海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
男の手は、ただ重なりの厚さを確かめているだけだった。鞄に仕舞い始めた。
(——気づいていない)
男が部屋の電灯を点けた。奇しくも柏木のいる寝台のふもとはちょうど死角になっていた。男は鞄の中身を確かめるのに忙しく、床までは見ていない。
柏木は寝台の下で、ゆっくりと体の角度を変えた。出口は一つ。窓からは無理だ。男が背を向けている今しかない。
男は洗面所に向かっていった。完全に背を向けているのは今しかない。
柏木は男の後を追うように出口へ向かって蛇のように這っていった。
バタン。男は洗面所のドアを閉めた。
柏木は上体をすぐさま起こして扉に向かった。音を立てずに開けた。廊下へ滑り出た。扉をゆっくりとしめた。丁重にピッキングで鍵をかけ直している暇はない。
振り返らずに歩いた。階段を下りる足が、いつもより速かった。
背後で、ばたばたという足音がした。
(——もう気づいたのか)
振り返りたい衝動を、柏木は飲み込んだ。振り返れば、それだけで疑われる。歩幅を変えずに、階段の角を曲がった。
足音は、追ってくる速さではなかった。むしろ柏木を追い越して、階下へ駆けていく。
「失礼、お先に」
声をかけたのは、鞄の男だった。浴衣のままだ。柏木の傍を抜け、フロントの方へ走っていく。
「お忘れ物でしょうか」フロントの係が声をかけた。
「煙草をどこかに置いてきてしまって。すみません、すみません」
随行官は、それだけ言った。フロントの灰皿の脇を覗き込んで、見つけた様子で安堵の声を上げた。また階段を上がっていった。
柏木は壁際で、ゆっくりと息を整えた。心臓が、まだ追いついていない。
階段の下、暖炉の陰で、柏木は一度だけ足を止めた。
上着の内側を、もう一度押さえた。写真機の硬さが、そこにある。確かにある。それだけを確かめて、息を一つ吐いた。
硬さがあるだけでは、何の証にもならない。中の乾板に何が写っているか、この場では分からない。現像しなければ、撮れたのか、ぶれて潰れたのか、判断のしようがない。
(賭けだ。今夜の分はもう賭けるしかない)
壁の鏡に、自分の顔が映った。体調の良さそうな顔だった。それが、少し意外だった。
懐の写真機を、表に出さないように歩く。サロンへ続く扉の前で、足取りを元の速さに戻した。誰かに会えば、運転手の使い歩きにしか見えない。それでいい。
歩きながら、ふと思った。この紙が誰の手を経て、どこへ行き着くのか、自分はおそらく最後まで知ることはない。上海の老人がそうしてきたように、自分もまた、行き先を知らない。知らないまま運ぶだけの一人だ。
それでいい、と柏木は思う。知らない方が、運びやすい。
角を曲がった先で、人影に行き当たった。
「——おっと」
加藤高明だった。書斎用の眼鏡をかけたまま、廊下に立っている。柏木は反射的に頭を下げた。
「これは失礼いたしました、閣下」
「こんな時間に、何をしている」
加藤の目は鋭い。柏木の上着の内側を見たわけではない。だが、この男はいつも誰かを観察している顔をしている。
「神林様のお車の具合を、夜のうちに見ておこうかと。明朝、早くにお発ちになるご予定と伺いましたので」
「ほう。運転手にしては、よく気が回るな」
加藤は柏木の顔を、一拍だけ長く見た。値踏みするような目だ、と柏木は思った。外相という肩書きを脱いだ時、この男はこういう目をするのかもしれない。
「神林の運転手は、お前一人か」
「もう一人、年配の者がおりますが、今夜は先に休ませております」
「そうか。夜分にすまなかったな。良い仕事だ、車を労うのは」
加藤はそれだけ言って、もう廊下を歩き出していた。書斎へ戻るのだろう。今夜もまだ起案が残っている、という足取りだった。起案に煮詰まって散歩でもしていたのだろうか。
柏木は頭を下げたまま、その背中を見送った。顔を上げた時には、いつもの顔に戻っていた。
(……何も感づかれなかっただろうか)
大丈夫だ、と思う。だが「思う」程度の確信しか、今夜は持てない。加藤という男は、自分の足元しか見ていないようで、実は誰の足音も聞いている。そういう質の人間だ、と柏木は前から感じていた。今夜、初めて間近でその目に当たった。
絵の前で待っているはずの冴子に、今夜の遭遇をどう伝えるか。隠す必要はない。だが、いちいち怖がらせる必要もない。柏木は、伝える順番を頭の中で組み直した。
*
絵の前で、冴子が待っていた。
「撮れたの」
「四枚のうち、三枚だけだ」柏木は短く言った。「途中で人が来た」
息は乱れていない。だが上着の内側を押さえる手に、わずかな力が入っているのが分かった。
「危なかったのね」
「危なくない仕事に意味はない、と言ったろう。が、今回ばかりは冷や汗ものだ」
柏木は写真機を取り出し、また仕舞った。
「四枚目が要る。お前の写しに、その分が入っているかもしれん」
「見てみる」
冴子は懐から紙の束を出した。月明かりだけの廊下で、二人は声を落として頁を繰った。山東省。旅順。大連。柏木が指で止めた。
「これだ。お前の写しに、ちょうど抜けていた部分がある。だがやはりそっちはメモ書きだな」
「足りたの」
「おそらく足りた」
柏木は写しを一度だけ自分の目で確かめ、冴子に返した。
「お前の方が、先に持っていてよかった」
「次は先に言うわ。あなたが驚く顔、もう一度見たいけど」
「軽口はいい。働きはちゃんと認めてる」
「その言い方、他の女の人には言わないで。偉そうよ」
柏木は煙草を取り出した。今夜は火をつけた。煙が一筋、廊下の暗がりに上がった。
「これを秋月さんに渡す」
「秋月さんって」
「海軍の知り合いだ。お前が気にすることじゃない」
柏木は煙を吐いた。さっきまでの速い足取りが、ようやく元の調子に戻っていくのが分かった。
「明日には帝都へ戻る。それで終わりだ」
「終わり?」
「俺の役目はここまでだ。後は別の手に渡る」
冴子はそれ以上聞かなかった。聞けば柏木が困る、という気配が、今夜もあった。
柏木は煙草を踏み消した。最後にもう一つだけ、と言うように、冴子の方を見た。
「お前のついでの方は、どうだ」
「あの背の高い男?」冴子は首を振った。「今夜は動かなかった。明日も、また見ているわ」
「無理はするな」
「無理はしてない。見ているだけだもの」
柏木は頷いた。それだけだった。本筋が片づいた今、ついでの話は本当についでに戻っている。
窓の外で、箱根の山が黒く沈んでいた。柏木の煙草の火だけが、廊下の暗がりに小さく灯っていた。
今回、少しだけ本筋から離れて、加藤高明という人物について触れておきます。
加藤高明は実在の外交官・政治家で、本作の時代設定である大正四年当時は外務大臣を務めていました。英国駐在経験が長く、日英同盟を外交の基軸とする姿勢を終生崩さなかった人物です。のちに内閣総理大臣となり、普通選挙法の成立にも関わります。作中で柏木が感じた「値踏みするような目」「誰の足音も聞いている」という印象は、実際の加藤の評伝にもよく出てくる、隙のない事務型の政治家としての人物像を参考にしています。
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