海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

71 / 74
第七十話 周波数の向こう

 三夜目だった。

 

 黒石透は地下一階の無線室で一人、ヘッドホンを耳に当てていた。旧拠点から選別して持ち出した部品を組み直した受信機だ。急襲の夜に壊されたものより性能は劣るが、使えないことはない。ダイヤルを美濃部の周波数に合わせる。無音。微調整する。また無音。

 

 三夜、繋がらない。

 

 黒石はヘッドホンを首にかけ、受信機を見た。周波数は正しい。機材の問題でもない。それだけは確認できている。では帝都側か——東京の受信機が損傷したか。美濃部が別の任務で定時通信を停止しているか。それとも、黒石の知らない別の理由があるか。どれも確認できない。旧拠点で受信機が叩き壊された夜から、美濃部のフィストを一度も聞いていなかった。

 

 あの夜、東京から届いていた紙が、床に叩きつけられて粉砕された。

 

 黒石は手の甲を見た。殴り返した時の感触が、まだ残っている気がした。そういう気がするだけで、傷はとうに塞がっていた。

 

 煙草を取り出した。吸わずに置いた。

 

 苛立ちでダイヤルをゆっくりと広げ始めた。鉱石検波器は選択度が低い。帯域を広げると、強い電波が容赦なく混信してくる。船舶通信帯に入った時、英語とオランダ語の混じった音声が飛び込んできた。商船の通信だ。積荷と位置情報のやり取りらしかった。

 

 黒石は聞き流そうとした。

 

 そこで、固有名詞が一つ、聞こえた。

 

「……van(ファン) der《デル》 Bijl《ベイル》……」

 

 黒石の指が止まった。

 

  *

 

 外灘(バンド)から二本入った路地に、古い木造の建物があった。一階が倉庫、二階が小さな事務所になっている。廊下に香料の匂いが残っていた。それに混じって、かすかな石油の匂いがした。

 

 秋月慧と潮崎拓馬が、三十分前から椅子に座っている。

 

 向かいにいるのはコーネリウス・ハーヘンだった。六十七歳。禿頭で白い口髭。視線は穏やかだが、慣れた商人の目だ。上海に三十年いる蘭系の海運代理人で、蘭印から香料や石油製品を扱うネットワークを持っている。机の上に茶を二杯置いて、自分は何も飲まない。

 

 コーネリウスがこの場に座っているのは、ヘンドリック医師の名があったからだ。上海のオランダ人の間でヘンドリックを知らない者はいない。その男が「話を聞いてほしい」と言ったなら、無下にはできない。秋月はすでに、海軍の補給ルートへの発注について非公式に示唆していた。信用と実利が揃った時だけ、この男は椅子に深く腰かける。

 

 コーネリウスは両腕を組み、秋月を一度だけ値踏みするように見た。

 

「蘭印の石油を動かせる家はどこか」と秋月が言った。

秋月が確かめたかったのは名前ではなく、その家が今も実権を持っているかどうかだった。

 

 コーネリウスは白い口髭を一度だけ撫でた。「一つだけだ」

 

「名前を」

 

「van der Bijl」

 

 抑揚なく言った。「あの家だけが、王室の資産と一緒に動かせる。他の家はどこも借りてくることしかできない。ロイヤル・ダッチとて、最後にファン・デル・ベイルの印鑑がなければ動かない。そういう仕組みになっている。あなた方の国が蘭印の石油を本当に必要とするなら、まずあの家に話をつけることだ」

 

 秋月は何も書かなかった。耳に刻んだ。

 

 「ベイル家には、今、一人の方が家を継いでいる」とコーネリウスは続けた。「父君はご存命だが、ずいぶん前に家督ごとすべてその方に譲られた。石油の仕事にはもうこりごりだ、ゆっくりボートで釣りでもしたいとかで、今はオランダで静かにしておられると聞いている。その方は王室との関係も引き継いでいる。業界では、父君より遣り手だという者もいる」

 

 秋月が一度だけ、「長男か」と聞いた。

 コーネリウスは首を横に振った。「長女だ」

 

 コーネリウスが茶を一口飲んだ。それから、ふと思い出したように言った。「以前も、似たような話をしたことがある」

 「誰と」

 「英国の方だ。同じことを聞きに来た。蘭印の石油を動かすには誰に話をつければいいか、と。半年ほど前だったか」

 

 潮崎が秋月を一度だけ見た。秋月は視線を動かさなかった。

 

「あの路地の建物で、夜に会った。英国公使館の方だったと思う。車を路地に停めて、二十分ほど話した。私は同じことを教えた。ファン・デル・ベイルだ、と。英国の方は満足して帰られた」

