海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「遅かったな」
神楽坂の小料理屋。六畳ほどのカウンター席。
真崎は向かいに座った。「丈二——ジョージ。そのままじゃないか」
「単純すぎてバレないだろうと思ってな」
「なぜそれで通じると思った」
「理由は二つだ」柏木が煙草を指で回した。「一つ、そんな単純なもじりを暗号名に使うとは誰も思わない」
「二つ」
「俺は陸軍内では真面目で有能な将校で通っている。まさか上海や英国と裏で繋がっているとは思われていない」
「確かに俺も気づかなかった」
柏木が燗酒を一口飲んだ。「親独派が多い陸軍の中で暗号名にイギリス王を使う——皮肉も込めてな」
「去年の秋、上海に電報を送った。欧州の戦況分析——陸軍が白兵突撃の有効性を再確認した内容だ。読んだか」
「読んだ。
「そうか」柏木は
真崎は黙った。
「二人だ」柏木が言った。「お前と、俺だ」
*
酒が一本空いた頃、柏木が先に口を開いた。
「まさか燃やすとは思わなかった」
「なんの話だ」
「シーメンス事件の紙片だ。あれを陸軍への手土産にすると思っていた」
「……胡散臭い記者をけしかけたのもお前か」と真崎は続けた。
「あの記者は使いやすかった」柏木が答えた。「シーメンス事件の本筋をお前に届けたかった」
「俺は派閥利益のために動かない」
「お前は真面目すぎる」柏木は煙草を指で回した。
「お前は寝技に頼りすぎだ」
「そうかもな……」
「柏木、お前、お濠端の向こう岸で俺を見ていたな。ずっと観察していたということか」
「見張っていたわけじゃない」と柏木は言った。「興味があった。お前がどう動くか」
「そういうことか」
「お前、あの時期、地下書庫に入り浸っていたな」
真崎は燗酒の湯気を見た。「それも見ていたのか」
「軍務局の中で唯一、話が通じるお前に動いてほしかった」
「高杉先生の指示か」
「いいや違う。俺なりに考えて作った舞台だ」
真崎は半ば呆れつつも外套の内側に手を入れた。畳んだ紙を取り出した。
「今夜ここに来たのはそれだけじゃない」真崎は紙を卓上に置いた。「お前に見せておく必要があると思っていた。読め」
柏木が紙を手に取った。広げた。
カウンターの灯りの下で、柏木の目が動いた。一行、また一行。煙草を持つ指が、静かに止まった。
読み終えるまで、二人とも何も言わなかった。
「……乃木閣下の」
「遺書だ。写しだ」
柏木はしばらく紙を見ていた。それから静かに畳んで、真崎に返した。
「地下書庫にあったのか」
「こっちは写しだ。乃木閣下が控えとして残したものだ」
柏木の目が動いた。「原本は」
「先生の手元にある。乃木閣下は直接送っていた」
柏木は天井を見た。煙草を指の間でゆっくりと回した。何かを組み直している目だった。
「……先生はお前が持っていることを知っているのか」
「上海で見せたら大笑いされた。『乃木のやつ、若造に拾わせる算段を残しておったか』と」
「そうか」柏木は煙草を一度だけ吹かした。「それをここに持ってきたのか」
「お前に見せておく必要があると思った。それだけだ」
しばらく沈黙があった。柏木は卓上の遺書を見ていた。
「お前、ヴァンス男爵は知っているな」
柏木の指が止まった。
煙草が、机の上で止まった。
この男の動きが止まるのを、真崎は初めて見た。
「……もちろんだ。イギリス側の窓口だ。電信でしかやり取りしたことがないが」
「帰りの船で会った。英国の傍受班が、帝都発のジョージ署名電文を把握していると言っていた」
「いつから」
「男爵にも分からないようだった。傍受班が面白がっていたとだけ言っていた」
柏木は少し間を置いた。煙草をゆっくりと指で回し始めた。何かを計算している目だった。
「分かった」柏木は徳利を手に取った。「暗号は工夫する必要があるな……イギリスに渡してはいけない情報も、もちろんある」
*
「高杉先生とはどこで知り合ったんだ」
「昔の話だ」柏木は徳利を手に取った。「
「道場で」
