海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
三夜目だった。
黒石透は地下一階の無線室で一人、ヘッドホンを耳に当てていた。旧拠点から選別して持ち出した部品を組み直した受信機だ。急襲の夜に壊されたものより性能は劣るが、使えないことはない。ダイヤルを美濃部の周波数に合わせる。無音。微調整する。また無音。
三夜、繋がらない。
黒石はヘッドホンを首にかけ、受信機を見た。周波数は正しい。機材の問題でもない。それだけは確認できている。では帝都側か——東京の受信機が損傷したか。美濃部が別の任務で定時通信を停止しているか。それとも、黒石の知らない別の理由があるか。どれも確認できない。旧拠点で受信機が叩き壊された夜から、美濃部のフィストを一度も聞いていなかった。
あの夜、東京から届いていた紙が、床に叩きつけられて粉砕された。
黒石は手の甲を見た。殴り返した時の感触が、まだ残っている気がした。そういう気がするだけで、傷はとうに塞がっていた。
煙草を取り出した。吸わずに置いた。
苛立ちでダイヤルをゆっくりと広げ始めた。鉱石検波器は選択度が低い。帯域を広げると、強い電波が容赦なく混信してくる。船舶通信帯に入った時、英語とオランダ語の混じった音声が飛び込んできた。商船の通信だ。積荷と位置情報のやり取りらしかった。
黒石は聞き流そうとした。
そこで、固有名詞が一つ、聞こえた。
「……
黒石の指が止まった。
*
秋月慧と潮崎拓馬が、三十分前から椅子に座っている。
向かいにいるのはコーネリウス・ハーヘンだった。六十七歳。禿頭で白い口髭。視線は穏やかだが、慣れた商人の目だ。上海に三十年いる蘭系の海運代理人で、蘭印から香料や石油製品を扱うネットワークを持っている。机の上に茶を二杯置いて、自分は何も飲まない。
コーネリウスがこの場に座っているのは、ヘンドリック医師の名があったからだ。上海のオランダ人の間でヘンドリックを知らない者はいない。その男が「話を聞いてほしい」と言ったなら、無下にはできない。秋月はすでに、海軍の補給ルートへの発注について非公式に示唆していた。信用と実利が揃った時だけ、この男は椅子に深く腰かける。
コーネリウスは両腕を組み、秋月を一度だけ値踏みするように見た。
「蘭印の石油を動かせる家はどこか」と秋月が言った。
秋月が確かめたかったのは名前ではなく、その家が今も実権を持っているかどうかだった。
コーネリウスは白い口髭を一度だけ撫でた。「一つだけだ」
「名前を」
「van der Bijl」
抑揚なく言った。「あの家だけが、王室の資産と一緒に動かせる。他の家はどこも借りてくることしかできない。ロイヤル・ダッチとて、最後にファン・デル・ベイルの印鑑がなければ動かない。そういう仕組みになっている。あなた方の国が蘭印の石油を本当に必要とするなら、まずあの家に話をつけることだ」
秋月は何も書かなかった。耳に刻んだ。
「ベイル家には、今、一人の方が家を継いでいる」とコーネリウスは続けた。「父君はご存命だが、ずいぶん前に家督ごとすべてその方に譲られた。石油の仕事にはもうこりごりだ、ゆっくりボートで釣りでもしたいとかで、今はオランダで静かにしておられると聞いている。その方は王室との関係も引き継いでいる。業界では、父君より遣り手だという者もいる」
秋月が一度だけ、「長男か」と聞いた。
コーネリウスは首を横に振った。「長女だ」
コーネリウスが茶を一口飲んだ。それから、ふと思い出したように言った。「以前も、似たような話をしたことがある」
「誰と」
「英国の方だ。同じことを聞きに来た。蘭印の石油を動かすには誰に話をつければいいか、と。半年ほど前だったか」
潮崎が秋月を一度だけ見た。秋月は視線を動かさなかった。
「あの路地の建物で、夜に会った。英国公使館の方だったと思う。車を路地に停めて、二十分ほど話した。私は同じことを教えた。ファン・デル・ベイルだ、と。英国の方は満足して帰られた」
「どの路地か」
コーネリウスが窓を顎で示した。「あそこの突き当たりだ。外灘の大通りから一本入ったところ」
