海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十八話 逢い引きの算段

 尾行はない。三度確かめた。

「ついてきてるわよ」

 背後から声がした。

 

 振り返ると、愛鈴だった。いつ並んだのか、分からなかった。

 

「どこだ」と真崎は言った。歩調を変えなかった。

「乾物屋の二軒先。傘を持った男」

「雨は降っていない」

「だから傘を持っている」

 

 真崎は視線だけを動かした。長衫(チャンサン)の男が、軒下に立っていた。傘の石突きを石畳についている。空は晴れていた。

 

「いつからだ」

「あなたが霞飛路(ジョッフル)を出た時から」

 

 三度確かめて、気づかなかった。

 

 真崎は一拍だけ止まった。愛鈴の顔を見た。彼女は前を向いたまま、何も言わなかった。

 

   *

 

 石庫門(シークメン)のアーチの影に入った。通りから見えない。

 

「話を聞かせて」

 真崎は少し間を置いた。「正式な依頼として聞いてもらえるか。田辺少佐から調査費を預かっている」

 愛鈴は真崎を見た。一拍。「受けます。聞いたことは外に出さない」

「分室から漏れている。俺の行動予定が事前に筒抜けになっている。容疑は三人だ」

「名前は」

「主計の戸塚大尉。通信担当の笠井軍曹。書記雇員の服部だ。三人とも、俺の外出記録を業務で扱える立場にある」

 愛鈴は一度だけ頷いた。名前を繰り返さなかった。覚えた、という意味だった。

 

 真崎は続けた。「情報は青幇(チンパン)に渡っている。奴らが知りたいのは、俺の行き先だけじゃない」

 愛鈴は少し黙った。「先生の場所を探している」

「そういうことだ」

 二人は、しばらく何も言わなかった。路地の入口で、長衫の男の影が止まっていた。

 

 真崎は少し考えた。分室の内側の問題に、高杉の側の人間を引き込んでいる。だが田辺は言った。信頼できる人間と組め、と。調査費まで出すと言った。それで十分だ。

 

 田辺が分室の中で毒餌を植える。真崎と愛鈴が、どの毒餌に食いついたかを街路で確かめる。役割が分かれている。

 

「三人の誰かを直接張ることはできない」

「そんな必要はない。内側を探っても届かない。外で動いている男を見張ればいい。あなたが向かうはずの偽の場所に、あの男が現れれば出所が分かる」

 

 愛鈴が路地の入口を見た。長衫の男の影が、まだあった。

 

「もう一つ」と愛鈴が言った。「二人でここに立って囁き合っているのが、今一番目立っている」

 真崎は何も言わなかった。

「男と女が連れ立って歩くのが、一番目立たない。逢い引きを装うのが筋よ」

「……それは、任務として言っているのか」

「他に何があるの」

 「いや」

 

 真崎は外套の襟を直した。それで話は済んだことにした。

 

   *

 

 菜市場は、昼前の人出の中にあった。

 

 冬野菜が路上に並んでいる。白菜、青菜、葱。荷車が軋み、値を呼ぶ声が折り重なって、誰が誰を見ているか分からない。人と人の間を縫って歩くと、どこにいるか分からなくなる。それがいい。

 

 愛鈴は真崎の半歩後ろを歩いた。対等ではなく、連れ立っている。男と女の自然な間合いだった。

 

「前の屋台を見て」と愛鈴が小さく言った。「新聞を読んでいる男がいる」

「見えた」

「何分もページをめくっていない」

 

 真崎は視線を流した。たしかに、男の新聞は同じ頁で止まっていた。

 

「小道具が破綻してる」と愛鈴は続けた。「見張りは商売をしていない。だから商売の所作に隙が出る。客引きの声を上げない。釣り銭の音がしない。指が、商品じゃなくて人の流れを追っている」

 声は低く、息と言葉の間のどこかにあった。

 

 露店の前で、愛鈴が急に足を止めた。干し海老を手に取り、値段を確かめる素振りをした。

 真崎はその隣に立った。

 愛鈴は三秒間、干し海老を見ていた。正確には、見ていなかった。路地の奥、三方向を、干し海老越しに確認していた。

「問題ない」と愛鈴は言った。また歩き出した。

 

 真崎は白菜を一つ手に取った。愛鈴が値を聞いた。女主人が答え、真崎が払った。どこにでもいる男女の買い物だった。

 

 白菜を紙に包んでもらう間、愛鈴の目は止まっていなかった。市場全体を、ゆっくりと、水が流れるように見ていた。商品でなく空間を見る目つきだった。

 

 この女は、いつもこうして見ているのか。

 真崎はその横顔を、一瞬だけ見た。

 

「田辺少佐が三枚の偽の旅程表を作る。外灘波止場の南端、蘇州河の渡し場、虹口公園の裏手——それぞれ一か所ずつ違う行き先を、三人に渡す。どれに張り込みが来るかで、出所が割れる」

