海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
目が覚めた時、台所から音がしていた。
真崎勇気は天井を見た。自分の宿舎だ。ただし、いつもと違う。包丁の音がした。鍋が火にかかる音がした。
起き上がると、
男物のシャツを羽織って、手際よく何かを切っている。傍らに烏龍茶の急須が置いてあった。湯気が出ていた。食材は持ち込みのものだ。
「お前、料理できたのか」
愛玲は振り返らなかった。「失礼ね。この仕事やってるもの。当たり前でしょ」
真崎は椅子を引いた。座った。烏龍茶が目の前に置かれた。熱かった。一口飲んだ。
(コーヒーじゃなくて良かった——いや、配慮してくれたのか。恐れ入る)
しばらくして、粥と小さな小皿が二つ並んだ。香菜と刻んだザーサイ。上海の朝食だ。
「いつトーキョーに戻るの?」
「一月に入れば、と電文には書いてあった」
「じゃあまだ少しあるのね」
「少しな」
二人は向き合って食った。台所の窓から上海の朝が入ってきた。遠くで荷車の音がした。
*
食後、愛玲が烏龍茶を注ぎ直しながら言った。
「これからのことを聞いておきたいわ。私のことじゃなくて、あなたのこと」
「欧州派兵の工作に関わることになる。神林少将に手紙を書く。今度は田辺少佐経由じゃなく直訴にする」
「動くのね」
「動く」
愛玲はカップを持ったまま、窓の外を一度だけ見た。「私は
「そうか」
「定期的に連絡はするわ。あなたの動向は、どうせマスターから入ってくるけど」
「筒抜けだな」
「最初からそうよ」愛玲は口の端を動かした。「それから——」
一拍置いた。
「トーキョーで女ができたら、必ず連絡すること」
真崎は茶を一口飲んだ。「なぜだ」
「なぜって、知りたいじゃない」
「知ってどうする」
「どうもしない。ただ知りたい」愛玲は立ち上がって皿を片付け始めた。「あなたはすぐ作るでしょ。帝都に戻ったら」
(お前がいつ俺の——と一瞬よぎったが、いやたしかに)
「……努力する」
「努力、ね」
少し間があった。愛玲が言った。「もし——トーキョーで誰も見つからなかったら、迎えに来てほしい」
「その……」
真崎は答えなかった。
「冗談よ」と愛玲は言った。しかし笑わなかった。
愛玲が笑ったのは、その少し後だった。声が出た。珍しかった。真崎はその笑い声を聞いていた。
*
出がけに、愛玲が扉の前に立った。鍵を取り出した。
「これ、あなたの?」
「そうだ」
愛玲は鍵穴を見た。細い金具を取り出した。十秒もかからなかった。鍵が閉まった。
「ピッキングか」
「鍵をなくした時のために覚えておいて」
真崎は愛玲を見た。愛玲は真崎を見た。
「今日が——あなたが発つ前、最後になるかもしれないわね」
「そうだな」
愛玲が鍵を真崎の胸ポケットに入れた。「部屋の鍵は私が出る時に閉めておく」
一拍あった。
「遅刻するわよ。行きなさい」
真崎は頷いた。歩き始めた。
路地に出ると、石畳が夜露で濡れていた。どこかの軒先から二胡の音が漏れていた。
屋台が一つ出ていた。小麦粉を揚げた棒が籠に積まれていた。
一本買った。熱かった。齧った。味は同じだった。
変わったものと、変わらないものがある。真崎は歩きながらそれを食った。
*
分室に着いたのは、朝の八時だった。
脇に抱えていた書類の束を田辺の机に置いた。かなりの厚さがあった。上海に着任してから手をつけずに積み上げていた翻訳資料だ。一ヶ月分。帰国前に全部片付けた。夜通しかかった。
田辺が顔を上げた。資料の束を見た。それから真崎を見た。
「……お前、本当に仕事ができるヤツだな」
「少佐殿のおかげです。あなたがいなければ無理でした」
