海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
背の高い男の足が、テーブルの前で止まっている。木箱まで、あと一歩半。
——二泊目の朝に戻る。
壁を蹴った。
水を切る感触が腕から肩に走った。折り返した。また蹴った。
富士屋ホテルの温水プールは外国人向けに作られている。朝の八時、泳いでいる客のほとんどが白人だ。視線を感じた。気にしなかった。
三往復して止まった。プールの縁に手をかけて息を整えた。道場で育てた体だ。剣道の足運びと水の抵抗は似ていない。だが体の軸を保つという意味では同じだ、と冴子はいつも思う。
今夜の段取りを頭の中で組んだ。展示コーナーから出入口まで十二歩。退路は廊下の両端に二つ。
朝、柏木から一言だけ追加があった。
「青島の接収品展示コーナーに、ドイツのカメラと
「乾板って何」
「写真の種だ。ガラス板に薬をひいてある。あれに像を写し取って、後で現像する。今の写真機は、たいていあれを使う」
「どの木箱」
「わからん。近づく者を見て、当たりをつけろ。角田とは限らん」
それだけだった。理由も、乾板の中身も、教えてもらえなかった。柏木が詳しく話さない時は、聞かない方がいい。それも長い付き合いで覚えたことだ。
水の中では、こういう計算がよく回る。道場でもそうだった。体を動かしている方が、頭の芯は静かになる。令嬢の仮面をつけている時間の方が、よほど疲れる。
プールの向こう側で、外国人女性が冴子を見ていた。「あなた、日本人にしては珍しい」と言った。「そうですか」と冴子は答えた。折り返した。
珍しいと言われる理由はいくつもある。どれを答えるつもりもなかった。
琴は父の勧めで始め、結局身につかなかった。剣道と三味線だけが体に残った。道場で育った娘には、令嬢の仮面より水の方が性に合う。そう思う朝だった。
プールから上がり、タオルで髪を拭きながら渡り廊下を歩いた。
踊り場の窓から外が見えた。冴子は足を止めた。
車寄せに二台、車が並んでいた。一台目が動いた。後部座席の窓に老人の影が見えた。山縣有朋だ。二台目が続いた。父の車だった。
どちらも坂を下っていく。小田原の方角だ。
タオルを持つ手が止まった。父は昨夜から一度も戻っていない。夜明け前に出たのか。夜通し向こうにいたのか。今になって坂を下るとは——宿泊したということだ。山縣の
(——お父様、何をしているのかな)
高杉に育てられた目が、こういう時だけ勝手に動く。令嬢の顔を脱いで、ただの観察者になる。父の行動の意味を読もうとする自分が、いつも少しだけ嫌だった。娘でいられる時間が、自分には少ない。
その疑問を飲み込んだ。今夜の任務は別にある。タオルで髪を拭きながら廊下を歩き続けた。濡れた足が絨毯の上を静かに踏んだ。
*
昼前、廊下で人の声がした。
「おい、これあけちまおう」
個室に通じる扉の前だった。声は角田剛三郎のものだ。
「よろしいんですか、中佐殿」
「いいんだよ。会議は終わった。もったいないだろ、こんないいブランデーが残ったままじゃ」
グラスが触れ合う音。笑い声。冴子は廊下の角を曲がり、足を止めた。
角田が扉から出てきた。手にブランデーの瓶を抱えている。そこへ廊下の向こうから田中義一少将が歩いてきた。田中が神林邸を来訪したときに挨拶をしたことがある。
角田の背筋が伸びた。瓶を背中に回した。
田中は角田を見た。通り過ぎかけた。立ち止まった。
「お前、それ……まぁいい」
田中は少し間を置いた。「もったいないから持って帰れ。もう一本部屋にあったろ。もっと良いやつ。それも後で俺の部屋に持ってこい」
「……は、はい」
田中は何事もなく歩き去った。角田は背中の瓶を前に戻した。部下が扉の陰から顔を出した。「どうされましたか」「持って帰れと言われた。あと一本取ってこい」
部下が部屋に戻った。角田は瓶を抱えたまま、廊下に一人残った。額の汗を拭った。冴子の位置からは、その横顔がよく見えた。中佐殿が、軍務局の少将より瓶の在庫の方を怖がっている。
