海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「冴子、こっちよ」
声がした。奥の座敷だった。
暖簾をくぐると、咲夜はすでに座っていた。
茶が二つ並んでいる。冴子のぶんまで頼んであった。
「あら。もうついてたのね」
「大切なお客様を待たせるわけにはいきません」
咲夜は立たなかった。笑わなかった。ただそう言った。
「外務省の中国担当、ご存知ですか」
咲夜は茶を置かずに言った。
「担当官のお名前まではご存知でない?」
「知らない」
「そうですか。ならまず概要だけ」
咲夜は指を一本立てた。
「年末から休みなし。出勤は夜明け前、帰宅は深夜。先月は北京に十日」
一息ついた。
「口癖は『間に合わん』だそうです。愛人がたいそう怒っておりましたよ」
「愛人から聞いたの」
「私の大切な情報網ですわ」
冴子は黙った。
「詳しく聞きたければ、出勤時刻から出張先まで全部ございます。物証付きで」
咲夜は指を二本立てた。
冴子は一瞬だけ考えた。
「買う」
封筒を出した。咲夜は受け取った。袂に入れた。薄い紙の束を差し出した。
「もう一つ」
咲夜が続けた。
「中国向けに、大きな要求書を起草しているようです。そのメモ書きの写しがあります」
「写し」
「担当の方が自宅で作業していたものです。知人が書き写してまいりました」
「……その知人が」
「字は達者な方ではありませんが」
咲夜は指を七本立てた。
冴子は考えなかった。
「買う」
もう一枚、封筒を出した。咲夜は受け取った。袂に入れた。厚い紙の束を差し出した。
冴子は受け取った。厚かった。
少し間があった。
「ねえ」と冴子は言った。「あなたもカラダを売ってるの」
「売っている意識はありませんわ」
咲夜は茶を一口飲んだ。
「私を守ってくださる殿方の元に身を寄せてるだけ」
「物は考えようね」
咲夜は冴子を見た。
「あなた、資金はどこで得てるの」
「幸い、良い家の生まれでお金には困りませんの」
「あなたの歳だと嫁入りしろとか言われませんの?」
「あなたまでやめて」
冴子は言った。
「毎日のように言われてるわ。縁談は何度も失敗して」
「お父様が軍人ばかり連れてくるのが悪いのよ」
「あらあら」
一拍あった。
「冴子、あなた嫁入りしたいとは思うの」
「……したいわ。本当に良い殿方なら」
「そう」
咲夜は冴子を真っ直ぐに見た。
「ならこだわりを捨てなさい」
一拍あった。
「コーヒーに角砂糖をたっぷり入れる殿方は嫌、と言っていたわね
「ええ、絶対にイヤ」
「その方があなたを一生守る存在かもしれませんのよ」
咲夜は立ち上がった。
「こだわりや条件で足切りするとは、そういうことですのよ」
「……結婚なんて」
冴子は言いかけた。続かなかった。
「あなたのような骨のある淑女を手なづけられる男など、そういないのですから」
笑わなかった。扉を開けた。閉めた。
*
一人になった。
厚い紙の束を広げた。墨の跡が不揃いだった。
急いで写したのか。所々に欠落がある。読み飛ばした箇所は空白になっていた。
読める部分を追った。
山東省。旅順。大連。南満州鉄道。
父の書斎で何度か耳にした地名だ。しかし次の頁で、知らない言葉が出てきた。
「政治顧問ノ採用ニ関スル件」
「警察ノ合同ニ関スル件」
冴子は一度、紙から目を離した。
窓の外に赤坂の冬の路地が見えた。人力車が一台、坂を下っていく。
(……お父様が気にするのはこういうことか)
意味は半分しかわからない。しかし不味いことだけはわかった。
紙の束を畳んだ。懐に入れた。
冷めた茶を一口飲んだ。
(あの女、本当に面白い。あんな風に生きてみたいと少し思った)
*
その夜、冴子は眠れなかった。
懐から出した紙の束を、寝室の机に隠した。本の間に挟み、その上に別の本を重ねた。それでも気になって、何度も起き上がって確かめた。
階下で物音がした。父の書斎の扉が閉まる音だった。足音が遠ざかっていく。
冴子は本の山をもう一度見つめた。
(お父様の書斎にあるものと、私のここにあるものが、繋がっていたら——)
考えが先に進まなかった。蝋燭を消した。
窓の外で、犬が一度だけ吠えた。それきり、夜は静かだった。
