海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
田辺は新聞を膝に乗せたまま、電文を真崎の方へ押した。目を上げなかった。
「帰還命令だ」
大正三年十二月三十日。
真崎は電文を取った。帝都から。参謀本部の印。文面は短い。上海駐在の任を解く。一月中に帰還せよ。
窓の外に上海の空があった。来た時から決まっていたことだ。真崎は電文を折り畳んだ。
「分かりました」
*
夕方、高杉の拠点に顔を出すと、井川が珍しく実験台を片付けていた。黒石が包帯を巻いたまま正座して待っていた。
奥の部屋から、高杉が三味線を持たずに出てきた。
それだけで分かった。
「行くか」と高杉は言った。
廊下の奥から、アゥロラが進み出て真崎に一礼した。言葉はなかった。その隣でディアナが「また来てくださいね」と言った。
*
フランス租界の路地は、夜になると人の気配が変わる。石畳の継ぎ目から湿気が上がり、どこかの窓から料理の匂いが漏れ、猫が一匹、塀の上を歩いていく。
目的の店は、路地の角を二つ曲がったところにあった。看板は小さく、名前をフランス語で書いてある。知らなければ通り過ぎる。
オーナーが扉を開けて待っていた。白髪の男で、高杉を見て何も言わずに奥の部屋へ案内した。長い付き合いの気配があった。
テーブルに全員が収まったところへ、外から馬車の音がした。しばらくして、秋月が入ってきた。コートを脱ぎながら真崎を見た。
「まったく。お前が上海に来たのが昨日のようだ」
「俺もそう思っていた」
秋月が椅子を引いた。それで全員が揃った。
*
最初の一皿は厳選フォアグラと黒トリュフの
井川がフォークを手に取り、断面の層を眺めた。「これはどういう製法ですか。鶏とコンソメですか、それとも——」
李河が肘で突いた。井川が黙った。
グラスにワインが注がれた。高杉が一口飲んで、「甘すぎる」と言った。オーナーを呼んで紹興酒を要求した。オーナーは慣れた顔で引き下がった。長い付き合いの証だった。
「先生、せっかくのフランス料理が」と井川が言いかけた。
「わしはフランス料理ではなくこの部屋を借りているのだ」と高杉は言った。
誰も反論しなかった。
黒石は最初の一杯で頬が赤くなった。二杯目を飲み干した頃に、真崎に向かって言った。
「真崎さん、俺、最初あなたのことを信用していなかったんですよ」
「知っている」と真崎は言った。
「いや、本当に。なんで頭の固い陸軍の人間が来るんだって思ってました。そしたら、無線のこと詳しいし、
「壁がなくなったのは井川のせいだろ」と真崎は言った。
「すみません、運動神経が悪くて爆弾があらぬ方向に……」
笑いが出た。井川以外の全員から。井川が首をすくめた。
「黒石」と愛玲が言った。
「いや、言いたかったんですよ、ずっと。すみませんでした、最初の態度」
真崎はグラスを傾けた。「気にしていない」
「……気にしてないって言いながら気にしてたでしょ」
「少し」
黒石がまた笑った。テーブルがもう一度揺れた。愛玲が目を伏せた。
李河は何も言わなかった。ただ、真崎のグラスが空になる前に必ず注いでいた。三度目に気づいた時、真崎が李河を見た。李河は知らん顔で別の方向を向いていた。
秋月が言った。「お前が上海に来た時、三ヶ月で帰るだろうと思っていた」
「俺もそう思っていた」
「下手したら陸軍を辞めるかも、とも」
「それはなかったな」
秋月がニヤリと笑った。
「そういえば、潮崎はどうした」と真崎は言った。
「もう出張している」秋月が間髪入れずに返答した。「あいつの動向くらいは把握しておくのが俺の仕事だ」
「そうか。あいつは本当に忙しいな。いいことだ」
「まったく同感だ」と秋月は言った。「あれで少しくらい暇にしていれば、俺の仕事も減る」
