海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
走った。
木箱を両手で抱えている。片手が塞がっていた頃とは違う。中身がガラスだからか、想像よりも重い。落とせば終わりだ。壊さないよう、腕全体で抱え込んで走った。廊下の角を曲がる。もう一つ角を曲がる。夜会用の靴は走るようにできていない。
背後の足音が近い。忍び足のはずが、長い歩幅の分だけ地面への圧が違う。一歩ごとに、間合いが詰まっているのが分かる。冴子の三歩に対して、男は二歩で追いついてくる。
(——次の角)
この階には、確か——冴子は記憶の見取り図を辿った。突き当たりに、暖房設備の並ぶ小部屋がある。行き止まりだ。だが今は、他に選べる道がなかった。両手が箱で塞がっている以上、逃げ切るしかない。
前方に角が迫る。左だ。
人の体は、走ったまま直角には曲がれない。速度を殺さなければ、脚がついてこない。冴子は右足を外側に踏み込み、靴底を絨毯に強く押しつけた。摩擦を稼ぐ。その一瞬だけ体重を右に預け、生まれた反力を使って左前方へ体を投げ出す。道場で覚えた足運びだ。踏み込みと同時に、腰から先に回す。
曲がりきる寸前、背後で空気が動いた。男の長い腕が伸びてきた。狙いは冴子の左肩だ。避ける間がなかった。指が食い込んだ。
「ぐうっ……」
握力が強い。軍人の手だ。冴子はよろけながらも足を止めなかった。むしろその勢いを使って、体を半回転させた。肩をつかまれたまま、男の懐に一瞬近づく形になる。男が体勢を崩した。冴子も崩れた。二人分の重さが、廊下の奥へなだれ込んだ。
*
壁際に押しやられた。曲がり角の奥側、暖房用のスチームラジエータがずらりと並んでいた。鋳鉄の背が並ぶ小部屋だ。逃げ場はない。
男が距離を詰めてくる。冴子は木箱を胸に抱え込んだままだ。両手が塞がっている。殴れない。突けない。振り解くための手が一本もない。
だが、男もまた本気を出せずにいた。相手は若い女だ。素手で、大きな怪我をさせるわけにはいかない。今夜の騒ぎが、それだけで別の意味を持ってしまう。腕づくで奪えばいい話ではなかった。加えて、箱の中身がガラスだと男は知っている。強く押せば割れる。割れれば、今夜の仕事そのものが無に帰す。
力を出せない者同士が、力比べをしている。軍人と、令嬢と名乗る誰か。体格差は明らかにあるのに、その差が使えない。じりじりと、それでも冴子の背中がラジエータに近づいていく。
熱を感じた。まだ遠い。もう半歩。熱が皮膚に触れた。太ももの裏側、絹の靴下越しに伝わってくる。もう半歩。熱い。
冴子は腰を落とし、体をわずかに横へずらした。触れる面積を変える。それだけで、熱の当たり方が変わる。もっと熱い。背中を反らせる余地はもうなかった。壁と男とヒーターに、体を挟まれている。木箱を落とせば手が空く。だが乾板が割れる。捨てられない。
太ももの裏が、鉄の縁に触れた。びくり、と体が跳ねた。声にならない声が喉の奥で潰れた。冴子は足の角度を変えた。太ももの当たる位置を、ヒーターの縁から数センチずらす。焼けるような熱の中心から、わずかに外へ。完全には逃げられない。だが、耐えられる熱に変える。それだけで精一杯だった。
男の手が今度は口を狙ってきた。大きな手だ。冴子は頭を下げた。手が髪を掠めた。半歩、後退した。もう壁だ。これ以上、逃げる場所がない。
(——もう、限界)
道具袋に置いてきた、あの折り畳みナイフを一瞬思った。あったところで、この両手では使えなかった。今さらだ。迷っている間もなく、別の答えが出た。
「きゃああッ、犯さないでください!!」
声は廊下に響き渡った。乾燥した冬の空気がよく通した。道場で鍛えた腹から出た声だ。令嬢の悲鳴ではない。両手の代わりに、喉を使っただけだ。これが今夜、最も正確な武器だった。
男の手が止まった。廊下で足音がした。複数。早い。
(今のうちに)
男が気を取られた一瞬、冴子は木箱の蓋を開けた。乾板を布ごとつかみ出し、懐に押し込んだ。空になった木箱を、暖房機の脇にそっと立てかけた。備品と並べば、ただの荷物にしか見えない。息を整える暇はなかったが、それだけはやり終えた。
男は冴子を見た。一秒だけ見た。値踏みするような目だった。怒りも焦りも、もうなかった。ただ冷静な目だった。それから踵を返して、廊下の人波の方へ消えた。走らなかった。走れば怪しまれる。その判断の速さだけが、この男の本質を一瞬だけ見せた。
憲兵が駆けつけた。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「急に、男の方が……」
顔が青ざめているのは本当だった。痛みのせいだ。演技ではない。懐に押し込んだ布の包みには、誰も気づかなかった。すぐ脇に立てかけられた木箱にも、誰も目をやらなかった。備品というのは、そういうものだ。
それだけ言えば足りた。憲兵が周囲を確認し、廊下の端に冴子を誘導した。もう一人が「何者かが出ていきました」と報告した。憲兵が追おうとした。
