海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第八十二話 闇を泳ぐ

――小一時間待って、諦めようとした時だった。

 

 誰も降りてこない。男の部屋の方からは物音がしない。すでに休んだのか、それとも今夜は湯に行く気がないのか。冴子の方が先に冷えてきた。

 

 (このまま見ているだけで、夜が終わるのも惜しい)

 

 冴子は柱の陰を離れた。夜会が引けてすぐ、二階の廊下に立っていた。鞄の男が湯へ降りてくるかどうかを、ここで確かめていたのだ。柏木の読みを、今夜のうちに当たりをつけておきたかった。

 

 柱の陰で立っているより、共同湯前のロビーに座っていた方が怪しまれない。

 

 壁に貼ってあったヘチマコロンのポスターをぼおっと眺めていたときだった。階段から足音が聞こえてきた。

 

「いやぁ、ようやく箱根の温泉に浸かれますなぁ」

「ですです。これだけが楽しみでしたよ」

 

 男達が談笑しながら階段を降りてくる。一人は陸軍軍人風、もう一人は……随行官だ。二人とも浴衣に着替えているが間違いない。

 

(21時20分。柏木さんの予想通りだ。「これだけが楽しみ」と言っていたので、明日も湯に浸かりにくるだろう)

 

 冴子はそう予測するとともに、一仕事終えて、ふっと緊張の糸が切れた。折角の箱根だ。自分の湯に入ろうと女湯ののれんをくぐった。

 

 宮ノ下の湯は、東京の水道とは全く違う匂いがする。硫黄の匂いだ。女湯の脱衣場には誰もいない。湯に身を沈めると、足の裏から熱が上がってきた。道場の内風呂と、どこか似ている。

 

 奥は露天になっていた。男湯とは低い塀一枚で隔てられているだけで、声がよく通る。冴子は内風呂を上がると次は露天風呂に入った。

 

 脱衣場の扉が開く音がした。

 

 冴子は耳を澄ませた。塀の向こう、男湯の方に足音と湯の跳ねる音がする。

 

「いやあ参りましたよ。加藤大臣も人使いが荒くてね」

 随行官の声だった。冴子は湯の中で動きを止めた。長湯になるかもしれないと判断し、半身浴の体制にもなれるよう段差付近に陣取った。

 

 男達の声が徐々に大きくなってくる。

 

「久しぶりの箱根かと思ったら、この後も起案で缶詰ですよ。風呂上がりの一杯は今回は諦めます」

「それは大変だ」もう一つの声が答えた。軍人の口調だ。先ほどの二人で間違いない。お互い、相槌を打っている。「外相付きも楽な仕事ではないですな」

「ですが、私は温泉が大好きなものでして。今回の出張の娯楽として、せめて風呂があってよかったですよ」

 

 (温泉が大好き……明日も来るのは確実)

 

 確信に近いものまで手に入った。

 冴子はそれ以上は盗み聞きはしなかった。音が立たないようゆっくりと湯から上がった。

 

   *

 

 柏木と落ち合った。また絵の前だ。人気はない。

 

「鞄の男のことが分かった」冴子は言った。「あなたの読み通り21時20分に共同湯に来た。たまたま一緒になった軍人に話していたの。風呂が好きだから、出張中も楽しみにしてるって」

「……聞いていたのか」

「さすがに男湯には入ってない。露天から聞こえてきたのよ。塀一枚しかないんだから」

 

 柏木は短く笑った。

 

「上出来だ。明日、決める」

 

   *

 

 懐が、今夜は重い。

 草案の写しを、冴子は懐に入れていた。柏木に言われたわけではない。情報をいつでも渡せる位置に置いておきたかった。

 昨夜、絵の前で柏木が言った言葉を思い出した。「明日、決める」。あの時はただの言葉だと思っていた。今、懐の紙の束の重さで、それが本当だったと分かる。

 

