海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十九話 端金

 三日目だった。

 

 一日目、真崎は虹口公園の裏手に向かった。誰も来なかった。枯れた草の匂いがした。帰り道に経路を三度変えた。阿毛が首を横に振った。なし、という意味だった。

 二日目、蘇州河の渡し場へ向かった。誰も来なかった。川の反射だけがあった。また阿毛が首を振った。

 笠井はシロだ。服部もシロだ。

 

 三日目は外灘(バンド)波止場の南端だった。

 

 午後一時に分室を出た。戸塚が経費の書類を持ってきたのは昼前だった。几帳面に揃えられた書類だった。真崎はいつもと同じ顔で受け取り、いつもと同じ顔でサインした。戸塚は礼をして去った。真崎はその背中を見なかった。

 

 経路を変え、市場を抜け、川沿いに出た。頭の中で、三人の顔の代わりに一人の顔だけが残った。戸塚。眼鏡の縁が真鍮製の、几帳面な男の顔だ。

 

 波止場まで、あと二丁。

 

 阿毛(アーマォ)が電柱の陰から出てきた。包みも銭も要求しなかった。ただ顎を、波止場の方角へしゃくった。

 

 真崎は足を止めた。

 波止場の南端に、灰色の長衫の男がいた。柵に背を預け、煙草をくわえている。真崎を探している目だった。まだ真崎の姿に気づいていない。

 

 先に、来ていた。

 

 三日間で、今日だけだった。三日目の情報を渡した相手が、出所だ。

 

   *

 

 田辺は書類を一枚も広げていなかった。

 

 真崎が分室の扉を開けると、田辺は机に両肘をついて、ただ待っていた。真崎が「三日目です」と言うと、田辺は即座に言った。

 

「外灘の旅程表を渡したのは、戸塚だ」

 言い切った。一拍の間もなかった。

 

 真崎は田辺の顔を見た。田辺は机の一点を見ていた。その点に何があるのかは、真崎には分からなかった。

「確認します。主計の戸塚大尉、ということですか」

「そうだ」

「……いつから疑っていましたか」

「最初から三人の中の一人だと思っていた。それだけだ」

 田辺はそれだけ言った。沈黙が続いた。長くはなかったが、中身のある沈黙だった。

 

   *

 

 戸塚隆三大尉は、四十一歳だった。

 

 髪が少し薄い。眼鏡の縁が真鍮製で、左のレンズに微かな傷がある。真崎は戸塚とは週に三度は顔を合わせていた。旅費の精算、行動計画の提出、物品の受け取り。そのたびに戸塚は几帳面に書類を確かめ、几帳面に印鑑を押した。上海に来て四年になる、と聞いていた。妻子は本国にいる。家族の写真が机の引き出しに入っていると、笠井軍曹から聞いたことがあった。実直な男だと思っていた。

 

 戸塚は田辺と真崎の前に座り、最初から俯いていた。両手を膝の上に置いていた。几帳面な手だった。

 

「フランス租界のカジノに通っていたな」と田辺が言った。

 

 戸塚は答えなかった。

 

|青幇(チンパン)の闇金に手を出した。いくらだ」

 

「……五百円、ほどです」

 

 田辺は何も言わなかった。真崎も言わなかった。戸塚の月給は在外加給込みで百円には届かない。五百円は半年分だ。

 

「最初は百円でした」と戸塚は続けた。声が低かった。「カジノで一度、大きく勝ちました。四百円ほど。また勝てると思いました。一週間で全部消えました。次の週また行きました。負けました。そのうち取り立て屋が来ました」

 

「最初に情報を求められたのはいつだ」

「二ヶ月ほど前です。取り立て屋が言いました。金でなくていい。真崎大尉がいつどこを出歩くか、それだけ教えてくれれば、次の返済は待ってやると」

 

 田辺は何も言わなかった。

 

「最初は断りました。しかし断ったら翌日また来ました。その次の日も。三日続けて来ました。このまま断り続ければどうなるか、分かっていました」

 