「いいえ、もう……もういいです」
「そう言われましても。おい、二人は追え」
憲兵の後ろに、軍服の男が立っていた。
「暖房機に押しつけられていたろう。至急、氷嚢の用意を」
声は落ち着いていた。駆けつけた憲兵より、よほど状況を把握している声だった。
「お嬢さん、自力で歩けるか。部屋に浴室があるなら、まず水で冷やしなさい」
冴子は顔を上げた。
(——この方)
新橋の朝を思い出した。梅雨明け前の煉瓦通り。革トランクを提げ、迷いのない足取りで歩いていた将校。すれ違いざま、一度だけ横顔を見た。目が死んでいなかった。あの朝から、ずっと気にかけていた。間違いない。あの時の将校だ。真崎勇気大尉。顔立ちを正面から見るのは、これが初めてだった。想像していたより、ずっと。
(——いけない。今、そんなことを考える場合ではないのに)
頬が熱くなった気がしたが、それは暖房機のせいだと思うことにした。
「……ありがとうございます」
声が思ったより小さく出た。真崎はすでに視線を廊下の先へ移していた。冴子の返事など、聞こえていたかどうかも怪しい。
廊下の角に、晩餐会場から出てきた外国人の背中が見えた。あの穏やかな男だ。振り返らずに歩いていく。煙草の匂いが一筋、流れてきた。そして消えた。
(やはりあの男が絡んでいる。証明はできないけれど、今夜はそれでいい)
*
父が廊下の向こうから走ってきた。息が上がっている。上着のボタンが一つ、掛け違えられていた。
「冴子! 無事か、襲われたと聞いたぞ!」
神林毅一郎は冴子の腕を見た。次に顔を見た。それからようやく、全身に目を走らせた。久しぶりに父がここまで慌てているのを見た。
「大丈夫ですよ、お父様。太ももに軽い火傷を負いましたが、もう大したことはありません」
「火傷……? いつの間に。すぐに医者に診せに行くぞ」
「大丈夫です。部屋で冷やせばすみます。お父様、そんなに慌てて」
父の目に怒りはなかった。ただ安堵だけがあった。それは冴子が知らなかった父の顔だった。仕事の顔でも、令嬢の父親を演じる顔でもない。
「……お前は本当に、無事なのか」
「無事です」
毅一郎は、それでもしばらく娘の顔を見ていた。何かを言いかけて、やめた。「部屋まで送ろう」とだけ言った。
自室に戻った。父を部屋の前で帰し、扉を閉めた。
浴室に入り、蛇口をひねった。真冬の水は氷のようだった。スカートを脱いで太ももの裏側に当てた瞬間、息が止まりかけた。だが、じきに痛みの角が丸くなっていくのがわかった。冷たさが、熱さを押し出していく。水を浴びながら、冴子はしばらく壁に手をついていた。
布を巻いて水を止めた。机に向かい、懐から布の包みを取り出した。乾板を並べた。軽い。こんなものが、あの男をあそこまで動かした。何が写っているのか。現像しなければ誰にも分からない。分からないまま、今夜は柏木に渡すだけだ。
太ももの傷を確かめた。赤くなっている。水で冷やしたが、明日も残るだろう。袖をまくれば跡が見える。言い訳を一つ用意しておく必要がある。転んだ。それで足りる。令嬢はよく転ぶものだ。
琴の道具袋を開けた。ナイフがある。今夜は一度も使わなかった。持っていきもしなかった。柏木が使い方を教えなかった理由が、少しだけ分かった気がした。使う判断より、使わない判断の方を、あの人は信頼していたのかもしれない。
窓の外で、箱根の山が暗かった。廊下で会った将校の顔が、まだ目の奥に残っていた。
(真崎勇気大尉……)
新橋の朝からずっと、遠くから眺めるだけの人だった。それが今夜、間近で顔を合わせた。よりによって、廊下で暖房機に押しつけられていたところを助けられて。
(——初対面から、なんて不格好を)
顔が赤くなるのを、今度は暖房機のせいにはできなかった。冴子は布を替え、傷にあてた。続きは明日、柏木に聞く。柏木はたいていのことを知っている。
傷が、少しずつ痛み始めた。それでも、口元だけは緩んでいた。
今回登場した「暖房用のラジエーター」について、少しだけ解説を。
大正期の富士屋ホテルのような西洋式ホテルでは、セントラルボイラーで沸かした蒸気や温水を各部屋・廊下に配管で送り、鋳鉄製の放熱器(ラジエータ)で暖める「蒸気暖房」が主流でした。壁に接続された、重い鋳鉄製の器具で、表面はかなりの高温になります。当時はまだ電気暖房が一般家庭・宿泊施設に普及しておらず、こうした中央方式の暖房が主力でした。ラジエータは、ヨーロッパの古いホテルなどでは2026年現在もよく見られます。著者はヨーロッパに長期滞在していたときに、このラジエータを自分で調節することができず、凍えながら眠った経験があります。
鋳鉄は蓄熱性が高いぶん、一度熱くなると冷めにくいという性質があります。作中で冴子が「熱の当たり方を変える」ために体の角度を少しずつ調整していたのは、まさにこの手の器具ならではの対処法です。
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