海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
部屋に着いて早々、冴子は帽子を脱いで寝台に投げた。手袋は片方ずつ引き抜いて、行き先も見ずに放った。上着のボタンを上から順に外す余裕もなく、最後の一つは引きちぎる勢いで開けた。そのままベッドに倒れ込んで伸びをした。
「くうううう。もう疲れたぁ……」
令嬢らしく振る舞うのは、サロンに入ってからで十分だ。
草案の紙の束は寝室の本の下に隠した。荷を解く間も、何度かその場所を確かめた。
日が落ちて、扉が叩かれた。父が言った。
「今夜は神林の令嬢として振る舞うように」
「分かっています」
「柏木は運転手として来ている。あまり声をかけるな」
「分かっています」
毅一郎はそれ以上言わなかった。冴子は身軽な懐の感触を確かめた。今夜だけは、何も持たない。
サロンへの扉を、従僕が開けた。
*
琴の前に座り、爪をはめた。父に「一芸として弾けるようにしておけ」と言われた手だ。子供の頃の稽古を、指がそのままなぞった。
「お上手ですこと」
背後から声がかかった。冴子は弾きながら、鏡に映った老夫人へ微笑んだ。「ありがとうございます」と言った。指は止めなかった。
サロンの洋燈が、招待客の肩越しに揺れていた。コロニアル様式の高い天井。壁沿いに並ぶ外国人客と、和洋折衷の礼服の将官たち。窓の外には箱根の冬山が黒く沈んでいた。
山縣は席の中央にいた。
七十七歳になる。肩が薄くなり、首が細くなった。だが座ったままでも場の空気を支配している。老いた猛禽だ、と冴子は思った。周囲の将官たちが山縣を中心に引き寄せられている。
曲の合間に、父が冴子を呼んだ。「お父上に似て、よい手をしている」山縣はそう言った。グラスを掲げる仕草だけをした。それ以上の言葉はなかった。視線だけが、琴の方ではなく冴子の手を一度なぞった。
冴子は頭を下げた。山縣はすでに別の将官に向き直っていた。
ほんの数秒だった。それだけで、サロンの空気が一段、冷えたように感じた。
(年寄りだから侮るな、と柏木さんが言っていた意味が分かった)
拍手が一段、大きくなった。
戸口に、もう一人の主役が現れていた。
弦の音が止んだ。拍手の中、加藤が冴子の方へ近づいてきた。
「加藤でございます」
名乗られて初めて気づいた。外相その人だ。
「お見事な腕だ。少し席を外す前に、聞けてよかった」
「ありがとうございます」
「お父様によろしくと。私は——」
言葉が一拍止まった。
「仕事が残っておりまして」
加藤は会釈をすると、山縣に短く頭を下げた。「本日は祝賀の場、私のような者の長居は無用かと」と言って、もう踵を返している。
「あの方、いつもそうだ」誰かが囁いた。「机に向かう時間を惜しんでいるそうですよ」
加藤の後ろに、書類鞄を抱えた随行官が一人控えていた。加藤が去った後も、その男はサロンの隅に残った。鞄を脇に置いたまま、所在なげに立っている。誰とも話さない。グラスも取らない。時折、鞄の留め金を指先で確かめる。その仕草が、もう何度も繰り返された。
(中身が気になって仕方ない、という持ち方だ)
冴子は琴の方へ視線を戻した。今夜は弾く番が回ってこない。それが幸いだった。色々と動きやすい。
*
「気づいたか」
声が、すぐ後ろでした。柏木だった。運転手の黒い上着のままだ。給仕に紛れて、誰の目にも留まらない。
「あの鞄」と冴子は小声で言った。「離さないのね」
「おそらく執筆中の外交文書だ」柏木は壁の絵を見るふりをした。「多忙すぎて、ここでも起案を続けているんだろう。鞄から離れないのも、それなら筋が通る」
「何の文書」
「いま外務省が何かを提案するとしたら、相手は中華民国だ」柏木は声を落とした。「内容までは分からない。だが欧州が戦争に釘付けになっている今、満州の権益拡大あたりが狙いだろうな」
冴子の指が、扇の上で止まった。
「……それなら、私、もう少し詳しいかもしれない」
柏木の動きが止まった。壁の絵を見るふりも忘れて、冴子を見た。この男がこんな顔をするのを、冴子は初めて見た。
「詳しい?」
「赤坂で買ったの。咲夜から。担当官の自宅の走り書きを、誰かが写したものですって」
「……お前」
柏木は短く息を吐いた。半分は呆れ、半分は何か別のものだった。
「先に言え、そういうことは」
「あなたが訊かなかったからよ」
「訊く前に持ってる女がどこにいる」
「ここにいるわ」
柏木は壁の絵に視線を戻した。口の端が、わずかに動いた。
*
「写しはどこまで読める」
「半分。書き写した人の字が下手で、抜けが多いの。山東省、旅順、大連——地名は読める。でも『政治顧問ノ採用ニ関スル件』『警察ノ合同に関スル件』とか、そういうのは、意味がよく分からない。そもそも外国に日本の警察なんて置けるの」
