海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十七話 見えない経路

 田辺は、先に来ていた。

 真崎が分室の扉を開けると、田辺はすでに椅子に座り、机の上の書類を読んでいた。

 珍しかった。いつもは真崎が先に来て、田辺が後から現れる。

 

 机の端に、珈琲が二杯あった。

 田辺は顔を上げなかった。

「閉めろ」

 真崎は扉を閉めた。鍵をかけた。

 

 田辺が書類を伏せた。

「三日前、お前は霞飛路(ジョッフル)を通った」

 真崎は答えなかった。

「いつもと違う経路だった。だが翌朝、分室に戻ったお前の後ろに、見知らぬ男がいた。一丁目の角で消えた」

 田辺の目が、初めて真崎を見た。

「お前が経路を変えた。それを知っている人間が、分室の中にいる」

 

 真崎の頭の中で、何かが静かに組み直された。

 経路を変えたのに尾行された。それは、尾行者が真崎の予定を事前に知っていたことを意味する。分室から漏れていなければ、説明がつかない。

 

「私の行動予定を知っていた人間を絞り込んだ」と田辺は続けた。「三人だ」

「三人……ああ——」

 田辺はそこで止めた。名前を言わなかった。

 

 真崎は田辺の顔を見た。田辺は窓の外を向いていた。

 三人、と田辺は言った。だが真崎の頭の中では、四人目の名前が浮かんでいた。田辺武人。この男も、真崎の行動予定を知っていた。田辺は自分を容疑者から外して話している。それ自体は当然のことだ。だが——

「お前が霞飛路を通ったことを」と田辺が言った。「私が知っているのは、私もお前を追っていたからだ」

 

 真崎は、少し驚いた。

「それは」

「誤解するな」田辺は窓の外を向いたまま言った。その目が、一瞬だけ机の引き出しへ落ちた。「東京から要請が来ていた。お前の身辺の安全を、無理のない範囲で確認するように、とな」

「……誰からですか」

「言えん。だが、お前を心配している人間が帝都にいる。それだけだ」

 田辺がようやく真崎を見た。

「私が怪しいと思ったか」

 真崎は一拍置いた。「少し」

 田辺は、わずかに口の端を動かした。笑ったのか、そうでないのか、判別がつかなかった。

「正しい反応だ。疑えるうちは、まだ生きていられる」

 

   *

 

「ほれ、お前の分もある」田辺は真崎の前にコーヒーを置いた。

「ありがとうございます。あの少佐……」

「あぁそうだったな」田辺は砂糖壺を真崎の前にスライドさせた。

 

 真崎は角砂糖を三つ入れながら言った。「三人の名前は教えてもらえますか」

 田辺はしばらく窓の外を見た。

「教える。だが聞いたら、三人の前で今日と同じ顔をしろ。それができるか」

「はい」

「主計の戸塚大尉。通信担当の笠井軍曹。書記雇員の服部だ」

 一呼吸置いた。「三人とも、お前の勤怠情報と外出記録を業務として扱える立場にある。それ以外はまだ分からん」

 

 真崎は三人の顔を頭の中で確かめた。戸塚。笠井。服部。どの顔にも、裏切りの影は見えなかった。

「炙り出しをしてもらいたい。だが一人でやるな」

 田辺は立ち上がりながら言った。「すまんが、事が事だけにウチの人間は使えん。だが調査費は少し出せる。信頼できる人間と組め」

 

 真崎は答えなかった。

 田辺は追わなかった。

 

「それから」田辺は続けた。「お前が定期的に向かう場所——駐在宿舎や飲食店など、そこへの経路も毎回変えろ」

 真崎は頷いた。

 

「田辺少佐」

 田辺が振り返った。

「東京からの要請。本当に身辺の安全確認だけですか」

 田辺はしばらく真崎を見ていた。

「それだけだ」

 

 扉が閉まった。

 真崎はしばらく、その扉を見ていた。

 

   *

 

 同じ頃、高杉新拠点。

 

 アゥロラが廊下を走っていた。

 正確には、小走りだった。メイドが廊下を走るものではない、とディアナに言われている。だが急いでいる時は、つい足が速くなる。

「ディアナ、シーツが足りない」

 洗濯室の扉を開けると、ディアナが棚を整理していた。振り返りもせずに言った。

「二枚なら棚の奥」

「三枚要る」

「……乾燥室を見ろ」

 アゥロラは乾燥室へ走った。小走りで。

 

 愛鈴が廊下に出てきたのは、ちょうどその時だった。

 アゥロラが角を曲がり、危うくぶつかりそうになった。

「ごめんなさい、アイリィンさん」

「大丈夫。何かあった?」

「シーツです。お客様の部屋を先に整えようと思って」

「手伝おうか」

 アゥロラは一瞬、きょとんとした顔をした。

「え、でも」

「暇なの」

 愛鈴はアゥロラの後ろについて、乾燥室へ向かった。

 

