海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
(腹が減っては、戦はできん)
真崎勇気大尉は、走る列車の一等車の座席で、膝の上に広げた駅弁の箸を静かに動かしていた。
朝八時三十分発、下関行きの「第一特別急行列車」。明治四十五年に運行を開始したばかりの、日本初となるこの特急列車は、一等車、二等車、食堂車、そして最後尾に豪奢な展望車を連結した、大日本帝国が誇る「走る最高級ホテル」であった。ビロード張りの座席に腰を下ろした真崎の膝の上には、乗車直前に新橋駅の構内で買い求めた「上等幕の内弁当」が広げられている。食堂車へ赴くこともできたが、今の真崎には、華やかな社交の場の空気よりも、孤独に思索を深める時間が必要だった。
白飯を口に運ぶと、噛むほどに甘味が広がる。塩気の利いた鯛の身と奈良漬けの芳醇な酒粕の風味が、胃に確かな熱を送り込んでいく。素焼きの汽車土瓶から渋い茶で喉を潤すと、真崎は小さく息を吐いた。
これから祖国を裏切り、同時に祖国を救うという、途方もない大博打に打って出る男の、したたかな生命力の発露であった。どれほど壮大な理想を描こうとも、人間の体はカロリーを要求する。その「物理法則」に従うことこそが、精神論を否定する真崎の真骨頂でもあった。
*
数日前のことである。
大正三年(一九一四年)六月下旬、大磯。手入れの行き届いた黒松の林に囲まれた
開け放たれた縁側の向こうからは、寄せては返す波の音が規則正しく聞こえてくる。部屋の隅には、かつて村田自身が設計した「十三年式村田銃」の古びた機関部が、文鎮代わりに無造作に置かれていた。精神論に侵食される前の、合理的で若々しかった帝国陸軍の残骸のようにも見えた。
「――そうか。行き先は上海に決まったか」
上質な麻の単衣をゆったりと着流した村田は、真崎が手土産として持参したドイツ製の最新の手入れ油と、桐箱に入った葉巻を前に、深く頷いた。
真崎は、三宅坂の会議室で上申書が黙殺されたことも、乃木の隠し遺書の今後の扱いについても、一切の愚痴も野心も語らなかった。だが、歴戦の古老の眼はごまかせない。村田は、真崎の瞳の奥に燃える青白い炎を見て、若き将校が退路を完全に断ったことを静かに悟っていた。
「はい。近日中に帝都を立ちます。本日はそのご挨拶に伺いました」
村田はかすかに微笑み、葉巻の先端をゆっくりと切り落としながら言った。
「真崎よ。魔都と呼ばれるあの街の風は、三宅坂の澱んだ空気よりは、よほどお前の肌に合うかもしれんな。階級章を外し、これで晴れて同じ『火力』を信じる同志というわけだ」
「同志……。もったいないお言葉です」
「あそこは、精神の純粋さではなく、カネと弾薬とインテリジェンスがものを言う『物理の街』だ。欧米の合理主義が剥き出しでぶつかり合うあの濁流の中で、存分に泥水をすすってこい。……そして、この国の古い壁をぶち抜くための大筒を、見つけてくることだ」
紫煙が甘い香りを放ちながら、初夏の風に乗って縁側へと流れていく。老いた火力の祖から次世代の同志へ向けられた、無言のエールであった。真崎は深く頭を下げた。潮騒の音が、二人の静寂を心地よく満たしていた。
*
出立の朝が訪れた。
新橋駅へと続くガス灯の並ぶ煉瓦通りには、まだ夜明けの青みがかった薄暗さが残っていた。梅雨明け前の湿り気を帯びた重い空気に、遠くから漂う石炭の匂いが混じっている。
独り身の真崎は、重厚な革トランクを提げ、迷いのない足取りで歩を進めていた。
ギュッ、カツン。硬い革が軋み、磨き上げられた軍靴の踵が石畳を叩く音だけが、朝靄の通りに規則正しく響き渡る。
ふと、煉瓦通りの向こうから、一人の女が歩いてきた。
大正初期の帝都の風景には、あまりにも不釣り合いな姿であった。テールの効いた仕立ての良いジャケットに、くるぶしまでを優雅に覆う長いスカート。そして、つばの広いパナマ帽。パリの街角からそのまま抜け出してきたような洗練された洋装の女である。
二人は、言葉を交わすことなく無言ですれ違った。真崎は前方のみを見据え、冷徹な軍人の仮面を被ったまま、歩調を一切乱すことなく通り過ぎる。すれ違いざま、舶来品の豪奢で甘い香水の匂いが漂った。
パナマ帽の影から、女の切れ長で知的な両眼が、真崎の横顔を注意深く観察した。彼女はある情報網を通じて、三宅坂の軍務局からこの規格外の若手将校が上海へと放逐された事実を事前に掴んでいた。失意と絶望に打ちひしがれた敗残兵の顔を想像していた彼女は、真崎の横顔を捉えた瞬間、微かに息を呑んだ。
(……この男、左遷されるのに目が死んでいない……)
女は一瞬だけ立ち止まり、真崎の背中を見送った。
真崎は一度も振り返ることなく、白煙を吐き出す新橋駅の構内へと姿を消していった。
*
数日後、下関で関釜連絡船を見送り、九州へと足を踏み入れた真崎は、長崎港に降り立っていた。
梅雨明けの刺すような陽射しと、石炭の粉塵、そして異国へと向かう人々の喧騒に包まれる岸壁。そこに横たわる日本郵船の巨大な黒い船体を前にして、真崎は船客待合室でカーキ色の軍服を静かに脱ぎ捨てた。
新たに着込んだのは、上質な麻を用いたスリーピースの背広であった。頭には、出立の朝に煉瓦通りですれ違ったあの謎の女と同じように、パナマ帽を目深に被る。
鏡の中に映るその姿は、もはや帝国陸軍の将校のものではなかった。情報と謀略が渦巻く魔都にあって、列強のインテリジェンスと互角に渡り合う「冷徹な駐在官」の顔つきであった。軍服という窮屈な甲冑を脱ぎ捨てたことで、真崎に備わっていた本来の野性と合理的な知性が、危険な魅力を伴って表出していた。
「……出港十五分前ッ!」
真崎は革トランクを手に、タラップを軽快な足取りで上った。背広の胸ポケットには、大日本帝国の命運を左右する「乃木希典の隠し遺書」の写しが、皮膚の温もりを感じるほど密着して忍ばせられている。
ボーーーッ!
腹の底を揺らすような、重厚な汽笛の音が鳴り響いた。煙突から噴き上がる黒煙が、青空を切り裂きながら長く伸びていく。
硬直した歴史の歯車が、一人の若き異端児の手によって強引に回され始めた、その瞬間であった。
船はゆっくりと岸壁を離れ、黄浦江の濁った泥水が待つ魔都・上海へと、
◆あとがき◆
少しだけ種明かしを。
真崎が新橋から乗り込んだ「第一特別急行列車」は実在の列車です。明治45年(1912年)に運行を開始した日本初の特急で、新橋〜下関間を約25時間で結びました。一等車、二等車、食堂車、展望車を連結した当時最高級の列車でしたが、運賃は庶民には手の届かない金額で、乗客の大半は軍高官や財界人でした。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※本日はこの後、19:40にも最新話を更新予定です。
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