潮崎が静かに言った。「外灘の裏手、ですね」
コーネリウスは首を傾けた。「あなた方も知っているか」
「いや知らない」
「そうか……なぜか後部座席にあったデキャンタの水が周囲にまかれていた、と聞いたのだが……。不審な者に狙われていなければいいのだが」
秋月と潮崎は顔を合わせた。
*
黒石は受信紙を手繰り寄せた。
積荷記録のやり取りの中に、固有名詞が三度出てきていた。いずれも同じ打鍵だ。「van der Bijl」。フィストは一定で、慣れた通信士の手だった。
美濃部のフィストとは全く違う——無意識に比べていた自分に、黒石は気づいた。
美濃部のフィストは休符が少し長い。音符と音符の間に、かすかな息がある。黒石はそれを三秒で見分けられる。最初は機械として識別していた。音の特徴値を記録して、照合する。それだけだった。いつからか、その特定の癖を待つようになっていた。いつからかは、分からなかった。
この通信士のフィストには息がない。機械的で正確で、感情が入らない。誰かではなく、職業としての通信士だ。
黒石は電鍵に右手を置いた。美濃部の周波数はまだ合わせてある。一打鍵すれば届くかもしれない。届かないかもしれない。
手を、そのまま置いていた。
それから、そっと離した。
受信紙の余白にカタカナで書いた。「ベイル」。それから「家」と書いた。三度出た固有名詞が、紙の上で静止した。何者か分からない。なぜ三度出てくるのかも分からない。
だが、三度出たことは確かだ。
*
外に出ると、川の匂いがした。
秋月は煙草に火をつけた。潮崎が隣を歩く。
「今夜、三つのことが動いた」と秋月は言った。「真崎曰く、書類は大島次官に届いたとのこと。陸軍分室からの機密漏れは塞がった。そしてファン・デル・ベイルという名前が音になった」
潮崎は少し間を置いた。「英国はもうオランダと話しています。半年前から」
「そうだ」
秋月は煙草の煙を川の方へ吐いた。「真崎から聞いた話がある。外灘の裏路地で、英国公使館の高級車に爆弾が仕掛けられていたことがあった。いや、仕掛けたのはこちらか……。高官が車を離れていた二十分間、誰も周りにはいなかった」
「あの二十分に」と潮崎は言った。
「そうだ。英国とオランダは、あの二十分にも話していた」
秋月は歩き続けた。「日英蘭の三国が揃わなければならないなら——日本だけが、今も遅れている。しかもその遅れを、当の日本が知らない」
路地の先に、黄浦江の灯りが見えた。水面が、夜の光を細かく砕いていた。
「ベイル家では、父親が隠居して、その女が家を継いでいる。王室との関係を、今はその人間が持っている」
潮崎が一拍置いた。「接触できますか」
「それを考えている」
「真崎大尉から聞きましたが——ベイル卿と高杉先生は旧知の間柄なんですよね。先生に仲介してもらうわけには」
「ベイル卿は引退した。高杉先生も同じだ」秋月は煙を吐いた。「爺さん同士の縁は、爺さん同士で終わらせておくのが礼儀というものだ」
潮崎は黙った。
秋月はまた一口吸い、煙を吐いた。急かされている気分になる。それが嫌だった。だが事実は事実だ。
*
黒石は「ベイル家」という文字を見ていた。
美濃部の周波数のダイヤルは、まだその位置にある。合わせたまま、動かしていない。
明日、また試みる。今夜はまずこの名前を解析する。黒石は別の紙を引き寄せ、鉛筆を走らせ始めた。傍受した信号の全体を並べ直して、ファン・デル・ベイルという名前が何の文脈で出てくるかを確かめる。
受信機は静かだった。美濃部のフィストは、今夜も来なかった。
少しだけ解説を。
本話に登場する「ロイヤル・ダッチ」は実在の企業です。1907年、オランダのロイヤル・ダッチ・ペトロリアムと英国のシェル・トランスポートが合併し、蘭印(現インドネシア)の油田利権を英蘭二国で共同支配する巨大資本が誕生しました。日本が太平洋戦争直前に南方へ手を伸ばした理由の、根っこにあたる話です。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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