テーブルの中央に、鴨料理が運ばれてきた。深い赤褐色のソースが鴨肉を覆っている。鴨の血を使ったソースだ。骨髄エキスも組み込まれている。フランス人オーナーが丁寧に取り分けた。
井川が目を輝かせた。今度は李河を見てから口を閉じた。
高杉がオーナーを呼んだ。何かを言った。オーナーが一瞬だけ顔を曇らせ、しかしすぐに引き下がった。慣れた顔だった。
しばらくして、小皿が一つ戻ってきた。わさびと醤油だった。
「先生、さすがにそれは……それではせっかくのフランス料理が……」と秋月が言った。
「わかっとる」高杉は鴨肉をひと切れ、わさび醤油で食った。目を細めた。「だが、これがどうも美味くてな。ちゃんと血のソースでも食うわい」
オーナーが遠くから見ていた。複雑な顔だった。
李河が無言で鴨肉を口に入れた。咀嚼した。何も言わなかった。それが一番の評価だった。
皿が空になる頃、高杉が口を開いた。静かな声だった。
「仕留め損ねたとな」
真崎は答えた。「はい」
「構わん」高杉は紹興酒を一口飲んだ。「シャンルゥ一派は壊滅した。フランス警察へも大きな恩が売れた。若頭のリュウディも裏切った挙句、牢屋の中だ」
一拍置いた。
「お前はまだここにいる——いや、また来ることになる」
真崎は何も言わなかった。否定もしなかった。
*
店を出ると、
一行は自然に歩き始めた。石畳の上に足音が重なった。誰も急がなかった。
しばらく歩いたところで、高杉が立ち止まった。李河と井川がその両脇に収まった。
高杉が真崎を見た。
「中国では別れに物を渡すのは縁起が悪いそうだ。ワシも何も渡さん」
一拍あった。
「ただ、また来い」空を見つめながら言った。「ワシももういつ死ぬかわからん」
それだけだった。李河が顎をわずかに引いた。井川が一度だけ頭を下げた。三人は路地の方へ折れた。闇の中に消えた。
黒石が真崎の隣に来た。何か言いかけて、止めた。それから「……お世話になりました」と言った。声が少し掠れていた。愛玲が黒石の背中を一度だけ押した。黒石が歩き始めた。
愛玲と秋月が残った。
二人で川沿いに立った。しばらく、何も言わなかった。黄浦江が流れていた。
秋月がコートの内ポケットから小さな紙包みを取り出した。真崎に渡した。
「茶葉だ。烏龍茶。上海で買った」
真崎は受け取った。「ずっと茶葉を持ち歩いていたのか」
「持ち歩いていたんじゃない。今日のために買った」
真崎は紙包みを見た。「有難う」
「お前が上海に来た時」と秋月は川を見たまま言った。「本当に三ヶ月で帰るだろうと思っていた」
「俺もそう思っていた」
「知っている。だが——」秋月が口の端を動かした。「来て良かったな」
真崎は川を見た。「ああ」
「気をつけて帰れよ」
秋月が片手を上げた。振り返らずに歩き始めた。その背中が霧の中に消えた。
気づくと真崎と愛玲だけが川沿いに残っていた。
霧が出ていた。黄浦江の向こう岸の灯りが、水面で細かく砕けていた。外灘の石造りの建物が闇の中に浮いている。波止場の汽笛が一つ鳴った。上海はいつも通りだった。
愛玲が煙草に火をつけた。川を見たまま言った。
「あなたの報告書、陸軍次官まで読まれてるらしい。本当に山縣閣下まで届くかもしれない。かなり信用できる筋からの話よ」
真崎は黄浦江を見たまま言った。「……そうか」
「トーキョーで新しい女をすぐ見つけるんでしょ」
「は……」
(お前がいつ俺の——と一瞬よぎったが、いやたしかに)
「それは許してくれ」
「また会ってくれるなら許す」
真崎は川から目を離さなかった。「また会えるだろ」
愛玲が煙草を川に向かって一度だけ吐いた。口の端が動いた。笑ったのかどうか、霧の中では分からなかった。
「今夜は一緒にいたい」
「うちは近い。来い」
愛玲が歩き始めた。真崎はその後を追った。外灘の灯りが霧の中に溶けていった。
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