  *

 

 シーツを三人で畳んでいると、高杉が通りかかった。

 杖をついている。だが背筋は伸びていた。七十五歳とは思えない立ち方をする老人だった。

「お前たちが仲良くしているのは結構なことだ」

 高杉は立ち止まって、三人を見た。

「この子たちの素性は聞いたか」と高杉が愛鈴に言った。

「まだです」

「聞いておくといい」

 高杉は椅子を引いて、廊下の端に腰を下ろした。杖を両手で持ち、その上に顎を乗せるようにして、二人を見た。

「話してやれ」

 

 ディアナが口を開いた。珍しく、自分から。

「孤児院は、虹口(ゴンコゥ)の外れにあります。先生が二十年前に作ったと聞いています」

「ワシが作ったのではない」と高杉が言った。「金を出しただけだ。作ったのは現地の尼さんだ」

「そこで育ちました。私は二十年前から、アゥロラは十八年前から」

 アゥロラが続けた。「二人とも、父親が外国人で、母親が中国人です。顔が似ているって言われますけど、血は繋がっていません」

「でも姉妹みたいでしょう」とアゥロラは愛鈴に向かって言った。

「似てる」と愛鈴は言った。「骨格が」

「孤児院に剣道塾が併設されていました」とディアナが言った。「先生が費用を出していた。混血の子供には、何か身を守るものが要ると」

「ワシの考えではない」と高杉がまた言った。「塾の師匠の考えだ。ワシはまた金を出しただけだ」

「先生はいつも、金を出しただけと言います」とアゥロラが愛鈴に向かって小声で言った。

 高杉が聞こえているはずだったが、何も言わなかった。

 

「働き口が見つかりませんでした」とディアナが続けた。淡々としていた。「何度か面接を受けました。顔を見た瞬間に、断られることが多かった」

「混血だから?」と愛鈴が聞いた。

「それだけではないと思います。でもそれが一番大きかった」

「先生が声をかけてくださったのは、三ヶ月前です」とアゥロラが言った。「この拠点が完成する少し前でした。ここで働かないか、と」

「断る理由がなかった」とディアナが言った。

「私は嬉しかった」とアゥロラが言った。「ディアナは嬉しくなかったの?」

「……嬉しかった」

 高杉が小さく笑った。杖の上の顎が、わずかに動いた。

「お前たちには、ここで好きなだけ強くなってもらう。それだけだ」

 高杉は立ち上がった。杖をついて、廊下の奥へ消えた。

 

 愛鈴は畳んだシーツを抱えたまま、しばらく高杉の消えた方向を見ていた。

「先生はよく、自分は何もしていないと言うんです」とアゥロラが言った。「金を出しただけ、とか、場所を作っただけ、とか」

「でも」とディアナが言った。それだけだった。

「でも、全部先生がいなければなかったものだ」とアゥロラが引き取った。

 愛鈴は二人を見た。

「二人とも、剣術は学んだの?」

 二人が同時に顔を上げた。

「はい。高杉先生とそのお弟子様から」とディアナが言った。

「格闘は? 武器なしの」

「ありません。でもいつか習いたいと思っていました」とアゥロラが言った。

「私もです。強くなりたい」とディアナが続けた。

「私でよければ教えるけど」

「いつですか」とアゥロラが即座に言った。

「明日の午前でもいい。ちょうどここには訓練室もあることだし」

「やります」

 ディアナは何も言わなかった。だが畳んだシーツを棚に戻す手が、少し早くなった。

 

   *

 

 夕刻、真崎が高杉新拠点に戻った。

 霞飛路を避け、三つ経路を変えて来た。背後を三度確認した。尾行はなかった。

 扉を叩くと、ディアナが開けた。

「お帰りなさいませ」

「……ただいま」

 真崎は少し戸惑った顔をした。出迎えられる習慣が、まだ体に入っていなかった。

 廊下の奥から、アゥロラの声がした。

「夕食は一時間後です。先生が早めにとおっしゃっています」

「分かった」

 

 真崎は外套を脱ぎながら、廊下を歩いた。

 田辺の言葉が、まだ頭の中に残っていた。

 戸塚。笠井。服部。三人の顔が、順番に浮かんでは消えた。

 炙り出し。信頼できる人間と組め。

 真崎の頭に、一人の顔が浮かんだ。

 

 廊下の奥の部屋から、人の声がした。愛鈴と、アゥロラだ。何かを話している。笑い声が混じっていた。

 

 真崎は足を止めた。

 その笑い声を、しばらく聞いていた。

 それから、自分の部屋へ向かった。




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※続きは明日19:40に更新予定です。
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