海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
尾行はない。三度確かめた。
「ついてきてるわよ」
背後から声がした。
振り返ると、愛鈴だった。いつ並んだのか、分からなかった。
「どこだ」と真崎は言った。歩調を変えなかった。
「乾物屋の二軒先。傘を持った男」
「雨は降っていない」
「だから傘を持っている」
真崎は視線だけを動かした。
「いつからだ」
「あなたが
三度確かめて、気づかなかった。
真崎は一拍だけ止まった。愛鈴の顔を見た。彼女は前を向いたまま、何も言わなかった。
*
「話を聞かせて」
真崎は少し間を置いた。「正式な依頼として聞いてもらえるか。田辺少佐から調査費を預かっている」
愛鈴は真崎を見た。一拍。「受けます。聞いたことは外に出さない」
「分室から漏れている。俺の行動予定が事前に筒抜けになっている。容疑は三人だ」
「名前は」
「主計の戸塚大尉。通信担当の笠井軍曹。書記雇員の服部だ。三人とも、俺の外出記録を業務で扱える立場にある」
愛鈴は一度だけ頷いた。名前を繰り返さなかった。覚えた、という意味だった。
真崎は続けた。「情報は
愛鈴は少し黙った。「先生の場所を探している」
「そういうことだ」
二人は、しばらく何も言わなかった。路地の入口で、長衫の男の影が止まっていた。
真崎は少し考えた。分室の内側の問題に、高杉の側の人間を引き込んでいる。だが田辺は言った。信頼できる人間と組め、と。調査費まで出すと言った。それで十分だ。
田辺が分室の中で毒餌を植える。真崎と愛鈴が、どの毒餌に食いついたかを街路で確かめる。役割が分かれている。
「三人の誰かを直接張ることはできない」
「そんな必要はない。内側を探っても届かない。外で動いている男を見張ればいい。あなたが向かうはずの偽の場所に、あの男が現れれば出所が分かる」
愛鈴が路地の入口を見た。長衫の男の影が、まだあった。
「もう一つ」と愛鈴が言った。「二人でここに立って囁き合っているのが、今一番目立っている」
真崎は何も言わなかった。
「男と女が連れ立って歩くのが、一番目立たない。逢い引きを装うのが筋よ」
「……それは、任務として言っているのか」
「他に何があるの」
「いや」
真崎は外套の襟を直した。それで話は済んだことにした。
*
菜市場は、昼前の人出の中にあった。
冬野菜が路上に並んでいる。白菜、青菜、葱。荷車が軋み、値を呼ぶ声が折り重なって、誰が誰を見ているか分からない。人と人の間を縫って歩くと、どこにいるか分からなくなる。それがいい。
愛鈴は真崎の半歩後ろを歩いた。対等ではなく、連れ立っている。男と女の自然な間合いだった。
「前の屋台を見て」と愛鈴が小さく言った。「新聞を読んでいる男がいる」
「見えた」
「何分もページをめくっていない」
真崎は視線を流した。たしかに、男の新聞は同じ頁で止まっていた。
「小道具が破綻してる」と愛鈴は続けた。「見張りは商売をしていない。だから商売の所作に隙が出る。客引きの声を上げない。釣り銭の音がしない。指が、商品じゃなくて人の流れを追っている」
声は低く、息と言葉の間のどこかにあった。
露店の前で、愛鈴が急に足を止めた。干し海老を手に取り、値段を確かめる素振りをした。
真崎はその隣に立った。
愛鈴は三秒間、干し海老を見ていた。正確には、見ていなかった。路地の奥、三方向を、干し海老越しに確認していた。
「問題ない」と愛鈴は言った。また歩き出した。
真崎は白菜を一つ手に取った。愛鈴が値を聞いた。女主人が答え、真崎が払った。どこにでもいる男女の買い物だった。
白菜を紙に包んでもらう間、愛鈴の目は止まっていなかった。市場全体を、ゆっくりと、水が流れるように見ていた。商品でなく空間を見る目つきだった。
この女は、いつもこうして見ているのか。
真崎はその横顔を、一瞬だけ見た。
「田辺少佐が三枚の偽の旅程表を作る。外灘波止場の南端、蘇州河の渡し場、虹口公園の裏手——それぞれ一か所ずつ違う行き先を、三人に渡す。どれに張り込みが来るかで、出所が割れる」
「三日あれば十分よ」
「お前が三か所を掛け持ちで見張るのか」
「一人でできる。
真崎は立ち止まった。「阿毛を知っているのか」
「知らない。でも、あなたが街の目を一つも持っていないはずがないと思っていた。ここに来る前から動いているあなたが」
