海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
ギュッ、カツン。
硬い革が軋み、磨き上げられた軍靴の踵が石畳を叩く。
出立の朝、新橋駅へと続くガス灯の並ぶ煉瓦通りには、まだ夜明けの青みがかった薄暗さが残っていた。梅雨明け前の湿り気を帯びた重い空気に、遠くから漂う石炭の匂いが混じっている。
独り身の真崎勇気は、重厚な革トランクを提げ、迷いのない足取りで歩を進めていた。
ふと、煉瓦通りの向こうから、一人の女が歩いてきた。
大正初期の帝都の風景には、あまりにも不釣り合いな姿であった。テールの効いた仕立ての良いジャケットに、くるぶしまでを優雅に覆う長いスカート。そして、つばの広いパナマ帽。パリの街角からそのまま抜け出してきたような、洗練された洋装の女である。
(……あの帽子ひとつで、二等卒の俸給が何年分飛ぶ。ああいう手合いには、近寄らんに限る)
真崎は前方のみを見据え、歩調を一切乱さずに通り過ぎる。すれ違いざま、舶来品の甘い香水の匂いが漂った。
パナマ帽の影から、女の切れ長で知的な両眼が、真崎の横顔を一瞬だけ捉えた。
(……目が、死んでいない)
女は短くそれだけを思い、踵を返した。
真崎は一度も振り返ることなく、白煙を吐き出す新橋駅の構内へと姿を消していった。
*
朝八時三十分発、下関行きの「第一特別急行列車」。
一等車のビロード張りの座席で、真崎は膝の上に駅弁を広げた。新橋駅の構内で買い求めた「上等幕の内弁当」である。
(腹が減っては、戦はできん)
どれほど壮大な理想を描こうとも、人間の体は腹を減らす。その物理法則に従うことこそが、精神論を否定する真崎の真骨頂でもあった。
*
数日後、下関から九州へ渡った真崎は、長崎港に降り立っていた。
梅雨明けの刺すような陽射しと、石炭の粉塵、そして異国へと向かう人々の喧騒に包まれた岸壁。そこに横たわる日本郵船の黒い船体を前にして、真崎は船客待合室でカーキ色の軍服を脱いだ。
新たに着込んだのは、麻のスリーピースの背広である。頭には、出立の朝に煉瓦通りですれ違ったあの女と同じように、パナマ帽を目深に被ってみた。
鏡の中に映る姿は、もはや帝国陸軍の将校のものではない。
(……悪くない)
背広の胸の内ポケットには、油紙に包んだ乃木の遺書が、皮膚の温もりを感じるほど密着して忍ばせてある。トランクの底には、村田に託されたモーゼル拳銃と、上申書の控えが沈めてあった。
「……出港十五分前ッ!」
ボーーーッ!
腹の底を揺らす汽笛とともに、船はゆっくりと岸壁を離れ、
*
出港して半刻もしないうちに、真崎は上甲板を一周していた。
右舷に四隻、左舷に四隻。ダビットに吊られた救命艇を、指を折って数えていく。
「お客さん、それで三周目ですよ」
白い上着の
「一隻に、何人乗れる」
「四十人と聞いとります」
「八隻で三百二十。この船の客と乗組員は、合わせて何人だ」
「さあ……二百九十か、そこらで」
「なら、足りるな」
司厨員は、ぽかんと口を開けた。
「……タイタニックの一件からこっち、救命艇を数えなさるお客さんはたまにおられますが、掛け算までされたのは旦那が初めてです」
「足りない船には乗らん主義だ」
「乗ってから数えても、遅いと思いますがね」
真崎は、一瞬黙った。
「……それもそうだ」
*
東シナ海を上海へと向かう日本郵船の一等喫煙室には、ハバナ産の高級シガーの紫煙と、特権階級特有の明るいざわめきが満ちていた。
革張りのソファに身を沈め、真崎は水っぽくなったウイスキーを傾けていた。
手元の英字紙には、数日前の凶報が刷られている。
『オーストリア皇太子、サライェヴォにてセルビア人青年の凶弾に
柏木の電報に書かれていた、あの訪問予定の、その日の出来事である。
隣のカードテーブルでは、欧米の商人たちがポーカーに興じていた。
「バルカンの田舎町で、また野蛮人どもが騒ぎを起こしたらしい」
「我々の商売には関係のない話だ。さあ、カードを配りたまえ」
(愚かな……。火薬庫の導火線に、すでに火は点いたというのに)
真崎が英字紙を握り直した、その時だった。
「――相席、構いませんか」
流暢な日本語が、耳を打った。
年齢は同じか、少し若いか。
まず鼻腔を打ったのは、甘く退廃的な香水だった。次に目に入ったのは、体に完璧に寄り添うアイリッシュ・リネンの三つ揃えと、ベストに光る純銀の鎖。西欧で仕上げられた中国人の青年――一見すればそう見える。
だが、男の所作には無駄がなかった。座る動作にすら、筋肉の隙がない。死線と隣り合わせで生きる者だけが持つ、獣の静けさである。