「表は琴の教室だ。良家の令嬢たちが並んで琴を弾いている。奥に剣道場が併設されている」柏木が燗酒を一口飲んだ。「剣道の稽古に通っていたら、先生が三味線を弾いていた。端で聞いていたら、いつの間にか木刀を握らされていた」
「なぜそんな道場に」
「剣豪に憧れていた。若気の至りだ。忘れてくれ」
柏木が口の端を動かした。真崎は追わなかった。
「先生はどんな男だった」
しばらく間があった。柏木が天井を見た。
「そのときもう六十手前だ。三味線を弾きながら人を見ている。何を考えているか分からない。ただ——剣を教えるときは目が違った。幸運ながら、俺は筋が良いと褒めてくれた」
「それで居着いた」
「影の奇兵隊との繋がりはそこからか」
「先生はそういう人間を探している。目指す方向が同じ奴を」
真崎は思い出した。あの夜、地下廊下で柏木が言ったコトバ——「目指す方向が同じ気がしているだけだ」。あれは高杉の言葉の反響だったのか。
「神林——
「同じ道場にいた。最初は琴の稽古に来ていたが、そっちのけで、道場に入り浸っていた。先生が剣道を直接教えた——技術なら俺より上かもしれん」柏木は燗酒を一口飲んだ。「彼女も帝都の『目』として影の奇兵隊の一員になった。先生は言っていた。女だからこそできる仕事がある、と」
真崎は愛玲と初めて会ったときのことを思い出した。高杉が言った——剛剣で叩き割れぬ城門も、毒を塗った針ならば音もなく突破できる。すべては盤上の理よ――
「帝都では俺と組んで動くことが多い」と柏木は続けた。
真崎は少し間を置いた。「神林中将も奇兵隊側ということか」
「それは違う」柏木は徳利を置いた。「神林中将は先生が存命であることも知らない。あの方はあの方の思想で動いている」
*
二本目が空いた。
柏木が初めて煙草に火をつけた。この席で初めての火だ。
「お前、先生の絵図どおり、欧州派兵の工作をするつもりだな」
「ああ」
「田中義一少将に会う前に一つだけ言っておく」
真崎は姿勢を正した。
「あの
「敵か味方か分からない、と言うつもりか」
「神林中将と同じことを言うな」柏木が少し笑った。「そうだ。それが一番厄介だ」
「構わない。踏み込むしかない」
柏木が煙草を灰皿に置いた。真崎を一度だけ見た。何かを確認するような目だった。
「お前は変わらないな」
「何が」
「上海に行く前と同じ目をしている。ただ——重くなった」
真崎は答えなかった。重くなった分の中身が何かは、自分が一番よく知っていた。
「上海での話は聞いている」と柏木が言った。「先生から。大まかにだが」
「何を」
「
「大ボスを仕留め損ねた」
「でも壊滅させたんだろう」
「ああ。——いずれ自滅しただろうがな」
「それでもお前がやってのけたことに変わりはない」
「影の奇兵隊の一員、アイリィンを知っているか」
「やり手の工作員だと聞いている。美貌とは裏腹にとんでもなく強い、と」柏木が真崎を見た。「そんな伝説みたいな女、高嶺の花すぎてマトモな男は近づきがたいだろうな。近づいても一蹴されるのがオチだろう」
真崎は何も言わなかった。知っていた。分かっていた。が、エリートの柏木にそう評価されると、なぜか嬉しかった。
「お客様方、そろそろ閉店のお時間になります」
店の奥から、女将の声がした。
「行くぞ」と真崎は言った。
*
店を出ると、神楽坂の夜が続いていた。石畳に
柏木が歩きながら言った。「イギリス側にいらん情報が漏れ始めている。奇兵隊の仕事でもジョージとは呼ぶな」
「では何と」
「柏木でいい。今更だろう」
真崎は一歩後ろを歩いた。
(こいつとは——長い付き合いになりそうだ)
霙が石畳を濡らしていた。帝都の夜は深かった。
*
路地の角に、人影が一つあった。
コートの襟を立て、煙草を指に挟んでいた。火はついていない。神楽坂の小料理屋の
二人が店を出た。歩き始めた。
人影は動かなかった。煙草を指の間で一度だけ回した。それから踵を返し、霙の中に消えた。足音はなかった。
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