海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「冴子、こっちよ」
声がした。奥の座敷だった。
暖簾をくぐると、咲夜はすでに座っていた。
茶が二つ並んでいる。冴子のぶんまで頼んであった。
「あら。もうついてたのね」
「大切なお客様を待たせるわけにはいきません」
咲夜は立たなかった。笑わなかった。ただそう言った。
*
「外務省の中国担当、ご存知ですか」
咲夜は茶を置かずに言った。
「担当官のお名前まではご存知でない?」
「知らない」
「そうですか。ならまず概要だけ」
咲夜は指を一本立てた。
「年末から休みなし。出勤は夜明け前、帰宅は深夜。先月は北京に十日」
一息ついた。
「口癖は『間に合わん』だそうです。愛人がたいそう怒っておりましたよ」
「愛人から聞いたの」
「私の大切な情報網ですわ」
冴子は黙った。
「詳しく聞きたければ、出勤時刻から出張先まで全部ございます。物証付きで」
咲夜は指を二本立てた。
冴子は一瞬だけ考えた。
「買う」
封筒を出した。咲夜は受け取った。袂に入れた。薄い紙の束を差し出した。
「もう一つ」
咲夜が続けた。
「中国向けに、大きな要求書を起草しているようです。そのメモ書きの写しがあります」
「写し」
「担当の方が自宅で作業していたものです。知人が書き写してまいりました」
「……その知人が」
「字は達者な方ではありませんが」
咲夜は指を七本立てた。
冴子は考えなかった。
「買う」
もう一枚、封筒を出した。咲夜は受け取った。袂に入れた。厚い紙の束を差し出した。
冴子は受け取った。厚かった。
少し間があった。
「ねえ」と冴子は言った。「あなたもカラダを売ってるの」
「売っている意識はありませんわ」
咲夜は茶を一口飲んだ。
「私を守ってくださる殿方の元に身を寄せてるだけ」
「物は考えようね」
咲夜は冴子を見た。
「あなた、資金はどこで得てるの」
「幸い、良い家の生まれでお金には困りませんの」
「あなたの歳だと嫁入りしろとか言われませんの?」
「あなたまでやめて」
冴子は言った。
「毎日のように言われてるわ。縁談は何度も失敗して」
「お父様が軍人ばかり連れてくるのが悪いのよ」
「あらあら」
一拍あった。
「冴子、あなた嫁入りしたいとは思うの」
「……したいわ。本当に良い殿方なら」
「そう」
咲夜は冴子を真っ直ぐに見た。
「ならこだわりを捨てなさい」
一拍あった。
「コーヒーに角砂糖をたっぷり入れる殿方は嫌、と言っていたわね
「ええ、絶対にイヤ」
「その方があなたを一生守る存在かもしれませんのよ」
咲夜は立ち上がった。
「こだわりや条件で足切りするとは、そういうことですのよ」
「……結婚なんて」
冴子は言いかけた。続かなかった。
「あなたのような骨のある淑女を手なづけられる男など、そういないのですから」
笑わなかった。扉を開けた。閉めた。
*
一人になった。
厚い紙の束を広げた。墨の跡が不揃いだった。
急いで写したのか。所々に欠落がある。読み飛ばした箇所は空白になっていた。
読める部分を追った。
山東省。旅順。大連。南満州鉄道。
父の書斎で何度か耳にした地名だ。しかし次の頁で、知らない言葉が出てきた。
「政治顧問ノ採用ニ関スル件」
「警察ノ合同ニ関スル件」
冴子は一度、紙から目を離した。
窓の外に赤坂の冬の路地が見えた。人力車が一台、坂を下っていく。
(……お父様が気にするのはこういうことか)
意味は半分しかわからない。しかし不味いことだけはわかった。
紙の束を畳んだ。懐に入れた。
冷めた茶を一口飲んだ。
(あの女、本当に面白い。あんな風に生きてみたいと少し思った)
*
その夜、冴子は眠れなかった。
懐から出した紙の束を、寝室の机に隠した。本の間に挟み、その上に別の本を重ねた。それでも気になって、何度も起き上がって確かめた。
階下で物音がした。父の書斎の扉が閉まる音だった。足音が遠ざかっていく。
冴子は本の山をもう一度見つめた。
(お父様の書斎にあるものと、私のここにあるものが、繋がっていたら——)
