海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
大正三年(一九一四年)六月下旬。
三宅坂にそびえる陸軍省庁舎の二階、重厚な扉に守られた小会議室には、窓の外の梅雨空を映したような、重苦しく湿った空気が停滞していた。
この日行われていたのは、軍務局に所属する若手幕僚たちによる「次期国防方針」の定期研究発表である。それは建前上、若手の自由な発想を吸い上げるという業務の一環であった。
だが実態は別だ。「天保銭」を胸に輝かせるエリートたちが、上司の顔色を窺いながら無難な自説を述べる、儀礼的な場に過ぎなかった。
その淀んだ空気を、真崎勇気大尉の声が鋭く切り裂いた。
「――以上の観測から、欧州における力の均衡は、今や一触即発の臨界点に達していると推察いたします」
上座に座る軍務局長・神林毅一郎は目を閉じ、その隣に座る郷田中佐は、飛んで火に入る夏の虫を見るような、冷酷な嘲笑を口元に浮かべていた。
(さあ、存分に吠えろ。それが貴様の命取りになる)
真崎は、卓上に広げた欧州全図の一点を指し示した。
彼の脳裏には、数日前に柏木大尉から密かに受け取った、あの生々しい機密電報の内容が焼き付いている。場所は、参謀本部の人気のない片隅――古びた石階段の踊り場という、人影の絶えた死角だった。
むろん、軍務局の公式な場において、参謀本部の暗号室から漏れた外交機密をそのまま口にすることは、即座に軍法会議を意味する。真崎は、柏木から得た「サライェヴォの火種」という特級の情報を、あたかも一学徒としての「国際情勢の幾何学的分析」であるかのように巧妙に抽象化し、国防論の骨格へと組み込んでいた。
「バルカンにおける民族的エネルギーの激突は、列強間の同盟という鎖を通じて、瞬時に全欧州を『自動動員』の渦へと引きずり込むでしょう。その時、戦場を支配するのは、兵士の個別の勇猛さではありません。機関銃による火力の自動化と、それを絶え間なく支える工業生産力――すなわち、国家そのものを巨大な粉砕機に変える『総力戦』の現実であります」
居並ぶ高級将校たちは、真崎が展開するあまりに緻密で、かつ不穏な予言に、戸惑いと不快感を露わにしていた。真崎は一呼吸置き、正面に座る郷田龍一郎中佐を真っ直ぐに見据えた。
「誤解を恐れずに申し上げれば、我が陸軍の誇る『大和魂』は、日本男児の根幹たる気高い思想であり、否定すべきものではありません。しかし……」
真崎は、あえて言葉を選び、しかし断固として続けた。
「それは銃を握る指を支え、一歩前へ進む勇気を与えるものであっても、飛来する七十五ミリ砲弾を跳ね返す装甲にはなり得ないのです。我々に今必要なのは、精神の修養だけでなく、計算された弾道であり、それを前線へ送り届ける兵站の抜本的近代化であります」
*
その瞬間、郷田の脳裏に泥の匂いが蘇った。
明治三十七年(一九〇四年)夏。旅順要塞、第一回総攻撃。
ロシア軍の機関銃陣地から、鉄の雨が弧を描いて降り注いでいた。隣を走っていた小松が、声も上げずに地面に倒れた。頭の上の部分が、消えていた。前を走っていた堀内が、膝から崩れた。腸が、泥の上に青白く広がった。
それでも郷田は走った。
転んだ。泥を顔面で受けた。また立ち上がって走った。銃剣を握る手が震えていた。足が言うことを聞かなかった。それでも走った。叫んだ。喉が引き裂けるほど叫びながら、鉄条網を踏み越えた。
そして生き残った。
郷田は生き残り、小松と堀内は還らなかった。
なぜ自分が生き残ったのか、郷田には理由が分からなかった。分からなかったから、理由を作った。俺は叫んだから生き残った。走り続けたから生き残った。精神が折れなかったから生き残った――そう信じることでしか、あの泥の上に残してきた二人に、向き合う言葉がなかった。
