海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
その家は、路地に沈んでいた。
通りすがりの人間には、ただの住宅に見える。だが目を凝らせば分かる。窓枠の鉄が厚い。扉の蝶番が、住宅のそれではない。地面に近い壁の継ぎ目が、不自然なほど隙間なく詰められている。
扉を閉めれば、蟻一匹入れない。
高杉が言ったというその言葉を、愛鈴は外から眺めて、半分だけ信じた。
扉を叩くと、内側から開いた。
二人の女が立っていた。
どちらも愛鈴より少し背が低い。顔立ちが似ている。姉妹かと思ったが、よく見ると違う。ただ、同じ場所で同じものを食べて育った人間の、似た骨格をしていた。
年上らしき方は黙って愛鈴を見た。灰色がかった瞳だった。値踏みでも警戒でもない。ただ、静かに見ていた。
年下らしき方が口を開いた。
「アゥロラです。こちらがディアナ。お待ちしていました」
よく通る声だった。
一歩入って、残りの半分も信じた。
*
外の貧相さが、嘘のようだった。
ディアナが先に立って案内した。必要なことだけ喋るごく端的な説明だ。
一階は表向きの応接間と居間。紫檀の長椅子。床は寄木細工。壁には何の変哲もない山水画がかかっている。だが壁そのものが、拳で叩けば鈍く詰まった音を返した。中に何か仕込んである。
「壁の中は鉄板です」とディアナが言った。「銃弾は通りません」
奥の書架を引くと、階段が現れた。
地下一階。無線室と実験室が、廊下を挟んで向かい合っている。旧拠点の倍以上は広そうだ。換気の口は天井近くの高い位置に、鉄格子を二重にして設けてある。床に近い場所には、何もない。あの夜の侵入経路を、最初から消してある。
「換気口は全部、人が入れない寸法に作り直しました」とアゥロラが後ろから言った。「先生が特別に指示したそうです」
*
無線室の方から、声がした。
二つ。早口で、重なり合っている。
覗くと、黒石と井川がいた。
「この壁の遮蔽率を見てくださいよ。旧拠点の三倍はある。混信が激減する。これなら東京の定時通信を取りこぼさない。いや、それどころか、北のウラジオストク方面の電波まで——」
「こっちは換気が独立しているんです。実験室の排気が無線室に回らない。つまり溶剤を使っても通信機材が腐食しない。これがどれだけ画期的か分かりますか。前の拠点では薬品の蒸気で接点が——」
「井川さん、その話より、あの受信機の架台を見てくれ。防振ゴムが入っている。船の上でも使える設計だ。これから搬入——」
「いや黒石さん、僕の実験台の排水を見てください。傾斜が完璧なんです。床に薬品が溜まらない。これを設計した人間は天才ですよ」
二人とも、普段は口数が少ない。
黒石は頭にまだ包帯を巻いている。井川は床に穴を開けた当人だ。それが今は、新しい玩具を与えられた子供のように、互いの話を聞きもせず喋り続けていた。
愛鈴は戸口にもたれて、しばらく眺めていた。
口元が、緩んだ。
「楽しそうね」
二人が同時に振り返った。一瞬、決まりが悪そうな顔をした。
「……失礼。つい」と黒石が咳払いした。
「いいのよ」と愛鈴は言った。「生きてるって、そういうことだもの」
*
廊下に戻り、さらに階段を下りた。
地下二階。
愛鈴は、足を止めた。
格闘訓練室があった。部屋の半分は厚い畳敷きで、残りの半分は板張りの剣術場だった。間に薄い仕切りが立っているが、外せば一室になる。畳は組討ち用、板張りは剣術用。
「剣術場は先生のものです」とディアナが言った。それだけだった。
愛鈴は、ゆっくりとその空間を見渡した。
廊下を挟んだ奥に、もう一つ扉があった。
「この二重扉の先が射撃訓練場です。射台があります。さらに奥に武器庫があります。先生から、許可が出るまで中には入らないよう命じられています」
これは、一晩で用意できるものではない。一月でも無理だ。何年もかけて、少しずつ運び込み、組み上げたものだ。
急かされると値が上がる、と高杉は言ったという。
値の話ではなかった、と愛鈴は思った。これは老人が、人生の最後に建てた牙城だ。
