海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
日本海軍の上海事務所に、朝の光が斜めに入っていた。
秋月慧は潮崎が話し始めた瞬間に書類を置き、向き直った。
拠点の急襲。愛玲の重傷。黒石の頭部打撲。高杉の脇腹の傷。井川の爆弾と、床に開いた穴。劉鏑の脱走。フランス側による後処理。
潮崎は淡々と報告した。感情を抑えた、整った報告だった。
秋月は一通り聞き終えてから口を開いた。
「損害の把握は分かった」と短く言った。「新拠点への移転は」
「三日後です。高杉先生が既に手配されていました」
「そうか」
窓の外を一瞬見た。
机の端に束ねてある傍受電報の一枚に目が止まった。ロンドン発の暗号電報を解読したものだ。西部戦線の今週分の損耗数が走り書きされている。数字だけを追った。六桁だった。
「少佐」と潮崎が言った。「申し訳ないとお思いでしょうが」
「思っている」
「海軍の仕事は今、我々どころではないほど忙しいのは承知しています。世界大戦が本格化して、上海でも動きが増えている。それに——」
「妻のこともある」秋月が先に言った。「上海に連れてきた。慣れない土地だ。こういう時期に独りにはできない」
「はい」
潮崎は一拍置いた。
「役割というものがあります」
「聞こう」
「少佐の仕事は、大きな絵を描くことです。高杉先生が引いた盤面の骨子を、海軍の立場から固める。エレノア・ファン・デル・ベルグへの接触も、それなしには進まない。そちらに集中してください。拠点周りは我々が動きます」
秋月は机の書類をまた手に取った。
先ほど目に入った傍受電報の数字がまだ頭の中にある。六桁。今週一週間の損耗数が、六桁だ。日本海海戦での戦死者全体を一日で超える。
(欧州に行かなければ分からないことが、まだある)
「それと」と潮崎は続けた。「今夜は家に帰ってください」
秋月は潮崎を見た。一拍。
「……分かった」
潮崎が出ていった後、秋月は傍受電報を手に取った。六桁の数字を見た。
それから、妻が昨夜作った魚の煮付けのことを思い出した。
塩が少し足りなかった。
*
日本陸軍上海分室。
田辺武人少佐は、窓を閉める前に、路地を一度だけ確かめた。
人影はない。昼間の路地はそんなものだ。だが、これで三日連続だった。
「真崎」と田辺は言った。振り返らずに。
「はい」
「お前は最近、決まった時間に分室を出るか」
真崎は少し考えた。「……おおむね。報告書の提出期限がありますので」
「朝の九時に出て、昼前に戻る。それが三日続いている」
「それが何か」
「誰かが、お前の時間を把握している」
田辺は窓から離れて机に戻った。煙草を一本取り出したが、火はつけなかった。
「分室の外に、お前が出るたびに同じ方角へ消える人間がいる。中国人だ。三十代、中肉中背、灰色の長衫。お前に気づかれていないと思っているらしいが、私には三日前から見えていた」
「……尾行ですか」
「そうだ。上手くはない。だが組織的だ」
真崎は立ち上がり、窓の外を確認した。今は誰もいない。
「青幇ですか」
「分からん。だが一つ確かなことがある」田辺は煙草を灰皿に戻した。「お前の行動を誰かに伝えている人間が、この分室の近くにいる。お前自身の周りか、あるいはもっと近い場所に」
「田辺少佐」真崎は向き直った。「なぜ今まで黙っていたんですか」
「確信が持てなかった。今日で確信が持てた」
「それは」
「今朝、そいつが私を見た。尾行対象を間違えたのか、あるいは私にも目的があるのか。どちらにしても、網が広くなっている」
田辺は立ち上がり、外套をかけ直した。
「お前、しばらく行動を変えろ。時間も経路も、毎回変えろ。そして——」
田辺が低く言った。「お前が定期的に会っている人間がいるなら、そこへの経路も変えろ。誰とは聞かん。だが気をつけろ」
真崎は答えなかった。
田辺はそれで十分だとばかりに、それ以上は追わなかった。
「もう一つ」田辺は言った。「キイチ——いや、神林少将への密書は、先週動いた。大島次官の手元に届くまで、あと二週間はかかる」
「伝わりましたか」
「届けた。効くかどうかは別の話だ」田辺は窓の外を見たまま言った。「だがお前が書いた数字は、一度どこかに刻まれた」
田辺の目が、一瞬だけ真崎を見て、それから窓の外へ戻った。
「今度この資料の翻訳、まだ頼んでいたな」
「……はい」
「急がん。ゆっくりやれ」
田辺は扉を開けた。半分出たところで、振り返らずに言った。
「真崎」
「はい」
「お前がどこへ何をしに行っているか、俺は聞かん。お前がそれをすべき理由があると思っているからだ」
「……」
「だが、相手に見えている時間を減らせ。お前の価値は、見えない時間にある」
扉が閉まった。
真崎はしばらく、その扉を見ていた。
机の上に翻訳待ちの資料が三冊あった。
*
分室を出た真崎は、経路を変えて
角の露店の横を通り過ぎた時、号外売りの少年が声を張り上げていた。大判の紙を掲げている。
「西部戦線——塹壕線、延長五百キロ——」
真崎は立ち止まらなかった。
だが目だけで見た。
(五百キロ)
青島のビスマルク砲台から日本陸軍最前陣地まで、直線で約二キロだった。その二五〇倍の距離に渡って、人間が地面を掘り、鉄条網を張り、砲を据え、互いを撃ち続けている。
青島で真崎が記録した砲弾の消費量を、頭の中で掛け算した。
(数字が、合わない)
合わないのではない。想像が、追いつかないのだ。
高杉が「欧州ではその百倍の規模でそれが起きておる」と言った。百倍では足りない数字かもしれない。
真崎は路地を折れた。今日はここから新拠点には向かわない。
「お前がそれをすべき理由があると思っているからだ」
田辺はどこまで知っているのか。どこまで知らないのか。
真崎には分からなかった。分からないままでいい、と思った。少なくとも今は。
*
同じ頃、欧州。スイス連邦、ベルン。
窓の外は、晩秋の灰色だった。
帝国陸軍駐在武官、永田鉄山少佐は、机の上に広げた地図から顔を上げ、窓の外の鉛色の空を見た。三十歳。ベルンに来て三年目になる。
地図には西部戦線の現況が書き込まれていた。マルヌ、アルゴンヌ、フランドル——名前を持つ地名の多くが、今や塹壕と鉄条網の固有名詞になっていた。
先週、パリから来た仏軍の連絡将校と話した。男は疲れた目をしていた。
「砲弾が足りない。工場が間に合わない。鉄道が足りない。何もかもが足りない」
連絡将校はそれだけ言って、コーヒーを飲み干して帰った。
永田は手帳にその言葉を書き留めた。「何もかもが足りない」。これは敗北の弁ではない。近代戦争の構造そのものだ。塹壕に人間を並べるだけでは勝てない。砲弾を作る工場が要る。鉄道が要る。石炭が要る。鉄が要る。それを動かす金が要る。国家の全てを戦争に向けて動員しなければ、この規模の戦争は戦えない。
(総力戦だ)
永田は手帳に、その三文字を書いた。
白兵突撃で要塞を落とした、などという報告が東京から届いていた。青島のことだ。永田は報告書を読んで、一行だけ傍線を引いた。「砲兵の火力支援により要塞外壁を破砕し——」の箇所だ。
地図を折り畳んだ。
今夜も、パリから別の連絡将校が来る予定だった。
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