(跳ね返す装甲、か)
郷田は、発表台の真崎を静かに見つめた。
(貴様は、旅順の泥を知らない。だから、そんな言葉が出る)
室内に、針が落ちても聞こえるような静寂が流れた。
真崎の論理に圧倒された沈黙ではない。「神聖なる精神論」を物理現象という低俗な次元に引きずり下ろしたことへの、拒絶の沈黙であった。
郷田は、その沈黙の重さを確かめるように、ゆっくりと腕を解いた。
*
「――真崎大尉、貴公のプレゼンテーションは、なるほど緻密ではある」
郷田中佐が、薄く、しかし冷酷な笑みを浮かべて口を開いた。
「海外の情勢を熱心に分析するのは、情報将校としては殊勝な心掛けだ。だが、貴公の言葉からは、血の匂いがせん。我が陸軍の精華は、装備の多寡にあるのではない。命を以て国恩に報いんとする、至高の精神性にあるのだ。貴公の論理は、それを『跳ね返せない装甲』などと卑近な例えで揶揄した。それは、陸軍の魂への冒涜ではないかね」
「私は現実を述べているのです!」
真崎は一歩も引かなかった。
「精神論という名の心地よい毛布にくるまって、迫りくる鋼鉄の嵐を無視する。それは、将来の戦場で死んでいく数万の将兵に対する背信ではありませんか。大和魂が重要であるからこそ、それを無駄死にさせてはならないのです!」
その言葉に、同席していた天保銭組の将校たちが一斉に色めき立った。
「無礼だぞ、真崎大尉!」
「局長の前で、何をッ……! 分をわきまえぬ発言を!」
軍務局長・神林毅一郎少将は、騒ぎ立てる部下たちを制するように、静かに手を挙げた。
その目は、真崎を「有能だが組織を壊す毒」として、完全に定めた色をしていた。
「……真崎大尉。貴公の分析、興味深く聞いた」
神林の声には、賞賛の中に、切り捨てる者特有の冷徹な静寂が混じっていた。
「だが、残念ながら、今の帝国陸軍に貴公の正論を容れる『器』はない。軍という巨大な機械を動かすのは、『正解』や『正論』ではなく、伝統と秩序なのだ。……この上申書は、今後の陸軍設計の重要資料として、私が預かっておこう」
プレゼンテーションの終了を告げる、神林の短い一言。
それは、真崎という異端の歯車が、巨大な官僚組織の壁に無残に弾き飛ばされた瞬間であった。
*
真崎が退出した後の廊下は、初夏の湿った熱気に包まれていた。
背後の会議室からは、早くも次の発表者の、淀んだ、しかし組織にとって心地よい「大和魂」を連呼する声が漏れ聞こえてくる。
窓の外、麻布の連隊兵営からは、演習に励む兵士たちの、腹の底から絞り出すような叫びが風に乗って届いた。
「突撃ィッ! うおおおおっ!」
それは、いずれ機関銃の餌食になる運命を知らぬまま、銃剣を握りしめて泥を這う、若者たちの無垢な叫びであった。
真崎は拳を固く握りしめ、三宅坂の森を抜けていった。
この国は、自ら目を覚ますことはない。ならば、外部から物理的な衝撃を与えるしかないのだ。
*
翌日、真崎勇気に下されたのは、正式な業務命令としての「参謀本部付、上海駐在」への補職辞令であった。
表向きは栄転、実態は「消毒」としての左遷。
しかし、真崎の瞳に灯った青い炎は、三宅坂の暗い廊下で、より一層強く、静かに燃え上がっていた。
魔都・上海。そこには彼の盟友・
◆あとがき◆
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※本日はこの後、12:00 / 19:40にも最新話を更新予定です。
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