れない土地だ。こういう時期に独りにはできない」

「はい」

 

 潮崎は一拍置いた。

「役割というものがあります」

「聞こう」

「少佐の仕事は、大きな絵を描くことです。高杉先生が引いた盤面の骨子を、海軍の立場から固める。エレノア・ファン・デル・ベルグへの接触も、それなしには進まない。そちらに集中してください。拠点周りは我々が動きます」

 

 秋月は机の書類をまた手に取った。

 先ほど目に入った傍受電報の数字がまだ頭の中にある。六桁。今週一週間の損耗数が、六桁だ。日本海海戦での戦死者全体を一日で超える。

 

 (欧州に行かなければ分からないことが、まだある)

 

「それと」と潮崎は続けた。「今夜は家に帰ってください」

 秋月は潮崎を見た。一拍。

「……分かった」

 

 潮崎が出ていった後、秋月は傍受電報を手に取った。六桁の数字を見た。

 それから、妻が昨夜作った魚の煮付けのことを思い出した。

 塩が少し足りなかった。

 

  *

 

 日本陸軍上海分室。

 

 田辺武人少佐は、窓を閉める前に、路地を一度だけ確かめた。

 人影はない。昼間の路地はそんなものだ。だが、これで三日連続だった。

 

「真崎」と田辺は言った。振り返らずに。

「はい」

「お前は最近、決まった時間に分室を出るか」

 真崎は少し考えた。「……おおむね。報告書の提出期限がありますので」

「朝の九時に出て、昼前に戻る。それが三日続いている」

「それが何か」

「誰かが、お前の時間を把握している」

 

 田辺は窓から離れて机に戻った。煙草を一本取り出したが、火はつけなかった。

「分室の外に、お前が出るたびに同じ方角へ消える人間がいる。中国人だ。三十代、中肉中背、灰色の長衫。お前に気づかれていないと思っているらしいが、私には三日前から見えていた」

「……尾行ですか」

「そうだ。上手くはない。だが組織的だ」

 真崎は立ち上がり、窓の外を確認した。今は誰もいない。

「青幇ですか」

「分からん。だが一つ確かなことがある」田辺は煙草を灰皿に戻した。「お前の行動を誰かに伝えている人間が、この分室の近くにいる。お前自身の周りか、あるいはもっと近い場所に」

 

「田辺少佐」真崎は向き直った。「なぜ今まで黙っていたんですか」

「確信が持てなかった。今日で確信が持てた」

「それは」

「今朝、そいつが私を見た。尾行対象を間違えたのか、あるいは私にも目的があるのか。どちらにしても、網が広くなっている」

 

 田辺は立ち上がり、外套をかけ直した。

「お前、しばらく行動を変えろ。時間も経路も、毎回変えろ。そして——」

 田辺が低く言った。「お前が定期的に会っている人間がいるなら、そこへの経路も変えろ。誰とは聞かん。だが気をつけろ」

 

 真崎は答えなかった。

 田辺はそれで十分だとばかりに、それ以上は追わなかった。

「もう一つ」田辺は言った。「キイチ——いや、神林少将への密書は、先週動いた。大島次官の手元に届くまで、あと二週間はかかる」

「伝わりましたか」

「届けた。効くかどうかは別の話だ」田辺は窓の外を見たまま言った。「だがお前が書いた数字は、一度どこかに刻まれた」

 

 田辺の目が、一瞬だけ真崎を見て、それから窓の外へ戻った。

「今度この資料の翻訳、まだ頼んでいたな」

「……はい」

「急がん。ゆっくりやれ」

 

 田辺は扉を開けた。半分出たところで、振り返らずに言った。

 

「真崎」

「はい」

「お前がどこへ何をしに行っているか、俺は聞かん。お前がそれをすべき理由があると思っているからだ」

「……」

「だが、相手に見えている時間を減らせ。お前の価値は、見えない時間にある」

 扉が閉まった。

 真崎はしばらく、その扉を見ていた。

 机の上に翻訳待ちの資料が三冊あった。

 

  *

 

 分室を出た真崎は、経路を変えて虹口(ゴンコゥ)の路地を歩いた。

 角の露店の横を通り過ぎた時、号外売りの少年が声を張り上げていた。大判の紙を掲げている。

「西部戦線——塹壕線、延長五百キロ——」

 

 真崎は立ち止まらなかった。

 だが目だけで見た。

 

 (五百キロ)

 

 青島のビスマルク砲台から日本陸軍最前陣地まで、直線で約二キロだった。その二五〇倍の距離に渡って、人間が地面を掘り、鉄条網を張り、砲を据え、互いを撃ち続けている。

 青島で真崎が記録した砲弾の消費量を、頭の中で掛け算した。

 

 (数字が、合わない)

 

 合わないのではない。想像が、追いつかないのだ。

 高杉が「欧州ではその百倍の規模でそれが起きておる」と言った。百倍では足りない数字かもしれない。

 

 真崎は路地を折れた。今日はここから新拠点には向かわない。

「お前がそれをすべき理由があると思っているからだ」

 田辺はどこまで知っているのか。どこまで知らないのか。

 真崎には分からなかった。分からないままでいい、と思った。少なくとも今は。

 

  *

 

 同じ頃、欧州。スイス連邦、ベルン。

 

 窓の外は、晩秋の灰色だった。

 帝国陸軍駐在武官、永田鉄山少佐は、机の上に広げた地図から顔を上げ、窓の外の鉛色の空を見た。三十歳。ベルンに来て三年目になる。

 

 地図には西部戦線の現況が書き込まれていた。マルヌ、アルゴンヌ、フランドル——名前を持つ地名の多くが、今や塹壕と鉄条網の固有名詞になっていた。

 先週、パリから来た仏軍の連絡将校と話した。男は疲れた目をしていた。

「砲弾が足りない。工場が間に合わない。鉄道が足りない。何もかもが足りない」

 連絡将校はそれだけ言って、コーヒーを飲み干して帰った。

 永田は手帳にその言葉を書き留めた。「何もかもが足りない」。これは敗北の弁ではない。近代戦争の構造そのものだ。塹壕に人間を並べるだけでは勝てない。砲弾を作る工場が要る。鉄道が要る。石炭が要る。鉄が要る。それを動かす金が要る。国家の全てを戦争に向けて動員しなければ、この規模の戦争は戦えない。

 

 (総力戦だ)

 

 永田は手帳に、その三文字を書いた。

 白兵突撃で要塞を落とした、などという報告が東京から届いていた。青島のことだ。永田は報告書を読んで、一行だけ傍線を引いた。「砲兵の火力支援により要塞外壁を破砕し——」の箇所だ。

 地図を折り畳んだ。

 

 今夜も、パリから別の連絡将校が来る予定だった。




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