柏木は黙った。冴子の方が、自分の推測より先に進んでいる。その事実を、表に出さないようにしているのが分かった。
「分からなくていい」少し間を置いて言った。「分からんものほど、効く」
「原本がいる、ということ」
「写しじゃ抜けがある。抜けのない方を、誰かに見せられる形にしておく必要がある」
「誰かに見せる」
「お前が考えなくていい部分だ」
冴子はそれ以上聞かなかった。聞けば柏木が困る、という気配があった。
「盗るの」
「盗らない。撮る。撮影だ」
柏木は上着の内側を、一度だけ指で押さえた。固いものの輪郭が、布の上から見えた。
「写真機?」
「小さいのがある。接写がきくように弄ってある。書類を開いて、数枚撮って、元に戻す。物は動かさん。なくなれば騒ぎになるが、撮るだけなら誰も気づかん」
「そんな小さな機械でうまくいくの」
「部屋にはどうやって入るの」
「ピッキングする。ここの鍵の形状ならやれる」
「私がやろうか? 私の方がうまいでしょ」
「……だいぶ上達した。心配は無用だ」
「そう。ならいいけど。本当にうまくいくの?」
「いかせる」
柏木は冴子の方を見ずに続けた。
「あの男は二階の客室にいる。加藤大臣の部屋の隣だ。夜が更ければ、湯に入る。風呂は部屋にないからだ。下の共同湯まで降りてくる」
「鞄を置いて?」
「置いていく、と俺は読んでる。さすがに風呂に鞄は持ち込まんだろう」
「読みが外れたら」
「外れたら、別の隙を待つ。今夜は見るだけだ。問題は、男がいつ部屋を出て、いつ戻るか。湯に行くか行かないか」
「私が確かめてこようか。今夜は手が空いてる。琴の披露はもう終わり」
「それはとても助かる。無理はしなくて良いからな。共同湯付近で二十時頃から見張って、来なければ退散していい。もちろんお前も風呂を楽しんでもいい」
冴子は頷いた。話が早い。柏木の段取りは、いつも無駄がなかった。
「それと、もう一つ頼みがある」
柏木の声が、わずかに変わった。本筋ではない、という温度だった。
「山縣元帥の随行に、
「ツノダ……」
「五十手前。背が低い。軍服の着こなしがくたびれた男だ」
冴子は会場を見回した。それらしい男は、すぐに見つかった。山縣のそばで、媚びるように頭を下げている中年の軍人がいる。
「あの人?」
「たぶんな」柏木は短く言った。「そっちはついでだ。気にしておけ、という程度でいい。本丸は鞄の方だ」
冴子は、ついで、という言葉を胸に置いた。柏木が「ついで」と言うものは、重い話ばかりだった。だが今夜は、柏木の目が鞄の男に戻っているのが分かった。この男の重心は、確かに鞄の方にある。
「分かったわ。両方、見ておく」
「無理はするな。見るだけだ。手は俺が出す」
*
夜が更けた。
鞄の男が、ようやく腰を上げた。外相を追って部屋へ戻るのだろう。鞄を胸に抱え直し、人波を縫って出ていった。冴子はその背中を、目だけで追った。廊下を右。階段を上がる。二階の客室の方だ。
角田は、まだ山縣のそばにいた。グラスを置いては取り、また置く。展示テーブルにも、鞄にも、一度も目をやらない。ただ老公に話しかける機会を、ずっと窺っている。
(この人が、ロシアと?)
怪しい影は、何一つ出てこなかった。
夜会が引けて、冴子は廊下で柏木と落ち合った。絵の前だ。人気はない。
「角田は動かなかった」冴子は言った。「山縣元帥に取り入りたいだけの人に見えた」
「そうか」
「これから、湯を見てくる。あの男が降りてくるかどうか」
「無理はするな。見るだけだ」
柏木は煙草を取り出した。火はつけない。指の間で、一度だけ回した。その手が、いつもより少し速い気がした。
「あなた、本当に大丈夫なの。明日」
「危ない橋ね」と冴子は言った。
「危なくない橋に、渡る値打ちはない」
柏木は煙草を上着に戻した。
「お前は懐に何も持たずにいい夜だ。珍しいだろう」
「……そうね」
冴子は懐に手を当てた。今夜は本当に何もない。草案の写しは、部屋の本の下にある。手ぶらの懐が、思いのほか落ち着かない。十年、何かを抱えて歩く方に慣れてしまったのかもしれない。
「湯の見張りが終わったらもう寝ろ。明日は長い」
「あなたこそ眠れるの?」
「眠れんさ。だから煙草を持っている」
柏木は背を向けた。給仕の影に紛れて、廊下の奥へ消えた。
冴子は一人、絵の前に残った。
窓の外で、箱根の山が黒く沈んでいた。明日の夜、あの鞄が開く。湯へ降りる前に、まず確かめておきたいことがある。
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