「どの路地か」

 コーネリウスが窓を顎で示した。「あそこの突き当たりだ。外灘の大通りから一本入ったところ」

 潮崎が静かに言った。「外灘の裏手、ですね」

 コーネリウスは首を傾けた。「あなた方も知っているか」

「いや知らない」

「そうか……なぜか後部座席にあったデキャンタの水が周囲にまかれていた、と聞いたのだが……。不審な者に狙われていなければいいのだが」

 

 秋月と潮崎は顔を合わせた。

 

  *

 

 黒石は受信紙を手繰り寄せた。

 

 積荷記録のやり取りの中に、固有名詞が三度出てきていた。いずれも同じ打鍵だ。「van der Bijl」。フィストは一定で、慣れた通信士の手だった。

 

 美濃部のフィストとは全く違う——無意識に比べていた自分に、黒石は気づいた。

 

 美濃部のフィストは休符が少し長い。音符と音符の間に、かすかな息がある。黒石はそれを三秒で見分けられる。最初は機械として識別していた。音の特徴値を記録して、照合する。それだけだった。いつからか、その特定の癖を待つようになっていた。いつからかは、分からなかった。

 

 この通信士のフィストには息がない。機械的で正確で、感情が入らない。誰かではなく、職業としての通信士だ。

 

 黒石は電鍵に右手を置いた。美濃部の周波数はまだ合わせてある。一打鍵すれば届くかもしれない。届かないかもしれない。

 手を、そのまま置いていた。

 それから、そっと離した。

 受信紙の余白にカタカナで書いた。「ベイル」。それから「家」と書いた。三度出た固有名詞が、紙の上で静止した。何者か分からない。なぜ三度出てくるのかも分からない。

 

 だが、三度出たことは確かだ。

 

   *

 

 外に出ると、川の匂いがした。

 

 秋月は煙草に火をつけた。潮崎が隣を歩く。

「今夜、三つのことが動いた」と秋月は言った。「真崎曰く、書類は大島次官に届いたとのこと。陸軍分室からの機密漏れは塞がった。そしてファン・デル・ベイルという名前が音になった」

 潮崎は少し間を置いた。「英国はもうオランダと話しています。半年前から」

「そうだ」

 秋月は煙草の煙を川の方へ吐いた。「真崎から聞いた話がある。外灘の裏路地で、英国公使館の高級車に爆弾が仕掛けられていたことがあった。いや、仕掛けたのはこちらか……。高官が車を離れていた二十分間、誰も周りにはいなかった」

「あの二十分に」と潮崎は言った。

「そうだ。英国とオランダは、あの二十分にも話していた」

 

 秋月は歩き続けた。「日英蘭の三国が揃わなければならないなら——日本だけが、今も遅れている。しかもその遅れを、当の日本が知らない」

 

 路地の先に、黄浦江の灯りが見えた。水面が、夜の光を細かく砕いていた。

 

「ベイル家では、父親が隠居して、その女が家を継いでいる。王室との関係を、今はその人間が持っている」

 潮崎が一拍置いた。「接触できますか」

「それを考えている」

「真崎大尉から聞きましたが——ベイル卿と高杉先生は旧知の間柄なんですよね。先生に仲介してもらうわけには」

「ベイル卿は引退した。高杉先生も同じだ」秋月は煙を吐いた。「爺さん同士の縁は、爺さん同士で終わらせておくのが礼儀というものだ」

 

 潮崎は黙った。

 秋月はまた一口吸い、煙を吐いた。急かされている気分になる。それが嫌だった。だが事実は事実だ。

 

   *

 

 黒石は「ベイル家」という文字を見ていた。

 美濃部の周波数のダイヤルは、まだその位置にある。合わせたまま、動かしていない。

 明日、また試みる。今夜はまずこの名前を解析する。黒石は別の紙を引き寄せ、鉛筆を走らせ始めた。傍受した信号の全体を並べ直して、ファン・デル・ベイルという名前が何の文脈で出てくるかを確かめる。

 

 受信機は静かだった。美濃部のフィストは、今夜も来なかった。




少しだけ解説を。
本話に登場する「ロイヤル・ダッチ」は実在の企業です。1907年、オランダのロイヤル・ダッチ・ペトロリアムと英国のシェル・トランスポートが合併し、蘭印(現インドネシア)の油田利権を英蘭二国で共同支配する巨大資本が誕生しました。日本が太平洋戦争直前に南方へ手を伸ばした理由の、根っこにあたる話です。

最後までお読みいただきありがとうございます。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。