海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
里弄特有の薄暗い廊下に、秋月の荷物が二つ並んでいた。コートと革鞄。それだけだ。
秋月が鞄の留め金を確かめていると、台所の方から音がした。湯が沸いているらしい。しばらくして、キクが廊下に出てきた。呉の音戸から連れてきた妻だ。上海に来てまだ数ヶ月になる。里弄の石畳の感触にも、通りに漂う香辛料の匂いにも、まだ少し戸惑いが残っている。それでも朝は必ず先に起きて、湯を沸かす。
「あなた、どのくらいで帰ってくるの」
「そんなに長くはならない。一、二ヶ月以内で帰ってくる」
キクは鞄の端を一度だけ押さえた。中身を確かめるように。秋月は構わず留め金を締めた。
「向こうは戦争の最中でしょう。大丈夫なの」
「英国は島国だ。泥沼の戦地で戦うわけじゃない」
キクはしばらく何も言わなかった。窓の外の里弄を見ていた。向かいの家の洗濯物が、朝の空気の中に静かにかかっている。
「ちょっと待って」
キクは台所に入った。秋月は外套を手に取った。何年も着た外套だ。ロンドンの冬には薄いかもしれないと思ったが、口には出さなかった。
しばらくして、キクが戻ってきた。小さな布包みを両手で持っていた。「これ、持っていきなさい」と言いながら秋月の前に差し出した。「かりんとうよ。先週、呉から送ってもらったの。向こうに日本のものはないでしょう」
秋月は受け取った。包みは想ったより重かった。「ありがとう」と言った。鞄に入れた。
「ならいいけど。心配だわ」
キクは秋月の外套の衿を、一度だけ直した。それだけだった。余計なことは言わなかった。
「すぐ戻る」
扉を開けた。里弄の路地は薄暗く、冷たい空気が入ってきた。
「行ってらっしゃい」
秋月は頷いた。路地に出た。石畳を踏む足音が、里弄の奥へ遠ざかっていく。やがて、霧の向こうに消えた。
キクはしばらく扉口に立っていた。足音が聞こえなくなってから、扉を閉めた。台所に戻った。湯はまだ温かかった。
*
同じ朝、海を越えた帝都にも、同じ冬が来ていた。
三宅坂のお堀端を歩いた。
一月の空は鉛色だった。堀の水が光を返していない。外套の襟を立てた。上海の湿気とは違う種類の寒さだ。濡れていないのに骨に染みる。
建物に入る前、下宿で読んだ封書のことを思い出した。倫敦の秋月慧からの私信だった。検閲を意識した、当たり障りのない文面だ。だが行間は読めた。海軍が次期予算の獲得へ動き始めている。艦隊整備の大計画——あの男はそう匂わせていた。
(海のやつらも、動いているか)
真崎は封書のことを内ポケットの感触で確かめた。護身符の隣だ。
建物に入った。廊下を歩いた。小会議室の前で、真崎は一度だけ足を止めた。
扉は閉まっている。中から声は聞こえない。一年前、ここで跳ね返された。あの日も一月だった。説明の途中で遮られ、資料を抱えて廊下に立った。あの時の感触が、まだ手に残っている。
今日は通り過ぎる。
廊下の突き当たりに局長室があった。衛兵が敬礼した。「田中少将がお待ちです」と言って扉を開けた。
*
敬礼が終わる前に、声が飛んできた。
「青島のデータは受け取った」
書類の山の向こうで、田中義一少将は顔も上げなかった。万年筆が走り続けている。
「座れ。欧州派兵ときたな」
「は」
真崎は椅子に腰を下ろした。
二日待たされた。引き継ぎ多忙という名目だった。だが、さっき通った廊下に人影はまばらだった。
(待たせたのは——わざとだ)
万年筆が止まった。田中が初めて顔を上げた。丸い顔に、丸い眼鏡。その奥の目は、丸くなかった。
「面白い話だが、金がない。政治がない。何もない」
即答だった。突き返すための即答ではない。反応を見るための即答だ。
耳の奥で、柏木の声が蘇った。あの男は計算が早い——。
(計算の早い男なら、計算の材料を先に渡すまでだ)
「閣下。足りないことは、承知の上です」真崎は背筋を立てた。「ですが、
「ほう」
「第一に、英国です。オスマン帝国が参戦しました。もはや地中海方面に回す兵が足りず、砲が足りず、それでも引けない。いずれ向こうから縋りついてくる。売り手は、こちらです」
田中は何も言わない。万年筆を置いた。それだけだった。