*
翌日、東京駅。
午前八時発の列車に、
「
「箱根の温泉に浸かれると思えば、祝勝会くらい我慢します」
冴子は懐の感触を確かめた。厚い紙の束が、まだそこにある。
国府津までの車窓は、見慣れた田畑の景色だった。冴子は窓に頭をもたせ、目を閉じる真似をした。実際は閉じていない。睫毛の隙間から、父の手元を見ていた。
毅一郎は鞄から書類を取り出し、目を通していた。表紙には何も書かれていない。中身は見えない。父がこの一月、書斎にこもる時間が増えたことを、冴子は知っている。だが何を抱えているのかは、知らない。
「お父様」
「うん」
「お仕事、お忙しいの」
「いつものことだ」
毅一郎は書類を閉じた。それだけだった。続きは語らなかった。
(あなたが気にしているものと、私が懐に入れているものは——同じものかしら)
冴子は窓の外に視線を戻した。富士山が、雲の合間に白く見えた。
*
車内販売が回ってきた。毅一郎は何も言わずに、栗饅頭を二つ買った。一つを冴子に渡す。
「お父様、覚えてらしたの」
「お前は子供の頃から、汽車に乗ると必ず栗のものをせがんだ」
「もうそんな歳ではありませんわ」
「歳は関係なかろう」
毅一郎は饅頭を一口で頬張った。頬に粉がついた。冴子は黙ってそれを見ていた。指摘するのも野暮な気がした。
饅頭は温かかった。懐の紙の束は、まだ冷たいままだった。
小田原電気鉄道の電車は、木造の車体を軋ませながら、酒匂の松林を抜けていった。窓から塩気を含んだ風が入る。
湯本に着くと、その先に線路はなかった。山道を登る馬車だけが、宮之下まで人を運ぶ。
「歩いた方が早いんじゃないか」毅一郎が苦笑した。
「お父様、その歳で言うことではありませんわ」
馭者が二頭の馬に鞭を入れた。馬車が揺れながら、坂を登り始めた。
冴子は懐に手を当てた。山道の振動が、紙の束の存在を何度も確かめさせた。
樅の木立の向こうに、湯気の立つ屋根が見えてきた。
「着いたぞ」
馬車が止まった。
富士屋ホテルの玄関に、灯りが点っていた。
玄関を入ると、暖炉の匂いがした。薪が爆ぜる音と、誰かの笑い声が遠くから聞こえる。
毅一郎はフロントに歩いていった。冴子はロビーで一人、コートを脱ぎながら辺りを見回した。
軍人らしい男たちが、グラスを手に固まって立っている。青島の祝勝会を待つ顔だ。誰もが上気して、声が大きい。
「——だから言ったろう、要塞砲より野戦重砲の方が」
「いやいや、現場じゃそうはいかんのですよ閣下」
誰かが笑った。誰かがグラスを掲げた。冴子には半分も理解できない話だったが、彼らが上機嫌であることだけは伝わってきた。
その輪の少し外側に、見覚えのない外国人が一人いた。コートを着たまま、暖炉の前で煙草を吸っている。
将官の一人が、軽く頭を下げながら声をかけた。「これはこれは、ヴォルコフ殿。本日はロシア大使館からも」
「お招きいただき、光栄です」外国人は流暢な日本語で答えた。「青島での日本軍の勝利、心よりお祝い申し上げます」
冴子は聞こえないふりをして、すれ違った。
(ヴォルコフ……ロシア人か)
冴子は足を止めなかった。男も視線を上げなかった。それだけだった。
毅一郎が戻ってきた。「部屋の用意ができたそうだ」と言った。冴子は頷いた。
懐の紙の束が、また少し重く感じられた。
窓の外はもう暮れていた。山の稜線が、最後の明るさを残してすぐに消えた。
部屋に案内される間も、冴子は何度かロビーを振り返った。外国人の姿は、もう見当たらなかった。
少しだけ解説を。
大正四年(1915年)当時、東京から箱根・宮之下へ行くには、東京駅から国府津まで鉄道、そこから小田原電気鉄道の路面電車で湯本まで、そして湯本から宮之下は馬車という乗り換えが必要でした。箱根登山鉄道の開業は大正八年(1919年)、まだ存在していません。
冴子と毅一郎が踏んだ最後の山道は、当時の旅人にとって当たり前の不便さでした。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ページ下部の【ブックマークに追加】や、【評価(★)】を入れていただけますと、今後の執筆においてこれ以上ない励みとなります。