海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
夕暮れ前の埠頭は、まだ動いていた。
石炭の袋を背負った
真崎が経路を変えて三度目の蘇州河に出た時、西の光がちょうど橋の上から消えるところだった。一日の終わりに近い、人の疲れた声と荷の音だけが続く時間帯だ。どの顔も前を向いていない。誰も真崎を見ていない。
その端に、男が一人、川を眺めるように立っていた。
重心が低かった。肩が揺れない。動いていないのに、空気がその男のところで少し変わっている。右腕に白い三角巾。——真崎は足を止めた。距離、十メートル。
振り返っても別の顔にならない。あの男だ。
*
男が近づいてきた。重心を保ったまま、足音がない。歩くたびに地面が圧縮されていくような移動だ。引き寄せられる感じではなく、詰められていく感じだった。一歩ごとに、周囲の空気が少しずつ薄くなるような気がした。
真崎は後ろに一歩引いた。距離を測った。公共の場だ。苦力が何十人もいる。フランス租界の警吏が一時間に一度通る道だ。どちらも手を出せない。相手も知っている。
男が二メートルほどのところで止まった。煙草を指に挟んだまま、真崎を見た。
「逃げなくていい」と男は言った。日本語だった。抑揚が平らで、感情の置き場所がない声だ。「今日は話をしに来ただけだ」
「青島のビスマルク砲台以来だ」
真崎は答えなかった。
「あの時は退散した。右腕を撃たれた」と男は続けた。三角巾に目を向けることもなく言った。「イギリス人の余計な口出しがなければ、もう少し面白い場面になっていたかもしれん」
面白い場面。この男の語彙だと思った。
二人は蘇州河を背にして、少し距離を置いて立った。苦力の作業音が遠く続いている。男が煙草を一口吸った。
「真崎勇気大尉」と男は言った。「帝国陸軍上海分室、田辺少佐の下で動いている」
真崎は何も言わなかった。
「水曜の夜はたいてい
料理屋の名だった。本物の情報だ。真崎の頭の中で確認が走った。(戸塚から来た情報だ。だが戸塚の手元は今、田辺が仕込んだ偽の情報に変わっていく。この男が今後受け取る動線情報は嘘になる)
「何が望みだ」と真崎は言った。
「お前個人には何も望まない」男は川の方を見た。「お前の上に誰がいるかを知りたい。お前だけではこの仕事はできない。後ろ盾がいる」
「上官がいる。陸軍の将校だ。それ以外に何が要る」
男は少し間を置いた。煙草を指で持ち直した。「使い走りか……いや、ただの駒か」
「使い走りでも駒でもない」
「そうか」
男は煙草を吸った。何かを試すような沈黙があった。一艘の艀が通り過ぎた。水が揺れた。苦力が板を踏んだ。
「女スパイとずいぶん仲良くしているようだな」
真崎は一拍だけ止まった。それだけだった。(見ていた。
男は表情を変えなかった。「仕事の話だ」と言った。「分室の中の機密の穴は塞がったか」
「知らない。何のことだ」
「そうか」
また「そうか」だった。確認を求めていない声だ。答えを聞かなくても知っていると言っている声だった。真崎は息を一定に保った。(この男は穴が塞がったことを知っている。だが逆用は知らないはずだ。知っていれば別の動きをしている)
視線の先で、苦力が一人、荷を落とした。親方らしい男が怒鳴る。拾い直して歩き続ける。誰も立ち止まらない。
「三十年以上前に、父の縄張りを奪った老人がいる」と男は言った。川を見たまま言った。
真崎は何も言わなかった。
「その老人が上海にいることは知っている。まだ生きている。お前はその老人の手足として動いているのではないか」
「陸軍の将校だと言った。二度目だ」
「そうだな」男はわずかに口の端を動かした。笑ったのかもしれない。「お前は口が固そうだからな。本当のところは言わんのだろう」
間があった。川から風が来た。石炭の埃が空に散った。
「三十年分の話は、またいつかゆっくりする」
真崎は空気を一度だけ嗅いだ。煙草の匂いだけだった。
「ロリガンはやめたか」と真崎は言った。
男は少し間を置いた。「右腕がこんな調子では」と言った。「瓶を開けるのも面倒だ」
「そうか」
男の口の端が、わずかに動いた。
男が煙草を最後まで吸い切り、川に落とした。「次はもっとキレイな場所で会おう」