「それで、応じた」

「はい」

「最初はどんな情報を渡した」

「大尉殿が月曜の午前に分室を出る、というだけです」と戸塚は言った。「月に五十円いただきました」

「月給と同じ額か」

「……はい」

 

「大尉殿がどこを歩くかなんて」戸塚は続けた。「たいした話じゃないと思っていました。ただの出張予定です。軍の機密でも何でもない。借金が返せれば、それで終わりのつもりでした。そう思っていました」

 

 田辺が静かに言った。「そうか」

 

 それだけだった。

 

 戸塚は顔を上げなかった。田辺も追及しなかった。真崎も何も言えなかった。戸塚の両手が、膝の上で少し動いた。それだけだった。

 

 部屋に風が入ってきた。窓の隙間から、路地の物売りの声が聞こえた。

 

 「断れなくなっていました」と戸塚はまた言った。「最初の一回が、いけなかった」

 

 田辺は煙草を一本取り出した。火はつけなかった。机の端に置いた。

 

「下がれ」と田辺は言った。

 

 廊下に出た真崎は、扉の前に立った。中の声は聞こえなかった。路地の音が、壁越しに薄く届いていた。物売りの声。荷車の軋み。何かが落ちた。誰かが笑った。

 

 扉の向こうで、田辺が何かを言っている気配があった。戸塚が何かを答えている気配があった。田辺は怒鳴らないだろう、と真崎は思った。田辺はそういう男ではない。それがかえって重かった。

 真崎は壁に寄りかかった。廊下の天井に染みがあった。前からあった染みだ。前から何度も見ていたはずだが、形を覚えていなかった。雨漏りの跡か、それとも別の何かか。

 

 十五分ほどして、扉が開いた。

 

 田辺が出てきた。一歩遅れて、戸塚も出てきた。戸塚は眼鏡を外して、右手で目のあたりを一度だけ押さえた。それから眼鏡をかけ直して、廊下を歩いた。背筋は伸びていた。几帳面な男の歩き方だった。

 扉が閉まると、廊下がまた静かになった。

 

「泳がせる」と田辺は低く言った。「今まで通り青幇の連絡役と接触させる。渡す情報はこちらが用意する」

 

 真崎は頷いた。

 田辺は廊下の窓を一度だけ見た。「これでキイチに送った書類の安全も確保できた」

 

 「あの……」

 「陸軍次官には渡ってる。それ以外は漏れてないってことだ」

 

 真崎は黙った。

 

「もう一つある」田辺は窓の外を向いたまま言った。「戸塚で消えるのは一本だけだ。線はまだある。こちらは別の手で片付ける。お前は知らなくていい」

 

 真崎は何も聞かなかった。

 それが正しい反応だと、田辺の背中が言っていた。

 

   *

 

 分室を出た真崎は、虹口の路地を歩いた。

 

「大尉殿がどこを歩くかなんて、たいした話じゃないと思っていました」

 戸塚の声が、まだ耳に残っていた。

 

 月給と同じ五十円。借金の利子分。それで真崎の動線が青幇に流れ、青幇の網が上海中に張られ、高杉の新拠点への糸が伸びた。大砲でも、会議でも、密約でもなく——几帳面な主計大尉の机の上で、五十円と引き換えに、歴史は穴を開けられかけた。

 

 端金(はしたがね)だった。

 

 真崎は角を折れた。見慣れた路地だった。昼前に戸塚が書類を持ってきた時、戸塚の手が少し震えていたことを、今になって思い出した。あの時は気づかなかった。気づこうとしていなかったのかもしれない。三人の顔に今日と同じ表情を向けろ、と田辺は言った。真崎はそうした。戸塚もそうした。二人は今朝、同じ書類の前で同じ顔をしていた。

 

 真崎は足を止めた。

 

 路地の壁に、冬の日差しが細く当たっていた。縞の端が、石畳の目地にぴたりと嵌まって止まっていた。

 たいした話じゃないと思った男が、たいした話の中にいた。

 

 最初から知っていた者など、どこにもいなかった。




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