真崎は答えなかった。愛鈴はそれ以上追わなかった。
*
茶館の手前に、阿毛がいた。
壁にもたれて、特に何もしていなかった。真崎の顔を見ても、何も言わなかった。
真崎は路傍の屋台で
「三日前から分室の前に立っている男がいる。灰色の長衫だ」
阿毛は包みを開いて、一口かじった。
「……今度は熱い」
それから、顎をしゃくった。
「茶館に入った。三十分前から、同じ茶を頼んでいる。減っていない」
真崎は動かなかった。
「他に三人いる。入れ替わりで来ている。顔は違う」
愛鈴は何も言わなかった。真崎も何も言わなかった。
「銭、足りない」と阿毛が言った。
真崎が銅貨を足すと、阿毛は数えもせず袂に落とし、生煎の残りを口に詰めて、人混みに消えた。
四人がかりで、入れ替わって来ている。広い網だった。
真崎は茶館の方向を見た。影は動いていなかった。
*
フランス租界に入ると、空気が変わった。
霞飛路のプラタナスの樹が、冬の日差しの中に枯れた葉を揺らしている。石畳の目が細かい。建物の漆喰が白い。一本裏に入れば弄堂の迷路になるが、表通りはただの洒落た並木道だった。テラス席に椅子を出した茶館から、磁器の音がした。低いフランス語が、風に乗って切れた。
並木の影が縞模様で石畳に落ちていた。冬の午後の光は横から差し込み、葉の落ちた枝を透かして伸びていた。その縞の上を、二人は歩いた。
愛鈴が真崎の腕に手を沿えた。路地の角に差し掛かる一瞬だった。肩と肩が近くなった。その位置から、愛鈴の視野に背後の通りが入ることを、真崎は理解していた。
「尾行は切れている」と愛鈴は言った。「ここまでは来ていない」
「だが四人がかりだ。一組を撒いても、次がいる」
「だから毒餌を早く仕掛けた方がいい。向こうが動く前に」
並木の下を歩いた。逢い引きの体だった。だが真崎の頭は、毒餌の三か所と、田辺に何を伝えるかで動いていた。
「田辺少佐には今夜話す。毒餌の中身は向こうが決める。こちらは外で目印を待つ」
「分かった」
「連絡は阿毛を使う」
「そちらの方が早い」
プラタナスの樹の影が石畳に伸びている。冬の日差しで短かった。
「仕掛けが回れば、お前も監視の網に入る。向こうはすでにこのあたりを嗅ぎ回っている」
愛鈴は答えなかった。二歩ほど歩いてから言った。「あなたが担いだ話でしょう。私は乗っただけよ」
「気をつけろ」
「あなたもね」
愛鈴が立ち止まった。「ここまでにしましょう。同じ道を戻ると読まれる」
「分かった」
二人は、そこで別れた。
*
真崎はしばらく動かなかった。愛鈴が消えた路地の角を見ていた。
今夜、田辺に話す。毒餌を三か所。連絡は阿毛を使う。手順は決まった。
それ以上は、考えないようにした。
少しだけ解説を。
愛玲が提案した「三枚の偽の旅程表」。これは、異なる偽情報を複数の容疑者に渡し、どれが敵に漏れるかで出所(スパイ)を特定する古典的な防諜手法です。第一次大戦期の英独諜報戦などを経て体系化され、諜報の世界では「バリウム・ミール・テスト(胃腸の造影剤になぞらえた呼称)」や「カナリア・トラップ」と呼ばれます。愛玲は、のちの巨大情報機関が採用する教科書通りの手を、この時代にすでに打っています。
最後までお読みいただきありがとうございます。
◇お知らせ◇
初投稿以来、毎日19:40の投稿を続けて参りましたが、次回投稿分より、週3回ペースに変更いたします。毎晩19:40の更新を楽しみにしてくださっていた皆さんには、頻度が落ちてしまい申し訳ございません。
それでも物語完結まで責任をもって書き続けますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします!
この作品は全4部構成で執筆しており、もう少ししますと第1部がクライマックスを迎えます。現在は第2部の執筆に入っていますが、戦史・戦闘の考証に思いのほか時間がかかっており、毎日更新のペースを維持するのが難しくなってきました。一話一話の質を高めてお届けしたいための変更ですので、何卒ご容赦ください。
若干の前後はあり得ますが、基本的には火・木・日の19:40頃に投稿予定です。
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