海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十五話 帝都への糸

――マイリマス サクヤ

 

 カタカナが、八文字だった。

 差出局は長崎。あの女が、動いた。

 

 神林冴子は紙片を手の中に収め、女中が廊下を遠ざかるのを待った。足音が消えた。

 それを確かめてから、ベッドに倒れ込んだ。うつ伏せになり、肘を立てる。両の手のひらで、敷布を打った。

 

 ばん、ばん、ばん。

 来る。来る。あの女が来る。

 ばん、ばん。

 

 ほんの数週間前のことだ。『淑女画報』の文通欄に、「咲夜」と名乗る女から手紙が来た。冴子が長年使っている欄だ。軍高官の令嬢たちが「エス」と呼ばれる疑似姉妹の縁を結ぶ、他愛のない往来。

 だが、最初の文を読んだ瞬間、冴子は背筋が伸びた。

 

 南洋帰りの女が書いた文には、上流の令嬢の自慢話も、流行の追い書きもなかった。ただ、驚くほど丁寧な文語で、骨のある観察が並んでいた。南洋で見聞きした列強の動き、長崎に流れ着いた外国人たちの様子、港で拾い聞きした噂。

 

 この女は、自分が何を持っているか、分かっている。

 そう思った。

 

 ばん、ばん、ばん。

 

 このベッドは、お父様にねだって買ってもらったものだ。

 今年の春、縁談が立て続けに三件、跡形もなく消滅した後のことだ。冴子が「洋式の寝台で眠ってみたい」と言い出したのは、おそらく気晴らしの意味もあった。少将は渋い顔をした。武家の家に寝台などというものが、と。それでも三日ねだると、黙って洋家具店に注文を入れた。運び込まれた日、少将は一度も部屋を覗きに来なかった。

 

 二十七歳の令嬢が縁談を三件も壊すというのは、帝都の軍人社会では充分な「問題」だ。お父様の額の皺が増えたのは、自分のせいだと分かっている。

 

 それでも、ばんばんするのをやめられなかった。

 誰にも見られていない。

 だから、よかった。

 

  *

 

 二通目は、二日後に届いた。封書だった。差出は神戸。

 文面は丁寧すぎる文語体で綴られていた。

 

『つきましては、長崎にて面白きものを一つ、手に入れ申し候。委細は帝都にて、直にお目にかかりお話し申し上げたく』

 

――面白きもの。

 委細は帝都にて。直に。

 つまり、文には書けないものだ。

 

  *

 

 三通目は、咲夜が帝都に着いた当日に届いた。

 別便だった。よほど急いだのだ。

 冴子は机に向かい、封を切った。中には、二枚あった。

 一枚は咲夜の文。

 

『先の文に記せざりし委細、別紙に写し置き候。読まれし後は、火中に願い上げ候』

 

 もう一枚は、写しだった。

 咲夜の手で書き写された、ある令嬢の手紙の中身。長崎に滞在していた陸軍高官の令嬢が、文通相手の咲夜に宛てたものだ。令嬢は何も悪いことをするつもりはなかった。ただ、自分のお父様がいかに重んじられているかを、見知らぬ「お姉様」に自慢したかっただけだろう。

 次の人事のこと。新しく動き出した予算のこと。誰がどの会議に呼ばれたか。

 夜に酔った父親が、娘に漏らした世間話が、そのまま紙に乗っていた。

 冴子は、文末の咲夜の一行に目を移した。

 

『この写し、海軍のさるお方が高う買うてくださると申され候。されど、まず冴子様にお見せするが筋と存じ候』

 

 冴子は、低く笑った。

 つまりこの女は、令嬢の自慢話を引き出し、それを海軍の誰かに売る話を、もうつけている。長崎から神戸へ流れる間に、買い手まで見つけてきた。その上で、写しを冴子にも送ってきた。

 一枚の紙から、三人の懐に手を伸ばしている。

 冴子の肩が小さく揺れた。笑いが止まらなかった。声は出さない。

 会ったら、その頬をつまんでやろう。それから、抱きしめてやろう。

 冴子の指が、写しの方へ移った。

 そこで、笑いが止まった。

 

  *

 

 写しを、もう一度読み返した。

 令嬢の父親の名前が出てくる。陸軍省の中での立ち位置が、おぼろげに見えた。お父様の周囲の人間であることは間違いない。

 上海で何かが動いている、という気配は、ずっと感じていた。お父様のこの一月の様子が変わった。書斎にこもる時間が増えた。届く書類の束が厚くなった。

 それが、ここまで来ている。

 長崎に流れ着いた南洋帰りの女が、令嬢の他愛ない自慢話の中から拾い上げた名前が、お父様の周辺に届いている。

 

 冴子は写しを蝋燭の火にかざした。

 紙の端が、茶色く縮れ、炎を上げた。

 灰になるまで、冴子は見ていた。

 

 冴子は立ち上がった。

 鏡台の前に座る。ヘアピンを一本、抜いた。指先で、ピンの先をまっすぐに伸ばす。慣れた動きだった。それを袂に納めた。

 

 お父様の書斎の錠を、もう何度も開けている。今夜も開ける。

 令嬢の父の名前が、軍務局のどの書類に出てくるか。誰の隣に座り、誰の予算に名を連ねているか。それを知れば、輪郭がつかめる。

 

 冴子は鏡の中の自分を見た。

 令嬢の顔の下から、別の顔が浮かび上がっていた。

 数字を読み、人を読み、嘘を読む者の顔だった。

 

 咲夜、あなたが拾ってきた糸を、私が手繰る。あなたは金に換えればいい。私は、別のものに換える。

 冴子はランプの火を絞った。

 親指の爪ほどの明かりが残った。それで十分だった。

 猫の足取りで、廊下へ出た。

 

  *

 

 同じ夜、上海。

 

 日本陸軍分室の窓に、まだ灯りがあった。

 田辺武人は、新聞をめくる手を止めていた。

 

 路地の影に、灰色の長衫の男がいる。三日続けて、同じ時刻に。

 今夜は煙草に火をつけている。昨夜はつけなかった。一昨夜は、傘を持っていた。傘が要るような天気ではなかった。

 素人ではない。だが、玄人にしては辛抱が足りない。

 

 田辺は新聞を机に置いた。

 分室の中に、外へ伝えている人間がいる。その確信は三日前から動いていない。問題は誰か、ではなく、何を伝えているか、だ。

 真崎が動いている先。その先に何があるか。

 田辺には見えていない。見えていないが、気配だけは感じている。上海の闇の、もう少し深いところで、何かが動いている。

 

 男が路地の角を折れた。

 田辺はしばらく、その消えた場所を見ていた。

 それから、引き出しの奥の封書を取り出した。

 宛名は書いていない。まだ出していない。出す先が、まだ決まっていないからだ。




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