「少佐殿はやめろ。むず痒い」
田辺は資料を手に取り、最初の数枚をめくった。目が止まった。また数枚めくった。新聞を脇に置いた。珍しい動作だった。田辺が新聞を置く時は、本当に集中する時だ。着任してから今日まで、その動作を三度しか見ていない。
しばらく読んでいた。真崎は黙って立っていた。
田辺が顔を上げた。「俺は中佐に昇進になった。お前の帰還命令と一緒のタイミングだ」
「おめでとうございます」
「三宅坂の連中が何を考えてるかはわからんが、お前もそろそろ少佐に上がるんじゃないかと思ってな」
「それはまたどういう」
「お前の
「いえ、中佐の働きあってこその昇進だと思います」
「お前な……。まぁそのクソ真面目さがお前の良さだ」
田辺は資料に目を戻した。それから、思い出したように言った。
「キイチから返事が来た。陸軍次官に届いたそうだ。読まれただけでなく——納得した、とも」
窓の外で、黄浦江の汽笛が一つ鳴った。真崎はその音を聞きながら、青島の砲台のことを思った。氷点下の泥の中でロープを引いた夜のことを。あの夜書いた数字が、今、帝都の机の上で読まれている。それだけで十分だった。
「それから、ウチでの漏洩事件のことだ」田辺は書類を片付けながら言った。「『もう一本の線がある』と言ったのを覚えているか」
「はい」
「調査を進めている。内輪から漏れている可能性はほぼ無い。外国勢力だろう」田辺は一度だけ真崎を見た。「動きがあればお前に連絡する。三宅坂でもうまくやれ」
「はっ。心が折れそうになったら、中佐を頼ってもいいですか」
「そのとき俺がまだいたらな」
真崎は敬礼した。立ち上がりかけた背中に、田辺が言った。
「……お前、香水くさいぞ。女か?」
真崎は答えなかった。
「まぁいい」
田辺はページをめくった。それで終わった。
分室の廊下を歩きながら、真崎は少しだけ笑った。誰にも見せない程度に。
*
夕方、宿舎に戻った。
机に向かった。引き出しから便箋を出した。万年筆を取った。
止まらなかった。
一行だけ書いた。
「欧州派兵について、直接お話したいことがございます」
宛先を書いた。神林毅一郎少将。
封をして、机に置いた。窓の外に上海の空があった。来た時と同じ空だ。真崎は立ち上がり、封筒を手に取った。
上海の夜が、また始まろうとしていた。
*
同じ頃、フランス租界警察の留置所の扉が開いた。
留置所の中では、何も喋らなかった。弁護士も呼ばなかった。ただ待った。証拠がなければ出られる。それだけ分かっていた。食事は三回出た。全部食った。眠れる時に眠った。シャンルゥのことも、裏切りのことも、一度も考えなかった。考えても何も変わらない。
夜の路地に、男が一人立っていた。ドイツ語ではなかった。英語だった。ヤンキー訛りの、鼻にかかった英語だった。
「待ってたぜ」と男は言った。
劉鏑は男を一度だけ見た。背広の仕立てを見た。靴を見た。煙草の銘柄を見た。どれも上海では手に入らない品だった。
それから歩き始めた。男がついてきた。
上海の夜は、まだ終わっていなかった。
*
宿舎に戻ると、机の上に電文が一通置かれていた。
秋月からだった。
文面は短い。暗号ではなく、ただの日本語で書かれていた。
「件の件、接触成功。詳細は帰国後に。——慧」
真崎は電文を折り畳んだ。机の引き出しに入れた。窓の外を見た。黄浦江の灯りが霧の中に滲んでいた。
荷物は少ない。来た時と同じだ。
真崎は鞄を引き寄せた。軍服を畳んだ。モーゼルを肩のホルスターに収めた。乃木大将の遺書をポケットに入れた。
上海が終わる。
欧州が、始まる。
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