海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
十二月二十五日の夜明け前、永田鉄山はその話を聞いた。
昨夜、西部戦線のフランドル地方のどこかで、英国兵とドイツ兵が塹壕から出た。クリスマスツリーを飾り、「きよしこの夜」を歌い始めたのはドイツ側だった。英国兵がそれに応じた。中間地帯のぬかるんだ地面で、双方が出てきた。煙草を分け合い、酒を交わした後、サッカーをした。
「いったん以上ですが」と長大な報告を遠慮した連絡将校に対し、永田は途中で「止めなくていい」と言った。最後まで聞いた。
英独双方の将校が止めようとして、止められなかった。兵士たちは一時間ほど蹴り合い、日が暮れてからそれぞれ塹壕に戻った。翌朝、再び撃ち合いを始めた。死者が出た。
永田はしばらく窓を見ていた。ベルンの冬の空に、星が残っていた。
(昨夜サッカーをした男たちが、今朝は撃ち合っている)
その矛盾を矛盾とは呼べない、と永田は思った。それが戦争だ。いや、それが人間だ。総力戦というものは、この割り切れなさを、何十万人分も束にして動かす仕掛けだ。
机の上の手帳を引き寄せた。開くと、自分の字が見えた。「総力戦」とあった。昨日も、その前も、ずっと同じ言葉がある。
永田は手帳を閉じた。
*
同じ夜、上海・高杉新拠点。
高杉の書斎に、七人が揃っていた。
真崎が口を開いた。「田辺少佐から。戸塚を通じた青幇の連絡役が、接触に使う場所が分かった。分室の近くでも、商館でもない。黄浦江の特定の埠頭だ」
高杉は何も言わなかった。
「私からも」と愛鈴が続けた。「商館を三日、見ていた。出入りする顔は全部、街の実働部隊だ。怪我人の処置や賭け事の仲裁に来る人間たちだ。幹部の影がない。深夜になると、物資を乗せた小舟が一艘、決まった方角へ向かう。黄浦江の方だ。小舟は明け方前に戻ってくる」
「毎夜か」と真崎が聞いた。
「三日連続だった。一定のリズムで動いている」
部屋の端で、黒石が木の枠を机に置いた。四角い物体だった。枠に導線が何重にも巻いてある。手回し式の軸が付いている。
「これで確かめました」と黒石は言った。「ループアンテナです。自作しました。回すと、受話器の信号音が消える角度があります」
黒石は軸を少し動かして見せた。
「商館の信号は弱くて、散漫です。実戦に使えるものではありません。ですが、別の発信源があります。このアンテナを向けると、信号が強くなる角度があります。消えた角度の裏側に、本当の発信源がいます。方位は——黄浦江です」
三本が
*
高杉が口を開いたのは、その後の沈黙の中だった。
「あの商館は、下っ端のたまり場だった」
言い切った。含みも驚きもない声だった。
「青幇の先祖は運河の水夫だ。
高杉は杖の上に顎を乗せた。
「黄浦江に浮かぶ国籍不明の船の上は、上海のどんな洋館より安全だ。舫い綱を切れば消える。証拠を捨てるなら川に沈めればいい。工部局もフランス警吏も、水上には手を出しにくい。陸に拠点を持たない組織が、最後に辿り着く場所だ」
「シャンルゥが最初からそこにいたということか」と真崎は言った。
「最初から。商館は煙幕だった。青島が落ちてから、あそこにシャンルゥもおると思っておった。見立てが違った」
「先生が気づかなかったことが、あるんですね」と潮崎が言った。
「ある」と高杉はあっさり言った。「七十五年生きても、まだある」
扉が開いた。
愛鈴が振り返った。「全くあなたはいつも大事なときにいない」
「いやはや、申し訳ない」と李河が言った。部屋に入りながら帽子を脱いだ。「だが、極上の情報を持ち帰ってきたぜ」
高杉が顎を上げた。「聞こうか」
李河は椅子を引かずに立ったまま話した。
「ベルリンが、シャンルゥの一派を切ろうとしている。欧州の戦況が長引いて、上海の工作網に回す資金が惜しくなってきた。青島を失った今、上海での工作の値打ちが下がった。ドイツにとって、もういらない駒だ」
誰も言葉を挟まなかった。
「フランス租界の警備幹部からも、内々に話が来ている。黄浦江の例の船は、いつまでも置いておけない。処理してくれれば文句は言わないと、そういうことだ」
「イギリスは」と真崎が言った。
「だんまりだ。気にしなくていい」と李河は言った。「ただ、もう一つある。ドイツはこの戦争で中東の石油権益も狙い始めた。英国のペルシャ石油権益が圧迫され始めた。英国は今、蘭印の石油に目をつけている。ロイヤル・ダッチ・シェルを確保したいが、極東に軍事リソースを回す余裕がない。だからベイル家に話をつけようとしている。日本より先に」
