海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第七十一話 再会の河港

 蘇州河(そしゅうが)の橋を渡り終えた時、前方に待っている男がいた。ドイツ系の煙草の匂いが、先に来た。

 

 夕暮れ前の埠頭は、まだ動いていた。

 

 石炭の袋を背負った苦力(クーリー)が一列になって板を踏んでいる。(はしけ)から岸へ、岸から艀へ。単調で重い往復だ。どこを見るでもなく、顔を上げない。空は橙色になりかけていたが、川面はまだ昼の灰色をしていた。水の匂いに石炭の埃が混じっている。荷を落とした音が響いて、また静かになった。

 

 真崎が経路を変えて三度目の蘇州河に出た時、西の光がちょうど橋の上から消えるところだった。一日の終わりに近い、人の疲れた声と荷の音だけが続く時間帯だ。どの顔も前を向いていない。誰も真崎を見ていない。

 

 その端に、男が一人、川を眺めるように立っていた。

 

 重心が低かった。肩が揺れない。動いていないのに、空気がその男のところで少し変わっている。右腕に白い三角巾。——真崎は足を止めた。距離、十メートル。

 

 振り返っても別の顔にならない。あの男だ。

 

 青島(チンタオ)のビスマルク砲台の前で背後に見た、あの立ち方と同じだった。

 

   *

 

 男が近づいてきた。重心を保ったまま、足音がない。歩くたびに地面が圧縮されていくような移動だ。引き寄せられる感じではなく、詰められていく感じだった。一歩ごとに、周囲の空気が少しずつ薄くなるような気がした。

 

 真崎は後ろに一歩引いた。距離を測った。公共の場だ。苦力が何十人もいる。フランス租界の警吏が一時間に一度通る道だ。どちらも手を出せない。相手も知っている。

 

 男が二メートルほどのところで止まった。煙草を指に挟んだまま、真崎を見た。

 

「逃げなくていい」と男は言った。日本語だった。抑揚が平らで、感情の置き場所がない声だ。「今日は話をしに来ただけだ」

 

「青島のビスマルク砲台以来だ」

 

 真崎は答えなかった。

 

「あの時は退散した。右腕を撃たれた」と男は続けた。三角巾に目を向けることもなく言った。「イギリス人の余計な口出しがなければ、もう少し面白い場面になっていたかもしれん」

 

 面白い場面。この男の語彙だと思った。

 

 二人は蘇州河を背にして、少し距離を置いて立った。苦力の作業音が遠く続いている。男が煙草を一口吸った。

 

「真崎勇気大尉」と男は言った。「帝国陸軍上海分室、田辺少佐の下で動いている」

 真崎は何も言わなかった。

「水曜の夜はたいてい虹口(ゴンコゥ)の永楽楼の二階だな」

 

 料理屋の名だった。本物の情報だ。真崎の頭の中で確認が走った。(戸塚から来た情報だ。だが戸塚の手元は今、田辺が仕込んだ偽の情報に変わっていく。この男が今後受け取る動線情報は嘘になる)

 

「何が望みだ」と真崎は言った。

「お前個人には何も望まない」男は川の方を見た。「お前の上に誰がいるかを知りたい。お前だけではこの仕事はできない。後ろ盾がいる」

「上官がいる。陸軍の将校だ。それ以外に何が要る」

 

 男は少し間を置いた。煙草を指で持ち直した。「使い走りか……いや、ただの駒か」

「使い走りでも駒でもない」

「そうか」

 

 男は煙草を吸った。何かを試すような沈黙があった。一艘の艀が通り過ぎた。水が揺れた。苦力が板を踏んだ。

 

「女スパイとずいぶん仲良くしているようだな」

 

 真崎は一拍だけ止まった。それだけだった。(見ていた。愛鈴(アイリィン)と一緒にいるところを)「仕事の話をしているのか」

 

 男は表情を変えなかった。「仕事の話だ」と言った。「分室の中の機密の穴は塞がったか」

「知らない。何のことだ」

「そうか」

 

 また「そうか」だった。確認を求めていない声だ。答えを聞かなくても知っていると言っている声だった。真崎は息を一定に保った。(この男は穴が塞がったことを知っている。だが逆用は知らないはずだ。知っていれば別の動きをしている)

 

 視線の先で、苦力が一人、荷を落とした。親方らしい男が怒鳴る。拾い直して歩き続ける。誰も立ち止まらない。

 

「三十年以上前に、父の縄張りを奪った老人がいる」と男は言った。川を見たまま言った。

 真崎は何も言わなかった。

「その老人が上海にいることは知っている。まだ生きている。お前はその老人の手足として動いているのではないか」

「陸軍の将校だと言った。二度目だ」

「そうだな」男はわずかに口の端を動かした。笑ったのかもしれない。「お前は口が固そうだからな。本当のところは言わんのだろう」

 

 間があった。川から風が来た。石炭の埃が空に散った。

 

「三十年分の話は、またいつかゆっくりする」

 真崎は空気を一度だけ嗅いだ。煙草の匂いだけだった。

「ロリガンはやめたか」と真崎は言った。

 男は少し間を置いた。「右腕がこんな調子では」と言った。「瓶を開けるのも面倒だ」

「そうか」

 