考えが先に進まなかった。蝋燭を消した。
窓の外で、犬が一度だけ吠えた。それきり、夜は静かだった。
*
翌日、東京駅。
午前八時発の列車に、
「
「箱根の温泉に浸かれると思えば、祝勝会くらい我慢します」
冴子は懐の感触を確かめた。厚い紙の束が、まだそこにある。
国府津までの車窓は、見慣れた田畑の景色だった。冴子は窓に頭をもたせ、目を閉じる真似をした。実際は閉じていない。睫毛の隙間から、父の手元を見ていた。
毅一郎は鞄から書類を取り出し、目を通していた。表紙には何も書かれていない。中身は見えない。父がこの一月、書斎にこもる時間が増えたことを、冴子は知っている。だが何を抱えているのかは、知らない。
「お父様」
「うん」
「お仕事、お忙しいの」
「いつものことだ」
毅一郎は書類を閉じた。それだけだった。続きは語らなかった。
(あなたが気にしているものと、私が懐に入れているものは——同じものかしら)
冴子は窓の外に視線を戻した。富士山が、雲の合間に白く見えた。
*
車内販売が回ってきた。毅一郎は何も言わずに、栗饅頭を二つ買った。一つを冴子に渡す。
「お父様、覚えてらしたの」
「お前は子供の頃から、汽車に乗ると必ず栗のものをせがんだ」
「もうそんな歳ではありませんわ」
「歳は関係なかろう」
毅一郎は饅頭を一口で頬張った。頬に粉がついた。冴子は黙ってそれを見ていた。指摘するのも野暮な気がした。
饅頭は温かかった。懐の紙の束は、まだ冷たいままだった。
小田原電気鉄道の電車は、木造の車体を軋ませながら、酒匂の松林を抜けていった。窓から塩気を含んだ風が入る。
湯本に着くと、その先に線路はなかった。山道を登る馬車だけが、宮之下まで人を運ぶ。
「歩いた方が早いんじゃないか」毅一郎が苦笑した。
「お父様、その歳で言うことではありませんわ」
馭者が二頭の馬に鞭を入れた。馬車が揺れながら、坂を登り始めた。
冴子は懐に手を当てた。山道の振動が、紙の束の存在を何度も確かめさせた。
樅の木立の向こうに、湯気の立つ屋根が見えてきた。
「着いたぞ」
馬車が止まった。
富士屋ホテルの玄関に、灯りが点っていた。
玄関を入ると、暖炉の匂いがした。薪が爆ぜる音と、誰かの笑い声が遠くから聞こえる。
毅一郎はフロントに歩いていった。冴子はロビーで一人、コートを脱ぎながら辺りを見回した。
軍人らしい男たちが、グラスを手に固まって立っている。青島の祝勝会を待つ顔だ。誰もが上気して、声が大きい。
「——だから言ったろう、要塞砲より野戦重砲の方が」
「いやいや、現場じゃそうはいかんのですよ閣下」
誰かが笑った。誰かがグラスを掲げた。冴子には半分も理解できない話だったが、彼らが上機嫌であることだけは伝わってきた。
その輪の少し外側に、見覚えのない外国人が一人いた。コートを着たまま、暖炉の前で煙草を吸っている。
将官の一人が、軽く頭を下げながら声をかけた。「これはこれは、ヴォルコフ殿。本日はロシア大使館からも」
「お招きいただき、光栄です」外国人は流暢な日本語で答えた。「青島での日本軍の勝利、心よりお祝い申し上げます」
冴子は聞こえないふりをして、すれ違った。
(ヴォルコフ……ロシア人か)
冴子は足を止めなかった。男も視線を上げなかった。それだけだった。
毅一郎が戻ってきた。「部屋の用意ができたそうだ」と言った。冴子は頷いた。
懐の紙の束が、また少し重く感じられた。
窓の外はもう暮れていた。山の稜線が、最後の明るさを残してすぐに消えた。
部屋に案内される間も、冴子は何度かロビーを振り返った。外国人の姿は、もう見当たらなかった。
少しだけ解説を。
大正四年当時、東京から箱根・宮之下へ行くには、東京駅から国府津まで鉄道、そこから小田原電気鉄道の路面電車で湯本まで、そして湯本から宮之下は馬車という乗り換えが必要でした。箱根登山鉄道の開業は1919年、まだ存在していません。
冴子と毅一郎が踏んだ最後の山道は、当時の旅人にとって当たり前の不便さでした。
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