「三日あれば十分よ」

「お前が三か所を掛け持ちで見張るのか」

「一人でできる。阿毛(アーマォ)が使えるなら、楽になるけど」

 

 真崎は立ち止まった。「阿毛を知っているのか」

「知らない。でも、あなたが街の目を一つも持っていないはずがないと思っていた。ここに来る前から動いているあなたが」

 

 真崎は答えなかった。愛鈴はそれ以上追わなかった。

 

   *

 

 茶館の手前に、阿毛がいた。

 

 壁にもたれて、特に何もしていなかった。真崎の顔を見ても、何も言わなかった。

 

 真崎は路傍の屋台で生煎饅頭(シェンジエンマントウ)を一包み買った。阿毛の手に押し込んだ。

 「三日前から分室の前に立っている男がいる。灰色の長衫だ」

 

 阿毛は包みを開いて、一口かじった。

「……今度は熱い」

 それから、顎をしゃくった。

「茶館に入った。三十分前から、同じ茶を頼んでいる。減っていない」

 

 真崎は動かなかった。

「他に三人いる。入れ替わりで来ている。顔は違う」

 

 愛鈴は何も言わなかった。真崎も何も言わなかった。

 

「銭、足りない」と阿毛が言った。

 

 真崎が銅貨を足すと、阿毛は数えもせず袂に落とし、生煎の残りを口に詰めて、人混みに消えた。

 

 四人がかりで、入れ替わって来ている。広い網だった。

 真崎は茶館の方向を見た。影は動いていなかった。

 

   *

 

 フランス租界に入ると、空気が変わった。

 

 霞飛路のプラタナスの樹が、冬の日差しの中に枯れた葉を揺らしている。石畳の目が細かい。建物の漆喰が白い。一本裏に入れば弄堂の迷路になるが、表通りはただの洒落た並木道だった。テラス席に椅子を出した茶館から、磁器の音がした。低いフランス語が、風に乗って切れた。

 

 並木の影が縞模様で石畳に落ちていた。冬の午後の光は横から差し込み、葉の落ちた枝を透かして伸びていた。その縞の上を、二人は歩いた。

 

 愛鈴が真崎の腕に手を沿えた。路地の角に差し掛かる一瞬だった。肩と肩が近くなった。その位置から、愛鈴の視野に背後の通りが入ることを、真崎は理解していた。

 

「尾行は切れている」と愛鈴は言った。「ここまでは来ていない」

「だが四人がかりだ。一組を撒いても、次がいる」

「だから毒餌を早く仕掛けた方がいい。向こうが動く前に」

 

 並木の下を歩いた。逢い引きの体だった。だが真崎の頭は、毒餌の三か所と、田辺に何を伝えるかで動いていた。

 

「田辺少佐には今夜話す。毒餌の中身は向こうが決める。こちらは外で目印を待つ」

「分かった」

「連絡は阿毛を使う」

「そちらの方が早い」

 

 プラタナスの樹の影が石畳に伸びている。冬の日差しで短かった。

 

「仕掛けが回れば、お前も監視の網に入る。向こうはすでにこのあたりを嗅ぎ回っている」

 

 愛鈴は答えなかった。二歩ほど歩いてから言った。「あなたが担いだ話でしょう。私は乗っただけよ」

 

「気をつけろ」

「あなたもね」

 

 愛鈴が立ち止まった。「ここまでにしましょう。同じ道を戻ると読まれる」

「分かった」

 

 二人は、そこで別れた。

 

   *

 

 真崎はしばらく動かなかった。愛鈴が消えた路地の角を見ていた。

 今夜、田辺に話す。毒餌を三か所。連絡は阿毛を使う。手順は決まった。

 

 それ以上は、考えないようにした。




少しだけ解説を。
愛玲が提案した「三枚の偽の旅程表」。これは、異なる偽情報を複数の容疑者に渡し、どれが敵に漏れるかで出所(スパイ)を特定する古典的な防諜手法です。第一次大戦期の英独諜報戦などを経て体系化され、諜報の世界では「バリウム・ミール・テスト(胃腸の造影剤になぞらえた呼称)」や「カナリア・トラップ」と呼ばれます。愛玲は、のちの巨大情報機関が採用する教科書通りの手を、この時代にすでに打っています。

最後までお読みいただきありがとうございます。

◇お知らせ◇
初投稿以来、毎日19:40の投稿を続けて参りましたが、次回投稿分より、週3回ペースに変更いたします。毎晩19:40の更新を楽しみにしてくださっていた皆さんには、頻度が落ちてしまい申し訳ございません。
それでも物語完結まで責任をもって書き続けますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします!

この作品は全4部構成で執筆しており、もう少ししますと第1部がクライマックスを迎えます。現在は第2部の執筆に入っていますが、戦史・戦闘の考証に思いのほか時間がかかっており、毎日更新のペースを維持するのが難しくなってきました。一話一話の質を高めてお届けしたいための変更ですので、何卒ご容赦ください。

若干の前後はあり得ますが、基本的には火・木・日の19:40頃に投稿予定です。

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