 男の口の端が、わずかに動いた。

 男が煙草を最後まで吸い切り、川に落とした。「次はもっとキレイな場所で会おう」

 

 それだけ言って、男は苦力の流れの中に歩いていった。重心の低い、音のない歩き方で。一歩、二歩。人の波に、溶けた。

 

   *

 

 真崎はしばらく動かなかった。追うという選択肢は最初からない。ここは青幇(チンパン)の縄張りだ。橋の向こうにも人がいる。

 

 夕暮れが蘇州河に来ていた。石炭の埃が橙の光の中に浮いている。苦力は板を踏み続けている。誰も止まらない。誰も見ていない。

 

 頭の中で三つを並べた。

 

 一つ——永楽楼の二階。本物の情報だ。戸塚経由。しかし今後の動線は偽物になっていく。あの男の手元が少しずつ腐っていくのを、あの男は知らない。

 

 二つ——機密の穴。知っていた。穴が塞がったことを知っている。だが逆用は知らないはずだ。「そうか」で流したのは確認できなかったからではない。真崎の顔を読もうとしていた。(読まれたか)——分からない。

 

 三つ——老人。「父の縄張りを奪った老人」。名前も場所も言わなかった。だが根っこはそこだ。三十年分の遺恨。その重さで動いている男は、止まらない。

 

「次はもっとキレイな場所で会おう」

 キレイな場所。この男がキレイだと思う場所は、どこだ。ただのキザな別れの言葉か。

 

 真崎は川から目を離した。日が暮れている。

 今夜、高杉の拠点へ向かう。経路をまた変える。明日、田辺に報告する。それだけだ。

 

   *

 

 帝都は、その日も人が多かった。

 

 銀座のカフェーに冴子が先に着いた。窓際の席を選んだ。外が見える。往来の人間の顔が確認できる。

 

 咲夜が現れた時、冴子は一秒で分かった。南洋帰りの、一枚の紙から三人の懐に手を伸ばした女だ。歩き方に海の風みたいなものがあった。帝都の令嬢にない歩幅の広さ。向かい合って座る前から、値踏みする目つきを隠しもしなかった。

 

「はじめまして」と冴子が言った。

「はじめまして」と咲夜が言った。

 

 どちらも「やっと」と思っていた。どちらも「使い倒してやろう」と思っていた。

 

 ウエイターがコーヒーを二つ置いた。

 

「先に申し上げますが」と咲夜が言った。「長崎の写し、海軍の方がお買い上げくださると」

「名前は」と冴子が言った。

「さすがに言えませぬが、海軍の方です」

「お断りになりなさい。二倍で私が買います」

 咲夜がひと呼吸置いた。「二倍」

「二倍です」

 咲夜はコーヒーを一口飲んだ。冴子もコーヒーを一口飲んだ。

「よろしゅうございます」と咲夜が言った。

 

 どちらも笑わなかった。どちらも本物だと確認した。それで十分だった。

 

「咲夜さん」

「咲夜でいい」

「私も冴子と呼んで」

「咲夜、ミルクも砂糖もいらないの?」

「要りませんわ。そういうあなたも」

「苦い方が好きなの」

 

 「男の方で砂糖をたくさん入れる方いるでしょ。私、あまり好きませんの」と冴子が言った。

 「そうかしら。私は特に気にしないけど」と咲夜は言った。

 

「それ」と冴子が言った。「その帯留め。どこで」

 

 咲夜が衿元に目をやった。「横浜の旧居留地で見つけました。ベルギーのレースに、蝶を一つ」

 

「雑誌で見たことがある。現物は初めてよ。見せてもらえる?」

 

 咲夜が外した。冴子の掌に乗った。

 

「縫い方が違う」と冴子が言った。「機械じゃないわ。手仕事だ」

 

 「職人が三人で分業するそうです。ブリュッセルの工房から来たものを、横浜のオランダ人商人が入れていて——」

 

「ベルギーとオランダが混ざってくるのはなぜ」

「国境が近いんです。私も最初は混乱しました」

「南洋でそういう話を」

「ええ。ポナペ島でオランダ人の商人と知り合いまして」

 冴子が咲夜を見た。「ポナペ島のオランダ人が、ブリュッセルのレースの話を」

「五時間は話しました」

 

 冴子が笑った。声が出た。久しぶりに声が出た気がした。

 

「あなた、怖い人ね」

「金になる話ならどこへでも行きます」

「私も似たようなものよ。楽しい話なら」

 

 二人はしばらく笑っていた。コーヒーが冷めた。まだ話が尽きなかった。

 笑いが落ち着いた時、冴子は窓の外を見た。

 軍服の将校が一人、銀座の往来を歩いていた。真っ直ぐに、どこかへ向かっている。

 

 お父様の周辺が、動いている。上海から、糸が来ている。

 

「もう一杯頼みましょうか」と咲夜が言った。

「そうしましょう」と冴子が言った。




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