海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

77 / 77
第七十六話 次の旗を立てる前に

 目が覚めた時、台所から音がしていた。

 

 真崎勇気は天井を見た。自分の宿舎だ。ただし、いつもと違う。包丁の音がした。鍋が火にかかる音がした。

 

 起き上がると、愛玲(アイリィン)が台所に立っていた。

 

 男物のシャツを羽織って、手際よく何かを切っている。傍らに烏龍茶の急須が置いてあった。湯気が出ていた。食材は持ち込みのものだ。

 

「お前、料理できたのか」

 愛玲は振り返らなかった。「失礼ね。この仕事やってるもの。当たり前でしょ」

 

 真崎は椅子を引いた。座った。烏龍茶が目の前に置かれた。熱かった。一口飲んだ。

 (コーヒーじゃなくて良かった——いや、配慮してくれたのか。恐れ入る)

 

 しばらくして、粥と小さな小皿が二つ並んだ。香菜と刻んだザーサイ。上海の朝食だ。

 

「いつトーキョーに戻るの?」

「一月に入れば、と電文には書いてあった」

「じゃあまだ少しあるのね」

「少しな」

 

 二人は向き合って食った。台所の窓から上海の朝が入ってきた。遠くで荷車の音がした。

 

  *

 

 食後、愛玲が烏龍茶を注ぎ直しながら言った。

「これからのことを聞いておきたいわ。私のことじゃなくて、あなたのこと」

「欧州派兵の工作に関わることになる。神林少将に手紙を書く。今度は田辺少佐経由じゃなく直訴にする」

「動くのね」

「動く」

 

 愛玲はカップを持ったまま、窓の外を一度だけ見た。「私は李河(リーホォ)と組みながら探偵業を続ける。最近、満州方面から大きな依頼が来ているの。しばらく上海を離れることもあるかもしれない」

 

「そうか」

「定期的に連絡はするわ。あなたの動向は、どうせマスターから入ってくるけど」

「筒抜けだな」

「最初からそうよ」愛玲は口の端を動かした。「それから——」

 

 一拍置いた。

 

「トーキョーで女ができたら、必ず連絡すること」

 真崎は茶を一口飲んだ。「なぜだ」

「なぜって、知りたいじゃない」

「知ってどうする」

「どうもしない。ただ知りたい」愛玲は立ち上がって皿を片付け始めた。「あなたはすぐ作るでしょ。帝都に戻ったら」

 (お前がいつ俺の——と一瞬よぎったが、いやたしかに)

「……努力する」

「努力、ね」

 

 少し間があった。愛玲が言った。「もし——トーキョーで誰も見つからなかったら、迎えに来てほしい」

 

「その……」

 真崎は答えなかった。

 

「冗談よ」と愛玲は言った。しかし笑わなかった。

 愛玲が笑ったのは、その少し後だった。声が出た。珍しかった。真崎はその笑い声を聞いていた。

 

  *

 

 出がけに、愛玲が扉の前に立った。鍵を取り出した。

 

「これ、あなたの?」

「そうだ」

 

 愛玲は鍵穴を見た。細い金具を取り出した。十秒もかからなかった。鍵が閉まった。

 

「ピッキングか」

「鍵をなくした時のために覚えておいて」

 

 真崎は愛玲を見た。愛玲は真崎を見た。

「今日が——あなたが発つ前、最後になるかもしれないわね」

「そうだな」

 愛玲が鍵を真崎の胸ポケットに入れた。「部屋の鍵は私が出る時に閉めておく」

 

 一拍あった。

 

「遅刻するわよ。行きなさい」

 真崎は頷いた。歩き始めた。

 

 路地に出ると、石畳が夜露で濡れていた。どこかの軒先から二胡の音が漏れていた。

 屋台が一つ出ていた。小麦粉を揚げた棒が籠に積まれていた。油条(ヨウティアオ)だ。愛玲と初めて二人で上海を歩いたとき、連れられて食った屋台と同じものだった。

 

 一本買った。熱かった。齧った。味は同じだった。

 

 変わったものと、変わらないものがある。真崎は歩きながらそれを食った。

 

  *

 

 分室に着いたのは、朝の八時だった。

 

 脇に抱えていた書類の束を田辺の机に置いた。かなりの厚さがあった。上海に着任してから手をつけずに積み上げていた翻訳資料だ。一ヶ月分。帰国前に全部片付けた。夜通しかかった。

 

 田辺が顔を上げた。資料の束を見た。それから真崎を見た。

 

「……お前、本当に仕事ができるヤツだな」

「少佐殿のおかげです。あなたがいなければ無理でした」

「少佐殿はやめろ。むず痒い」

 

 田辺は資料を手に取り、最初の数枚をめくった。目が止まった。また数枚めくった。新聞を脇に置いた。珍しい動作だった。田辺が新聞を置く時は、本当に集中する時だ。着任してから今日まで、その動作を三度しか見ていない。

 

 しばらく読んでいた。真崎は黙って立っていた。

 田辺が顔を上げた。「俺は中佐に昇進になった。お前の帰還命令と一緒のタイミングだ」

「おめでとうございます」

「三宅坂の連中が何を考えてるかはわからんが、お前もそろそろ少佐に上がるんじゃないかと思ってな」

「それはまたどういう」

「お前の青島(チンタオ)での働きは無視できん。それにお前が少佐で俺も少佐だと立場がないだろ。引退間際で華を持たせるつもりなのかもしらんが……」

「いえ、中佐の働きあってこその昇進だと思います」

「お前な……。まぁそのクソ真面目さがお前の良さだ」

 