それだけ言って、男は苦力の流れの中に歩いていった。重心の低い、音のない歩き方で。一歩、二歩。人の波に、溶けた。
*
真崎はしばらく動かなかった。追うという選択肢は最初からない。ここは
夕暮れが蘇州河に来ていた。石炭の埃が橙の光の中に浮いている。苦力は板を踏み続けている。誰も止まらない。誰も見ていない。
頭の中で三つを並べた。
一つ——永楽楼の二階。本物の情報だ。戸塚経由。しかし今後の動線は偽物になっていく。あの男の手元が少しずつ腐っていくのを、あの男は知らない。
二つ——機密の穴。知っていた。穴が塞がったことを知っている。だが逆用は知らないはずだ。「そうか」で流したのは確認できなかったからではない。真崎の顔を読もうとしていた。(読まれたか)——分からない。
三つ——老人。「父の縄張りを奪った老人」。名前も場所も言わなかった。だが根っこはそこだ。三十年分の遺恨。その重さで動いている男は、止まらない。
「次はもっとキレイな場所で会おう」
キレイな場所。この男がキレイだと思う場所は、どこだ。ただのキザな別れの言葉か。
真崎は川から目を離した。日が暮れている。
今夜、高杉の拠点へ向かう。経路をまた変える。明日、田辺に報告する。それだけだ。
*
帝都は、その日も人が多かった。
銀座のカフェーに冴子が先に着いた。窓際の席を選んだ。外が見える。往来の人間の顔が確認できる。
咲夜が現れた時、冴子は一秒で分かった。南洋帰りの、一枚の紙から三人の懐に手を伸ばした女だ。歩き方に海の風みたいなものがあった。帝都の令嬢にない歩幅の広さ。向かい合って座る前から、値踏みする目つきを隠しもしなかった。
「はじめまして」と冴子が言った。
「はじめまして」と咲夜が言った。
どちらも「やっと」と思っていた。どちらも「使い倒してやろう」と思っていた。
ウエイターがコーヒーを二つ置いた。
「先に申し上げますが」と咲夜が言った。「長崎の写し、海軍の方がお買い上げくださると」
「名前は」と冴子が言った。
「さすがに言えませぬが、海軍の方です」
「お断りになりなさい。二倍で私が買います」
咲夜がひと呼吸置いた。「二倍」
「二倍です」
咲夜はコーヒーを一口飲んだ。冴子もコーヒーを一口飲んだ。
「よろしゅうございます」と咲夜が言った。
どちらも笑わなかった。どちらも本物だと確認した。それで十分だった。
「咲夜さん」
「咲夜でいい」
「私も冴子と呼んで」
「咲夜、ミルクも砂糖もいらないの?」
「要りませんわ。そういうあなたも」
「苦い方が好きなの」
「男の方で砂糖をたくさん入れる方いるでしょ。私、あまり好きませんの」と冴子が言った。
「そうかしら。私は特に気にしないけど」と咲夜は言った。
「それ」と冴子が言った。「その帯留め。どこで」
咲夜が衿元に目をやった。「横浜の旧居留地で見つけました。ベルギーのレースに、蝶を一つ」
「雑誌で見たことがある。現物は初めてよ。見せてもらえる?」
咲夜が外した。冴子の掌に乗った。
「縫い方が違う」と冴子が言った。「機械じゃないわ。手仕事だ」
「職人が三人で分業するそうです。ブリュッセルの工房から来たものを、横浜のオランダ人商人が入れていて——」
「ベルギーとオランダが混ざってくるのはなぜ」
「国境が近いんです。私も最初は混乱しました」
「南洋でそういう話を」
「ええ。ポナペ島でオランダ人の商人と知り合いまして」
冴子が咲夜を見た。「ポナペ島のオランダ人が、ブリュッセルのレースの話を」
「五時間は話しました」
冴子が笑った。声が出た。久しぶりに声が出た気がした。
「あなた、怖い人ね」
「金になる話ならどこへでも行きます」
「私も似たようなものよ。楽しい話なら」
二人はしばらく笑っていた。コーヒーが冷めた。まだ話が尽きなかった。
笑いが落ち着いた時、冴子は窓の外を見た。
軍服の将校が一人、銀座の往来を歩いていた。真っ直ぐに、どこかへ向かっている。
お父様の周辺が、動いている。上海から、糸が来ている。
「もう一杯頼みましょうか」と咲夜が言った。
「そうしましょう」と冴子が言った。
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