海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十六話 牙城

 その家は、路地に沈んでいた。

 

 霞飛路(ジョッフル)の裏手。仕立屋と乾物屋の間の、何の変哲もない新築の里弄(リィロン)住宅だ。看板もない。表札もない。煉瓦の色が、まだ新しいというだけのことだった。

 

 |愛鈴(アイリィン)は門の前で足を止めた。

 通りすがりの人間には、ただの住宅に見える。だが目を凝らせば分かる。窓枠の鉄が厚い。扉の蝶番が、住宅のそれではない。地面に近い壁の継ぎ目が、不自然なほど隙間なく詰められている。

 扉を閉めれば、蟻一匹入れない。

 高杉が言ったというその言葉を、愛鈴は外から眺めて、半分だけ信じた。

 

 扉を叩くと、内側から開いた。

 二人の女が立っていた。

 どちらも愛鈴より少し背が低い。顔立ちが似ている。姉妹かと思ったが、よく見ると違う。ただ、同じ場所で同じものを食べて育った人間の、似た骨格をしていた。

 年上らしき方は黙って愛鈴を見た。灰色がかった瞳だった。値踏みでも警戒でもない。ただ、静かに見ていた。

 

 年下らしき方が口を開いた。

「アゥロラです。こちらがディアナ。お待ちしていました」

 よく通る声だった。

 一歩入って、残りの半分も信じた。

 

  *

 

 外の貧相さが、嘘のようだった。

 ディアナが先に立って案内した。必要なことだけ喋るごく端的な説明だ。

 

 一階は表向きの応接間と居間。紫檀の長椅子。床は寄木細工。壁には何の変哲もない山水画がかかっている。だが壁そのものが、拳で叩けば鈍く詰まった音を返した。中に何か仕込んである。

「壁の中は鉄板です」とディアナが言った。「銃弾は通りません」

 

 奥の書架を引くと、階段が現れた。

 地下一階。無線室と実験室が、廊下を挟んで向かい合っている。旧拠点の倍以上は広そうだ。換気の口は天井近くの高い位置に、鉄格子を二重にして設けてある。床に近い場所には、何もない。あの夜の侵入経路を、最初から消してある。

「換気口は全部、人が入れない寸法に作り直しました」とアゥロラが後ろから言った。「先生が特別に指示したそうです」

 

  *

 

 無線室の方から、声がした。

 二つ。早口で、重なり合っている。

 覗くと、黒石と井川がいた。

 

「この壁の遮蔽率を見てくださいよ。旧拠点の三倍はある。混信が激減する。これなら東京の定時通信を取りこぼさない。いや、それどころか、北のウラジオストク方面の電波まで——」

「こっちは換気が独立しているんです。実験室の排気が無線室に回らない。つまり溶剤を使っても通信機材が腐食しない。これがどれだけ画期的か分かりますか。前の拠点では薬品の蒸気で接点が——」

「井川さん、その話より、あの受信機の架台を見てくれ。防振ゴムが入っている。船の上でも使える設計だ。これから搬入——」

「いや黒石さん、僕の実験台の排水を見てください。傾斜が完璧なんです。床に薬品が溜まらない。これを設計した人間は天才ですよ」

 

 二人とも、普段は口数が少ない。

 黒石は頭にまだ包帯を巻いている。井川は床に穴を開けた当人だ。それが今は、新しい玩具を与えられた子供のように、互いの話を聞きもせず喋り続けていた。

 愛鈴は戸口にもたれて、しばらく眺めていた。

 

 口元が、緩んだ。

 「楽しそうね」

 

 二人が同時に振り返った。一瞬、決まりが悪そうな顔をした。

 「……失礼。つい」と黒石が咳払いした。

 「いいのよ」と愛鈴は言った。「生きてるって、そういうことだもの」

 

  *

 

 廊下に戻り、さらに階段を下りた。

 地下二階。

 愛鈴は、足を止めた。

 

 格闘訓練室があった。部屋の半分は厚い畳敷きで、残りの半分は板張りの剣術場だった。間に薄い仕切りが立っているが、外せば一室になる。畳は組討ち用、板張りは剣術用。

 「剣術場は先生のものです」とディアナが言った。それだけだった。

 

 愛鈴は、ゆっくりとその空間を見渡した。

 廊下を挟んだ奥に、もう一つ扉があった。

 「この二重扉の先が射撃訓練場です。射台があります。さらに奥に武器庫があります。先生から、許可が出るまで中には入らないよう命じられています」

 