 田辺は資料に目を戻した。それから、思い出したように言った。

 

「キイチから返事が来た。陸軍次官に届いたそうだ。読まれただけでなく——納得した、とも」

 

 窓の外で、黄浦江の汽笛が一つ鳴った。真崎はその音を聞きながら、青島の砲台のことを思った。氷点下の泥の中でロープを引いた夜のことを。あの夜書いた数字が、今、帝都の机の上で読まれている。それだけで十分だった。

 

「それから、ウチでの漏洩事件のことだ」田辺は書類を片付けながら言った。「『もう一本の線がある』と言ったのを覚えているか」

「はい」

「調査を進めている。内輪から漏れている可能性はほぼ無い。外国勢力だろう」田辺は一度だけ真崎を見た。「動きがあればお前に連絡する。三宅坂でもうまくやれ」

「はっ。心が折れそうになったら、中佐を頼ってもいいですか」

「そのとき俺がまだいたらな」

 

 真崎は敬礼した。立ち上がりかけた背中に、田辺が言った。

「……お前、香水くさいぞ。女か?」

 真崎は答えなかった。

「まぁいい」

 田辺はページをめくった。それで終わった。

 

 分室の廊下を歩きながら、真崎は少しだけ笑った。誰にも見せない程度に。

 

  *

 

 夕方、宿舎に戻った。

 

 机に向かった。引き出しから便箋を出した。万年筆を取った。

 止まらなかった。

 一行だけ書いた。

「欧州派兵について、直接お話したいことがございます」

 

 宛先を書いた。神林毅一郎少将。

 封をして、机に置いた。窓の外に上海の空があった。来た時と同じ空だ。真崎は立ち上がり、封筒を手に取った。

 

 上海の夜が、また始まろうとしていた。

 

  *

 

 同じ頃、フランス租界警察の留置所の扉が開いた。

 

 劉鏑(リュウディ)が外に出た。嫌疑不十分。釈放だった。

 

 留置所の中では、何も喋らなかった。弁護士も呼ばなかった。ただ待った。証拠がなければ出られる。それだけ分かっていた。食事は三回出た。全部食った。眠れる時に眠った。シャンルゥのことも、裏切りのことも、一度も考えなかった。考えても何も変わらない。

 

 夜の路地に、男が一人立っていた。ドイツ語ではなかった。英語だった。ヤンキー訛りの、鼻にかかった英語だった。

「待ってたぜ」と男は言った。

 劉鏑は男を一度だけ見た。背広の仕立てを見た。靴を見た。煙草の銘柄を見た。どれも上海では手に入らない品だった。

 それから歩き始めた。男がついてきた。

 

 上海の夜は、まだ終わっていなかった。

 

  *

 

 宿舎に戻ると、机の上に電文が一通置かれていた。

 秋月からだった。

 文面は短い。暗号ではなく、ただの日本語で書かれていた。

 

「件の件、接触成功。詳細は帰国後に。——慧」

 

 真崎は電文を折り畳んだ。机の引き出しに入れた。窓の外を見た。黄浦江の灯りが霧の中に滲んでいた。

 

 荷物は少ない。来た時と同じだ。

 真崎は鞄を引き寄せた。軍服を畳んだ。モーゼルを肩のホルスターに収めた。乃木大将の遺書をポケットに入れた。

 

 上海が終わる。

 欧州が、始まる。




最後までお読みいただきありがとうございます。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

影の航空機━ノベライズ━(作者:紫 和春)(オリジナル現代/戦記)

それは、突如として現れた。▼数千のレシプロ機が、巨大な島を伴ってやってきた。▼その時、人類の未来が左右する。▼この作品は、アルファポリス及びピクシブで公開した同名の漫画をノベライズしたものです。


総合評価:14/評価:-.--/連載:47話/更新日時:2026年07月31日(金) 22:34 小説情報

四國志(作者:丸亀導師)(オリジナル歴史/戦記)

紀元前326年▼楚曰く、東の海の果てに東夷有り。100余国に別れて相争う。▼東夷より使者有りけり、その国邪馬台(やまと)国と宣う。▼歴史if


総合評価:661/評価:8.13/連載:31話/更新日時:2026年08月02日(日) 05:00 小説情報

ロシア装備でサバゲーしていた俺がいつの間にかブルアカの世界に転生してTSしていたんだが?(作者:NK7)(原作:ブルーアーカイブ)

山の中、ロシア装備で三日間耐久サバイバルゲームに参加していた筋肉モリモリマッチョマンの変態が崖から落ちたらブルーアーカイブの世界にTS転生していた。ただそれだけである▼(主人公のブルアカの知識はlet's goミームと陸八魔アルぐらいしか知らないものとする)▼評価、感想、お待ちしてます


総合評価:992/評価:7.38/連載:72話/更新日時:2026年04月04日(土) 23:20 小説情報

大江戸騒動記~棟平屋の軌跡~(作者:社畜だったきなこ餅)(原作:暴れん坊将軍)

天下泰平の江戸時代。▼呑気に順風満帆人生送っていた転生者に、地獄からの使者がやってくる。


総合評価:34289/評価:8.85/連載:19話/更新日時:2026年05月01日(金) 19:15 小説情報

我輩は寄生虫である(作者:ナスの森)(原作:バイオハザード)

名は「Ne-α」寄生体プロトタイプである。


総合評価:3950/評価:8.51/連載:7話/更新日時:2026年06月21日(日) 01:53 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>