「第二に、金です。日露戦役の外債が、いまも国庫の首を絞めています。派兵の見返りに、英国政府へ外債の借り換えを呑ませる。政府間借款に換われば、利払いは大きく軽くなる。大蔵省の反対論拠が、消えます」
「呑ませる、と来たか」田中の指が机を一度叩いた。「言質はあるのか」
「構想です。まだ」
「正直じゃの」
「第三に、実証です。青島の火力主義は、結果を出しました。自分の報告は陸軍大臣まで上がったと聞いております。欧州で同じ真価を示せば、帝国陸軍の発言力は跳ね上がります」
続けろ、という沈黙があった。
「第四に——海軍です。海軍は次期予算の獲得に動いています。ここで陸軍が欧州の実績を取らねば、金は艦隊に流れる。山本内閣の例もあります。海軍出身の総理がまた立てば、あの金食い虫に全部持っていかれます」
田中の眉が、わずかに動いた。笑いを噛み殺した動きに見えた。
「言うのう」
「ですが」真崎は息を整えた。「自分一人では、何も動かせません。閣下の政治力を、使わせていただきたい」
沈黙が落ちた。
田中が口を開いた。出てきたのは、否定ではなかった。質問だった。
「輸送船は何隻見込む」
「徴用を含め、十数隻。航路はシンガポールからスエズ――」
「それで、何個師団運べる」
「一個師団規模を、と考えております」
「一個師団か。それに満たねば、英国も本気にはすまい。半端な数を寄越されて、喜ぶ相手ではないぞ」
「弾は誰の財布じゃ。英国に持たせる腹か」
「は。兵と小火器は日本、弾と糧食は英国。それが筋かと」
「トラキア地方の地形は調べたか。水はどうする」
質問が、具体的すぎた。
(拒絶する男は——数字を聞かない)
*
不意に、田中が声を立てて笑った。書類の山が揺れるような笑い方だった。
「茶をもっと飲もう」田中は手を叩いた。「おい、茶だ」
当番兵が湯呑みを二つ運んできた。湯気が立っていた。
「わしは長州の萩の生まれでな」湯呑みを手に、田中が言った。「おもしろき、こともなき世を、おもしろく——萩のガキは皆、あの句で育った」
真崎の手が、湯呑みの上で一瞬止まった。
「高杉晋作。わしが物心つく前に死んだ人じゃ」田中は茶を啜った。「じゃが、あの人が生きておったら、今の三宅坂を見て何と言うかのう」
真崎は答えなかった。答えられなかった。
「奇兵隊を知っとるか」
「——維新の」
「わしの故郷でな、近所の爺さまが奇兵隊くずれじゃった。百姓の
言いたいことが、喉元まで上がってきた。
その奇兵隊は、いまも生きています。自分は、その隊長に会いました。上海の租界の奥で、三味線を弾いていました。あなたの故郷の英雄は、七十五になった今も、世を面白くするために動いています——。
真崎は茶を一口、呑み込んだ。
熱かった。
「じゃが」田中の声が、温度を一段下げた。「足りん」
「何が足りないか、教えていただけますか」
「全部だ」
田中は懐から煙草を出し、火をつけた。
それが、面会終了の合図だった。
*
廊下に出ると、冬の冷気が足元から上がってきた。
真崎は歩きながら、あの目を反芻した。
絵は描けている——そう言われたに等しい。だが、取れているものは一つもない。英国の言質も、外債の合意も、陸相の場も、海軍の動きの裏も。構想は構想のままでは、紙切れだ。
あれは、拒絶の目ではなかった。
条件を待つ目だ。揃えてみせろ、という目だ。
外に出ると、雪が混じり始めていた。息を吐いた。白かった。
(ならば——全部、揃えるまでだ)
三宅坂を背に、真崎は歩き出した。
*
お堀端の柳が、葉を落としたまま雪を受けていた。
真崎の足音だけが、石畳に響いていた。
その時、視線を感じた。
路地の角に、人影が一つあった。
コートの襟を立て、煙草を指に挟んでいた。火はついていない。三宅坂を出てくる真崎の背中を、暗がりからただ眺めていた。
真崎は歩く速度を変えなかった。視線の角度だけで距離を測った。十メートル。動く気配はない。
(——上海で覚えた癖だ。気のせいならそれでいい)
もう一度だけ振り返った。
人影は動かなかった。煙草を指の間で一度だけ回した。それから踵を返し、雪の中に消えた。足音はなかった。
真崎はしばらくその角を見ていた。それから、また歩き出した。
雪が降り始めていた。
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