冴子は角を曲がった。その先にある窓の外の景色を、しばらく眺める振りをした。
*
夜会の二日目が始まった。
コンソメスープが運ばれてきた。銀のカトラリーが白いテーブルクロスの上で光っている。牛ヒレ肉のローストの香りがした。冴子は展示コーナーまでの距離と角度を確認してから、スープのスプーンを取った。
隣の椅子が空いていた。しばらくして、外国人の男が座った。礼儀正しくお辞儀をした。日本語が上手い。「失礼、席が分からなくなりまして」と言った。
「いいえ」と冴子は答えた。
男は四十代だろう。穏やかな顔で、物腰が柔らかい。軍人ではない。どこかの外交官か。食事をしながら他愛ない会話が続いた。「箱根は初めてですか」「いいえ、二度目です」「青島の勝利はご同慶の至りですな」「おかげさまで」。
「失礼ですが、どちらのお方の」男が聞いた。
「父が陸軍におります」冴子は短く答えた。「あなたは」
「商用です。退屈な仕事ですよ」
男は笑った。目だけは笑っていなかった。
男が立ち去った後、冴子はスープを一口すすった。
(——妙な煙草の匂い。覚えのない匂いだった)
窓の外の山を見た。まだ確信はない。今夜の任務はそこではない。あの男が誰であれ、今夜の標的は木箱だ。
食後、冴子は展示コーナーの近くに移動した。青島の戦利品が整然と展示されている。双眼鏡、地図筒、それから木箱がいくつも並んでいた。ドイツのカメラと、その脇に積まれた乾板の箱。どれも同じ大きさ、同じ木目に見える。
夜会の主役は山縣であり、加藤であり、もっと言えばシャンパンと牛ヒレ肉だ。この一角には誰も寄ってこない。冴子はグラスを片手に、そこに居座ることにした。
十分ほどして、角田が展示コーナーへやってきた。もう一人、背の高い男を連れている。
「おお、これは本物のドイツ製ですかな」
角田は双眼鏡を手に取って、あちこちから眺めている。木箱には目もくれない。冴子はその横顔を見た。角田の視線は終始、双眼鏡と地図筒の間を行き来していた。木箱の並びには関心がなさそうだった。
背の高い男は、違った。
角田の隣に立ちながら、視線だけが繰り返し木箱の一つに戻っていた。一番奥、他より心持ち古い木箱。冴子はその視線の往復を見逃さなかった。
(あの箱だ。それに——この人が)
角田ではない。柏木の読みは、半分だけ当たっていた。展示コーナーに現れたのは角田だが、木箱を狙っているのは別にいる。名も知らない、背の高い男の方だ。
角田が双眼鏡を覗いた。「いや、これはなかなか」。テーブルに戻した。世間話を続けている。背の高い男は相槌を打ちながら、木箱との距離を詰めようとしない。冴子がまだそこにいるからだ。
(見ているわよ)
冴子は動かなかった。展示テーブルの前で、地図筒を興味深そうに手に取った。令嬢が珍しがっている、という体を崩さない。
角田が甥の話を始めた。背の高い男は聞き役に回りながら、木箱を一度だけ見た。今度は冴子を見た。冴子はシャンパンを一口飲んだ。動く気配を見せなかった。
男の肩から、わずかに力が抜けるのが見えた。しびれを切らしたのだろう。角田に何か断りを入れると、男はサロンの外、廊下の方へ姿を消した。角田も反対側へ散っていった。トイレだろうか。
(——今)
冴子は展示テーブルに近づいた。
奥の、あの木箱に手を伸ばした。蓋を開けた。中に乾板が数枚、布に包まれて入っていた。木箱を両手で持ち上げた。中身がガラスだからか、想像よりも重い。
サロンを出た。歩幅は変えなかった早歩きだ。展示コーナーから出入口まで十二歩。数えながら歩いた。
廊下に出た瞬間、走った。
背後で声がした。
「——おい、待て」
振り返らなかった。背の高い男の声だった。廊下の角で、木箱が消えているのに気づいたのだろう。足音が追ってくる。速い。
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