真崎は潮崎を見た。潮崎が小さく頷いた。秋月に伝える、という意味だった。
高杉が静かに言った。「ドイツがシャンルゥを切れば、奴は次の主人を探して暴れる。切られる前に、こちらが動く。フランスが動ける今の内に、決着をつける」
これまでの均衡が、終わった。
*
「現地に入るのは、真崎・アイリィン・アゥロラ・潮崎・リーホォの五人だ」と真崎は言った。
「アゥロラもいくの?」と愛鈴が言った。
「行く」と潮崎が口を挟んだ。「お前と一緒であれば問題ない。アゥロラもディアナも射撃の腕は見事なもんだ。
扉のそばで、ディアナが言った。「私も行きたい」
「だめよ」と愛鈴は言った。「ここに残るマスター達はあなたが守るのよ」
ディアナは何も言わなかった。頷いた。
「俺は爆弾の運び屋か」と李河は言った。「悪くない仕事だ」
「潮崎君が爆弾を設置してるときはあなたが守る」と愛鈴が言った。
「へい、わかるよ」
「よろしく頼む」と潮崎が李河に言った。
井川が風呂敷包みを机に置いた。広げると、金属の
「これを使ってもらいます」
「何だ」と真崎が言った。
「船の手すりに鈎爪を引っ掛けます」と井川は言った。「ゼンマイ式の巻き取りで身体を引き上げます。船側に高低差があっても音が出ない。潮崎さんの体格に合わせてハーネスを調整してあります。力が全身に分散されますので、腕力に頼らずに上れます」
潮崎が手に取った。重さを確かめ、少し動かした。「……使えます」
「実地で動作確認したいのですが」と井川は言った。
「ならん」と真崎は言った。「作れるのはお前だけだ。黒石と基地で待機して、問題が起きたら連絡を取れ」
井川は少し間を置いた。「……承知しました」
「黒石と井川は基地で待機する」と真崎は言った。
真崎は橋から船頭へ乗り込む。甲板から香炉がいるであろう操舵室に正面から向かう。銃撃になったらこっちのもの。時間を作る。愛鈴とアゥロラは橋から船尾へ入る。愛鈴が操舵室の船尾側出口を封じ、アゥロラが右舷側から正面に近づき真崎の援護射撃をする。潮崎と李河は装置で船の左舷横腹から侵入する。潮崎が甲板から一段降りた機関部に爆薬を設置し、李河が護衛する。
潮崎が封書を机に置いた。「秋月少佐から。日本海軍の小艇を一隻、黄浦江に出します。艇に無線技師を乗せ、現場を観測させます。爆破が成功したか、あるいは戦闘が長引くようなら、フランス警察のリバーポリスに通報する。小艇が船に接近しすぎた場合は、操船ミスで近づいてしまったという体裁をとる手はずです。フランス警察とも事前に話が通っています」
高杉が頷いた。「あの男は大きな絵を描くのが仕事だ。ちゃんとやっておる」
「日程は明後日の深夜だ」
誰も異議を言わなかった。
全員が立ち上がった。
愛鈴が言った。「マスター……ディアナが残りますがここは本当に空けて大丈夫ですか」
高杉が言った。「蟻一匹入れんここに、人が入れることもなかろう」
高杉が杖を一度だけ床に打ち付けた。「皆、生きて帰れ」
命令でなかった。要求だった。
*
黄浦江の夜は、霧が濃かった。
岸から離れた位置に、一艘の蒸気艇が灯りを絞って停まっていた。外観は古い荷物船だ。船体に名前はなかった。
船室の奥で、沈伯英は煙草に火をつけた。ドイツ系の煙草だった。煙が天井に広がった。
机の上に、紙が一枚あった。真崎勇気大尉と、ある老人が、同じ夜に埠頭へ来る——という情報だった。
「動く」と静かに言った。
廊下では配下達が談笑していた。香炉は振り返らなかった。
*
同じ夜、新拠点の訓練室。
愛鈴がディアナの腕の位置を直した。「肘が外に開いてる。壁を作るなら、もっと身体に近く」
ディアナが直した。もう一度。「こうですか」
「そう」
アゥロラが横で見ていた。「次、私もやっていいですか」
「やってみなさい」
アゥロラが構えた。愛鈴が軽く手首を取って、角度を見た。少し直した。拳が重なった一瞬、アゥロラが笑った。
「笑わない」と愛鈴は言った。
「でもなんか嬉しくて」
愛鈴は答えなかった。だが口の端が、かすかに動いた。
「もう一度。最初から」
*
真崎が廊下に出た。扉を閉めると、廊下の先に窓があった。夜の黄浦江の灯りが、遠く見えた。水面が揺れるたびに、光が細かく砕けた。
訓練室の方から、アゥロラの笑い声がした。愛鈴の声が続いた。「もう一度。最初から」
あの灯りの下のどこかに、船がある。
真崎は足を止めた。
それから、廊下を歩いた。
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