 二日目の夜会が始まっていた。シャンパンのグラスを持ったまま、冴子は展示テーブルの方を見ていた。あの背の高い男——角田ではない方の男だ。今夜は随行の列から少し外れた場所に立っている。木箱との距離が、昨夜より近い。

 角田の姿も探した。今夜も山縣のそばを離れない。落ち着かない様子だが、それは展示テーブルとは無関係な落ち着かなさに見えた。

 

 琴の音が、いつもより遠く聞こえる。指で弦を弾く手が、今夜は別の数を数えていた。柏木が部屋を出てから、どれだけ経ったか。

 

 廊下の扉が一度だけ開いた。柏木が覗いて、すぐに消えた。

 (行ったんだわ)

 冴子はグラスを口に運んだ。シャンパンは冷たかった。

 

 柏木は、二階の客室の前にいた。

 鞄の男の部屋だ。隣は外相の部屋。どちらも灯りが点いていない。男は今、共同湯にいる。男湯ののれんをくぐり浴場に入る所まで確認した。

 

 扉に手をかけ、すぐさまピッキングした。

 (頼む。練習通りうまくいってくれ)

 

――カチャ。

 

 (よしよし。第1段階は合格だ)

 

 中は暗い。窓の鎧戸も閉まっている。柏木は懐からカーバイドランプを取り出した。発火石を擦った。小さな炎が、白く強い光に変わった。

 机の上に、厚めの本が何冊か積まれていた。柏木はランプを近づけた。本の下に書類があった。積まれていた本を横に動かした。

 書類の表紙には何もない。柏木はランプを書類の上だけに向けた。光が紙面を四角く切り取った。文字が浮き上がる。

 

 懐から写真機を出した。レンズを近づけた。一枚、撮った。次の頁。また一枚。

 手は早かった。だが頁を繰る指が、紙の角で一度滑った。

 

 (落ち着け)

 

 三枚目を撮った。四枚目に取りかかった時、足音が聞こえた。

 階段を上がってくる足音だ。一人ではない。話し声がする。

 

 (早風呂すぎるだろ……)

 

 柏木はランプの火を吹いて消した。部屋が一瞬で闇に沈んだ。

 書類は持ったままだ。机の上に戻すか、それとも——足音が、扉の前で止まった。

 

 柏木は書類を机に置いた。順番までは揃えられない。手探りで、それらしい形に重ねた。本を上に戻した。写真機を上着の内側に滑り込ませた。

 

 扉が開いた。

 

「——では、私はもう失礼します。明日も早いので」

 声は鞄の男のものだ。誰かと立ち話をしている。扉の隙間から、廊下の灯りが筋になって入り込んだ。柏木は寝台の陰に体を沈めた。

 

(おいおいおい……本当に早風呂だったのか)

 

「外相閣下によろしくお伝えください」もう一人の声がした。「では、おやすみなさい」

 足音が一つ、遠ざかった。男だけが部屋に入ってくる。

 

 柏木は寝台のふもと、影の中にいた。男の足が、すぐ傍を通った。靴の先が、寝台の脚に当たって止まった。

 

 (——ッ)

 

 時間が伸びた。男は屈まなかった。何もしなかった。ただ立っているだけだった。柏木の耳に、自分の脈の音が聞こえた。脈動が上着を揺らしているのを感じた。

 

 靴の先が、寝台の脚を二度、軽く打った。癖なのか、暗闇の中で位置を確かめているのか、柏木には分からない。

 止まったのは数秒だった。だが柏木には、もっと長い時間に感じられた。

 男は靴紐の結び目を直しているようだった。立ち上がり、机の方へ歩いていく。

 

 柏木は息を殺した。書類の重ね方が、男の記憶と違っていれば、それで終わる。

 男は机の前に立った。書類に手を伸ばした。何も言わなかった。一枚、二枚と頁を確かめている。手が止まった。

 

 (——気づいたか)




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