海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
――小一時間待って、諦めようとした時だった。
誰も降りてこない。男の部屋の方からは物音がしない。すでに休んだのか、それとも今夜は湯に行く気がないのか。冴子の方が先に冷えてきた。
(このまま見ているだけで、夜が終わるのも惜しい)
冴子は柱の陰を離れた。夜会が引けてすぐ、二階の廊下に立っていた。鞄の男が湯へ降りてくるかどうかを、ここで確かめていたのだ。柏木の読みを、今夜のうちに当たりをつけておきたかった。
柱の陰で立っているより、共同湯前のロビーに座っていた方が怪しまれない。
壁に貼ってあったヘチマコロンのポスターをぼおっと眺めていたときだった。階段から足音が聞こえてきた。
「いやぁ、ようやく箱根の温泉に浸かれますなぁ」
「ですです。これだけが楽しみでしたよ」
男達が談笑しながら階段を降りてくる。一人は陸軍軍人風、もう一人は……随行官だ。二人とも浴衣に着替えているが間違いない。
(21時20分。柏木さんの予想通りだ。「これだけが楽しみ」と言っていたので、明日も湯に浸かりにくるだろう)
冴子はそう予測するとともに、一仕事終えて、ふっと緊張の糸が切れた。折角の箱根だ。自分の湯に入ろうと女湯ののれんをくぐった。
宮ノ下の湯は、東京の水道とは全く違う匂いがする。硫黄の匂いだ。女湯の脱衣場には誰もいない。湯に身を沈めると、足の裏から熱が上がってきた。道場の内風呂と、どこか似ている。
奥は露天になっていた。男湯とは低い塀一枚で隔てられているだけで、声がよく通る。冴子は内風呂を上がると次は露天風呂に入った。
脱衣場の扉が開く音がした。
冴子は耳を澄ませた。塀の向こう、男湯の方に足音と湯の跳ねる音がする。
「いやあ参りましたよ。加藤大臣も人使いが荒くてね」
随行官の声だった。冴子は湯の中で動きを止めた。長湯になるかもしれないと判断し、半身浴の体制にもなれるよう段差付近に陣取った。
男達の声が徐々に大きくなってくる。
「久しぶりの箱根かと思ったら、この後も起案で缶詰ですよ。風呂上がりの一杯は今回は諦めます」
「それは大変だ」もう一つの声が答えた。軍人の口調だ。先ほどの二人で間違いない。お互い、相槌を打っている。「外相付きも楽な仕事ではないですな」
「ですが、私は温泉が大好きなものでして。今回の出張の娯楽として、せめて風呂があってよかったですよ」
(温泉が大好き……明日も来るのは確実)
確信に近いものまで手に入った。
冴子はそれ以上は盗み聞きはしなかった。音が立たないようゆっくりと湯から上がった。
*
柏木と落ち合った。また絵の前だ。人気はない。
「鞄の男のことが分かった」冴子は言った。「あなたの読み通り21時20分に共同湯に来た。たまたま一緒になった軍人に話していたの。風呂が好きだから、出張中も楽しみにしてるって」
「……聞いていたのか」
「さすがに男湯には入ってない。露天から聞こえてきたのよ。塀一枚しかないんだから」
柏木は短く笑った。
「上出来だ。明日、決める」
*
懐が、今夜は重い。
草案の写しを、冴子は懐に入れていた。柏木に言われたわけではない。情報をいつでも渡せる位置に置いておきたかった。
昨夜、絵の前で柏木が言った言葉を思い出した。「明日、決める」。あの時はただの言葉だと思っていた。今、懐の紙の束の重さで、それが本当だったと分かる。
二日目の夜会が始まっていた。シャンパンのグラスを持ったまま、冴子は展示テーブルの方を見ていた。あの背の高い男——角田ではない方の男だ。今夜は随行の列から少し外れた場所に立っている。木箱との距離が、昨夜より近い。
角田の姿も探した。今夜も山縣のそばを離れない。落ち着かない様子だが、それは展示テーブルとは無関係な落ち着かなさに見えた。
琴の音が、いつもより遠く聞こえる。指で弦を弾く手が、今夜は別の数を数えていた。柏木が部屋を出てから、どれだけ経ったか。
廊下の扉が一度だけ開いた。柏木が覗いて、すぐに消えた。
(行ったんだわ)
冴子はグラスを口に運んだ。シャンパンは冷たかった。
柏木は、二階の客室の前にいた。
鞄の男の部屋だ。隣は外相の部屋。どちらも灯りが点いていない。男は今、共同湯にいる。男湯ののれんをくぐり浴場に入る所まで確認した。
扉に手をかけ、すぐさまピッキングした。
(頼む。練習通りうまくいってくれ)
――カチャ。
(よしよし。第1段階は合格だ)
中は暗い。窓の鎧戸も閉まっている。柏木は懐からカーバイドランプを取り出した。発火石を擦った。小さな炎が、白く強い光に変わった。
机の上に、厚めの本が何冊か積まれていた。柏木はランプを近づけた。本の下に書類があった。積まれていた本を横に動かした。
書類の表紙には何もない。柏木はランプを書類の上だけに向けた。光が紙面を四角く切り取った。文字が浮き上がる。
懐から写真機を出した。レンズを近づけた。一枚、撮った。次の頁。また一枚。
手は早かった。だが頁を繰る指が、紙の角で一度滑った。
(落ち着け)
三枚目を撮った。四枚目に取りかかった時、足音が聞こえた。
階段を上がってくる足音だ。一人ではない。話し声がする。
(早風呂すぎるだろ……)
柏木はランプの火を吹いて消した。部屋が一瞬で闇に沈んだ。
書類は持ったままだ。机の上に戻すか、それとも——足音が、扉の前で止まった。
柏木は書類を机に置いた。順番までは揃えられない。手探りで、それらしい形に重ねた。本を上に戻した。写真機を上着の内側に滑り込ませた。
扉が開いた。
「——では、私はもう失礼します。明日も早いので」
声は鞄の男のものだ。誰かと立ち話をしている。扉の隙間から、廊下の灯りが筋になって入り込んだ。柏木は寝台の陰に体を沈めた。
(おいおいおい……本当に早風呂だったのか)
「外相閣下によろしくお伝えください」もう一人の声がした。「では、おやすみなさい」
足音が一つ、遠ざかった。男だけが部屋に入ってくる。
柏木は寝台のふもと、影の中にいた。男の足が、すぐ傍を通った。靴の先が、寝台の脚に当たって止まった。
(——ッ)
時間が伸びた。男は屈まなかった。何もしなかった。ただ立っているだけだった。柏木の耳に、自分の脈の音が聞こえた。脈動が上着を揺らしているのを感じた。
靴の先が、寝台の脚を二度、軽く打った。癖なのか、暗闇の中で位置を確かめているのか、柏木には分からない。
止まったのは数秒だった。だが柏木には、もっと長い時間に感じられた。
男は靴紐の結び目を直しているようだった。立ち上がり、机の方へ歩いていく。
柏木は息を殺した。書類の重ね方が、男の記憶と違っていれば、それで終わる。
男は机の前に立った。書類に手を伸ばした。何も言わなかった。一枚、二枚と頁を確かめている。手が止まった。
(——気づいたか)
最後までお読みいただきありがとうございます。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。