*
廊下に出ると、対面に二重扉があった。
ディアナがその前で足を止めた。わずかに頭を下げた。アゥロラが続けた。
「以上が主な施設です。先生からは皆様のお手伝いをするよう命を受けておりますので、何かありましたらお声がけください」
二人は来た廊下を静かに戻っていった。
愛鈴は扉に手をかけ、引いた。
中に、真崎と潮崎がいた。
真崎が振り返った。愛鈴の顔を見て、一瞬止まった。
「お前、もう出歩いても大丈夫なのか」
「ご心配ありがとう。結構丈夫なの、私」
「……そうは見えなかったが」
「見えなかった頃の話はしなくていい」
潮崎が横で小さく咳払いした。
愛鈴は真崎と潮崎を等分に見た。
「ちょうどよかった。銃を教えてほしいの。どちらに習うのがいいか、まだ分からない。だから両方、撃って見せて」
潮崎が先に武器庫から一挺を取り出した。
的の前に立つ。だが正面を向かない。半身に構えた。体を斜めにして、的に対して肩を引いている。銃は片手だった。
「海軍特務のやり方です。船の上は揺れる。狭い。両手で正面から構える余裕なんてない」
左目で狙った。引き金に指をかけ、ゆっくりと、ゆっくりと引いていく。
撃った。
「引き金は一気に引くと、銃口が下にぶれる。ガク引きってやつです。だからゆっくり引いて、いつ落ちたか自分でも分からないくらいがいい」
的の中心近くに、穴が空いていた。
真崎が代わった。
的に正面から向き合う。足を肩幅に開く。両手で銃を支えた。右目で狙う。背筋が伸びている。教科書のような構えだった。
「陸軍の射撃教範通りだ。面白みはない」
息を吸い、半分吐いて、止めた。
撃った。
中心だった。
*
愛鈴は両方を試した。
潮崎のやり方は、確かに速い。動きながら撃てる。だが左目で狙う潮崎の構えは、右目が利き目の愛鈴には、最後の一点でしっくりこなかった。
真崎のやり方は、遅い。だが静かだった。息を止めて、一点に集中する。
その「止める」感覚が、体術と似ていた。
近づいて、仕留める。愛鈴の戦い方は、いつも最後の一瞬に全てを集める。真崎の射撃も、同じだった。呼吸を止めた一瞬に、全てを乗せる。
接続できる、と思った。これは算数だ。自分の体に合う方を選ぶ。それだけのことだ。
「あなたに習う」
愛鈴は真崎に言った。「利き目が同じだから。それだけよ」
「……承知した」
真崎が銃を差し出した。
受け取るとき、指が一瞬触れた。
心臓が、少し高鳴った。
愛鈴はそれを、算数の外側のこととして、脇に置いた。
*
翌日。
愛鈴は高杉新拠点の周辺を、自分の足で歩いて覚えることにした。
逃げ道。袋小路。人の流れ。市場の位置。これも任務のうちだ。拠点に住む者は、周りの地形を体で知っていなければならない。
菜市場に入った。
冬野菜が並んでいる。青菜、白菜、葱。乾物屋の前で干し海老の値を聞いた。豆腐屋で一丁買った。日用品を抱えて、ごく普通の女のふりをして歩いた。
雑踏の中だった。
ふと、首の後ろが、冷たくなった。
見られている。
愛鈴は足を止めなかった。葱を抱え直すふりをして、視線だけを動かした。
人、人、人。荷を担ぐ男。値切る女。走る子供。
誰も、こちらを見ていない。
もう一度、首の後ろの感覚を探った。
もう、なかった。
気のせいだったのかもしれない。あるいは、そうでないのかもしれない。
愛鈴は豆腐を抱えて、人混みに紛れた。背中の感覚を、忘れないように覚えておいた。
少しだけ解説を。
新拠点の「里弄住宅」は、二十世紀初頭の上海租界で大量供給された建築形式です。西洋のテラスハウスと中国の中庭住宅を掛け合わせ、外から見れば何の変哲もない長屋の一棟。その構造が、実際の租界下でも地下組織の拠点として好まれました。高杉が選んだのは、偶然ではありません。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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