 これは、一晩で用意できるものではない。一月でも無理だ。何年もかけて、少しずつ運び込み、組み上げたものだ。

 急かされると値が上がる、と高杉は言ったという。

 値の話ではなかった、と愛鈴は思った。これは老人が、人生の最後に建てた牙城だ。

 

  *

 

 廊下に出ると、対面に二重扉があった。

 ディアナがその前で足を止めた。わずかに頭を下げた。アゥロラが続けた。

 「以上が主な施設です。先生からは皆様のお手伝いをするよう命を受けておりますので、何かありましたらお声がけください」

 二人は来た廊下を静かに戻っていった。

 愛鈴は扉に手をかけ、引いた。

 

 中に、真崎と潮崎がいた。

 真崎が振り返った。愛鈴の顔を見て、一瞬止まった。

 

「お前、もう出歩いても大丈夫なのか」

「ご心配ありがとう。結構丈夫なの、私」

「……そうは見えなかったが」

「見えなかった頃の話はしなくていい」

 

 潮崎が横で小さく咳払いした。

 愛鈴は真崎と潮崎を等分に見た。

「ちょうどよかった。銃を教えてほしいの。どちらに習うのがいいか、まだ分からない。だから両方、撃って見せて」

 

 潮崎が先に武器庫から一挺を取り出した。

 的の前に立つ。だが正面を向かない。半身に構えた。体を斜めにして、的に対して肩を引いている。銃は片手だった。

「海軍特務のやり方です。船の上は揺れる。狭い。両手で正面から構える余裕なんてない」

 左目で狙った。引き金に指をかけ、ゆっくりと、ゆっくりと引いていく。

 撃った。

「引き金は一気に引くと、銃口が下にぶれる。ガク引きってやつです。だからゆっくり引いて、いつ落ちたか自分でも分からないくらいがいい」

 的の中心近くに、穴が空いていた。

 

 真崎が代わった。

 的に正面から向き合う。足を肩幅に開く。両手で銃を支えた。右目で狙う。背筋が伸びている。教科書のような構えだった。

「陸軍の射撃教範通りだ。面白みはない」

 息を吸い、半分吐いて、止めた。

 撃った。

 中心だった。

 

  *

 

 愛鈴は両方を試した。

 潮崎のやり方は、確かに速い。動きながら撃てる。だが左目で狙う潮崎の構えは、右目が利き目の愛鈴には、最後の一点でしっくりこなかった。

 真崎のやり方は、遅い。だが静かだった。息を止めて、一点に集中する。

 その「止める」感覚が、体術と似ていた。

 近づいて、仕留める。愛鈴の戦い方は、いつも最後の一瞬に全てを集める。真崎の射撃も、同じだった。呼吸を止めた一瞬に、全てを乗せる。

 接続できる、と思った。これは算数だ。自分の体に合う方を選ぶ。それだけのことだ。

「あなたに習う」

 愛鈴は真崎に言った。「利き目が同じだから。それだけよ」

「……承知した」

 真崎が銃を差し出した。

 受け取るとき、指が一瞬触れた。

 心臓が、少し高鳴った。

 愛鈴はそれを、算数の外側のこととして、脇に置いた。

 

  *

 

 翌日。

 

 愛鈴は高杉新拠点の周辺を、自分の足で歩いて覚えることにした。

 逃げ道。袋小路。人の流れ。市場の位置。これも任務のうちだ。拠点に住む者は、周りの地形を体で知っていなければならない。

 

 菜市場に入った。

 冬野菜が並んでいる。青菜、白菜、葱。乾物屋の前で干し海老の値を聞いた。豆腐屋で一丁買った。日用品を抱えて、ごく普通の女のふりをして歩いた。

 

 雑踏の中だった。

 ふと、首の後ろが、冷たくなった。

 見られている。

 愛鈴は足を止めなかった。葱を抱え直すふりをして、視線だけを動かした。

 人、人、人。荷を担ぐ男。値切る女。走る子供。

 誰も、こちらを見ていない。

 もう一度、首の後ろの感覚を探った。

 

 もう、なかった。

 気のせいだったのかもしれない。あるいは、そうでないのかもしれない。

 愛鈴は豆腐を抱えて、人混みに紛れた。背中の感覚を、忘れないように覚えておいた。




少しだけ解説を。
新拠点の「里弄住宅」は、二十世紀初頭の上海租界で大量供給された建築形式です。西洋のテラスハウスと中国の中庭住宅を掛け合わせ、外から見れば何の変哲もない長屋の一棟。その構造が、実際の租界下でも地下組織の拠点として好まれました。高杉が選んだのは、偶然ではありません。

最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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