「……どうぞ。私の買い切った席というわけでもない」
「それはどうも」
男は人懐っこい笑みを浮かべ、真崎の手元の英字紙に視線を落とした。
「滑稽なものですね」
「自分たちが座っている椅子が、今まさに『時限爆弾』に変わったというのに、彼らはまだ手札ばかりを気にしている」
「……時限爆弾、だと?」
「ええ。欧州の同盟の仕組みは、天才的な時計職人が作り上げた『精巧な時計』だ。精密すぎるがゆえに、たった一つの歯車が狂うだけで、すべてが自動的に自壊していく。サライェヴォで鳴ったあの銃声は、その時計を内側から壊す、最初の一撃です」
真崎の心臓が、微かに跳ねた。
それは、参謀本部の地下廊下で柏木と交わした、破滅の論理そのものであった。
「……失礼ながら、貴方は一体」
「ただの、上海のしがない貿易商ですよ」
男は身を乗り出し、声を一段低くした。
「この浮かれた部屋の中で、来るべき本物の『血の匂い』を嗅ぎ取っているのは、あなた一人だけだ。……その背広はよくお似合いですが、隠し切れないものがある。日本の軍人さんは、随分と鼻が利くようだ」
真崎は、言葉を失った。
軍服を脱ぎ、完璧に身分を隠したはずだった。
だが、黙っているのも癪である。
「鼻が利くのは、あなたのせいだ」
「ほう?」
「その香水だ。あなたが座ってから、くしゃみを二度こらえている。どこのものです」
男は、はじめて虚を突かれたように瞬きをした。
「……コティの、ロリガンです」
「量が多すぎる。半分にしたほうが、洒落て見える」
一拍置いて、男は声を立てずに笑った。
「ご忠告、覚えておきましょう」
「……」
「おしゃべりが過ぎましたね」
男は立ち上がり、ステッキを取った。
「ああ、それと。救命艇は八隻で三百二十。今日の乗船は、乗組員を入れて二百八十七です。――足りていますよ。ご安心を」
真崎の背筋を、冷たいものが走った。
甲板で数えていたところを、見られていた。それも、あの司厨員より正確な数字で。
「それでは、よい旅を」
真崎の横をすり抜けざま、男の指先が、足元の革トランクの錠前に一瞬だけ触れた。
歩調を整えるためにステッキを持ち替えただけの、自然な仕草にしか見えない。
だが、その刹那――男の指先から銀色の針が繰り出され、トランクの鍵穴に滑り込んだ。音もなく開いた隙間に、手袋を外した長い指が数ミリだけ差し込まれる。
(……重い『鉄』が一つ。それと、紙の束。……ほう。ただの左遷将校が持ち歩くにしては、随分と物騒なものを詰め込んでいる)
錠は、真崎が振り返るよりも早く、元に戻されていた。二歩進む間の、ほんの一瞬の出来事である。
男は喫煙室の喧騒の中へ溶け込むように消え、あとには、氷の溶けきったウイスキーと、フランソワ・コティの残り香だけが残った。
「……何だったんだ、あの男は」
真崎は、足元のトランクを抱きかかえるように引き寄せた。
錠前の縁に、髪の毛ほどの新しい擦り傷が一本、光っていた。
(開けられた……。気づかぬうちに、中を見られた)
思わず胸の内ポケットを押さえる。油紙の包みは、まだそこにあった。
(……軍服を脱いだだけで、丸裸だったか)
三宅坂の官僚たち相手の政治闘争など、まだルールのある
窓の外で、海の色が変わっていた。東シナ海の澄んだ青は失われ、黄土色に濁った泥水が、波打ちながら船腹を叩いている。長江が運んできた膨大な泥土が海を染める、黄浦江の河口が近い証拠であった。
*
その岸壁に船が接舷し、タラップが降ろされた。
真崎は革トランクを提げて、列に並んだ。
タラップを一段下りるごとに、岸壁の喧騒が耳に迫ってくる。中国語、英語、フランス語、ポルトガル語。怒声と笑い声と物売りの叫びが、分厚い壁のように押し寄せた。
石畳に靴の先が触れた瞬間、真崎は思わず息を止めた。
腐った泥と魚と香辛料と、人の体臭が混じり合った、濃密で不快で、しかし生命力に満ちた匂い。三宅坂の廊下に染みついた墨と
(ここが、魔都か)
岸壁では、
真崎はトランクを握り直し、雑踏の中へ一歩踏み出した。
背後で、汽笛が長く鳴った。
少しだけ種明かしを。
真崎が新橋から乗り込んだ「第一特別急行列車」は実在の列車です。明治45年(1912年)に運行を開始した日本初の特急で、新橋〜下関間を約25時間で結びました。一等車、二等車、食堂車、展望車を連結した当時最高級の列車でしたが、運賃は庶民には手の届かない金額で、乗客の大半は軍高官や財界人でした。
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