海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第八十六話 元老の冬

 箱根の山を一つ隔てた小田原に、その夜、灯りが一つだけ長く点いていた。

 古稀庵(こきあん)。山縣有朋の別邸である。

 

 宮ノ下で夜会が催されていた、ちょうど同じ夜のことだった。

 母屋の奥、庭に面した一室には、大きな円卓が据えられていた。外国からの賓客を迎える折にのみ開かれる部屋だ。今夜はその円卓を、日本の元老たちが囲んでいる。天井は高く、灯りは円卓の中央にだけ集まり、囲む顔ぶれの表情を等しく浮かび上がらせていた。

 

 手入れの行き届いた松が、窓越しに黒々と覗いている。この庭だけは時が止まったように静かだった。山縣はこの庭を、政治より長く愛していると言われていた。政界の実力者たちが年に幾度となくこの円卓を囲むのも、庭を見るためではない。この静けさの中でしか話せぬことが、帝都にはあまりに多いからだった。

 

「――閣下は相変わらず、庭木の方が人間より可愛いと見える」

 

 最初にそう言ったのは、時の内閣総理大臣、大隈重信(おおくましげのぶ)だった。丸々とした体を椅子にねじ込みながら、円卓の下で義足を軽く打ちつけた。乾いた音がした。「この足は、どれだけ組んでも痺れんでな。長話には向いておる。便利なものよ」大隈だけが満足そうに頷いた。総理大臣という肩書きを、この円卓では脱ぎ捨てているようだった。

 

「時候の挨拶はそこまでにせい」山縣が言った。

 

「今宵は、陸軍大臣にもお越し願った」山縣は円卓の末席へ目をやった。「岡、造作をかけたな」

 

「恐縮にございます」岡市之助(おかいちのすけ)が頭を下げた。「参謀総長は南方の演習視察で身動きが取れず、次長の神林を名代として連れて参りました」

「かまわん。毅一郎の顔は、この卓でも見慣れておる」

 

 神林毅一郎は末席で軽く頭を下げただけだった。腹の底で幾つもの手駒を並べ替えながら、口だけは動かさずにいる男だった。

 

「加藤はまだか」

「じきに参ります」

 

 待つ間、毅一郎が口を開いた。

 

「閣下。加藤外相がお見えになる前に、一つ申し上げておきたきことが」

「部屋を移ってもよろしいでしょうか」

「よい。茶室に行くぞ」

 

   *

 

「対華の要求、正式に上がる十四箇条のほかに、いま一つ、別の条が用意されていると聞き及びます」

 

 山縣の目が、初めて動いた。「対華に要求をなすとは聞いておるが十四箇条あることも何も聞いておらんが……。で、別の条、とは」

 

「政治顧問の招聘(しょうへい)。警察の共同管理。兵器の共同購買――支那の内政そのものに手を入れる中身と聞いております。これは英国にも秘して進める腹づもりの由」

「――どこで聞いた」

 

 毅一郎は答えなかった。頭を下げただけだった。

 山縣はしばらく毅一郎を見ていたが、それ以上は追わなかった。

 

「陸軍の耳は、思ったより早いようだな」

「恐れながら」

「よく耳打ちしてくれた。部屋に戻るぞ」

 

   *

 

 廊下に足音がした。加藤高明が姿を見せた。指先まで神経の行き届いた、隙のない所作だった。英国仕込みの、無駄のない身のこなしだ。

 

「遅くなりました」

「待っておったぞ、加藤」山縣の声には、いつもの温度がなかった。「対華の一件、聞かせてもらおうか」

 

 加藤は懐から書付を取り出しかけて、止めた。

 

「対華要求につきましては、追ってご説明の場を設けます。今宵は要点のみ」

「要点でよい。第五号とやらの話をせい」

 

 加藤の指先が、一瞬だけ止まった。

 

「――どちらでお聞き及びに」

「聞いたかどうかは、この際どうでもよい」山縣は茶碗を置いた。「あるのか、ないのか」

 

 長い沈黙があった。

 

「……ございます」加藤は認めた。「政治顧問の招聘、警察の共同管理、兵器の共同購買――支那の内政に、より踏み込む条項です」

「踏み込む、というより」山縣は茶碗の縁を指でなぞった。「堂々たる内政干渉じゃな。英国には」

「十四箇条のみ、正式に通告いたします。第五号は――希望条項という体裁にて」

「隠すか」

「要求ではなく、あくまで希望として、にございます」

 

 山縣は長く黙った。

 

「加藤。お主が外相に就いてより、元老への文書回覧を取りやめたと聞いたが」

「外交は外務省の専管事項にございます。いちいち回覧しておっては、機を逸します」

「機を逸する、か」

 

 元老、松方正義(まつかたまさよし)が、それまで黙って茶碗を見ていた目を上げた。

 

「加藤くん。わしが直接、乗り出して交渉してもよいが」

「それはなりません」加藤は即座に答えた。「元老がお立ちになれば、外務省の描く絵図が崩れます」

「相変わらず、手厳しいことだ」松方は肩をすくめただけだった。

 

 山縣が、さらに続けた。

 

「加藤。列国が好意を以て迎える条項など、この中にはほとんどあるまい。日本の今の分際で、英国などと同列のふるまいができると思うなら、自惚れが過ぎるぞ」

「――肝に銘じます」

「弱い者いじめと取られては、元も子もない。策としては、(つたな)い」

 

 加藤は答えなかった。若い頃、ロンドンの社交場で覚えた沈黙の作法だった。答えられぬ問いには、答えぬのが最も雄弁だ。この男は、日英同盟という盤を誰よりも愛し、誰よりも危うい橋を渡ろうとしている。

 

 庭先で、老いた下男が炭を足しに来た。部屋の空気が一瞬だけ緩んだ。

 

「閣下、火鉢もう一つお持ちしましょうか」

「いらん。年を取ると、暑さより小便の近さの方が難儀でな」

 

 山縣がぽつりと言った。誰も反応しなかった。下男も表情を変えず、炭を足して下がった。加藤だけが、一瞬だけ何と返せばいいか分からぬ顔をした。ロンドン仕込みの応対でも、この手の返答は教わらなかったらしい。

 

 沈黙のまま、また本題に戻る。

 

「金の話をしてよろしいか」松方が言った。

「またカネの話か」大隈が茶々を入れた。「そういえば、私生活でも金の話ばかりでは、女にモテるはずもないな」

「大隈殿、ここではよせ」松方は表情も変えずに続けた。「外債の借り換えの件、陸軍が英国から言質を取りたがっていると聞いた。日露戦争に際して、高橋是清(たかはしこれきよ)がロンドンとニューヨークで搔き集めた金だ。ジェイコブ・シフという米国の銀行家がいなければ、あの戦は続けられなんだ。あの時の利払いが、いまも国庫の首を絞めておる。少しでも軽くなるならば、わしはそちらの方が余程大事だと思うが」

「関係ないようで、大ありの話じゃな」大隈が円卓の下で足を組み替えた。義足がまた乾いた音を立てた。

 

「陸軍としても、一つ、ご相談したき儀が」岡市之助が言った。「次長、話してさしあげろ」

 

 毅一郎は一礼した。

 

「畏れながら」毅一郎は言葉を選んだ。「第五号が漏れれば、英国の心証を著しく損ないましょう。ですが、損なわれた心証は、別の場所で埋め合わせることができるかと」

「言うてみよ」

「陸軍省内に、乃木閣下の遺志を継ぐと申す血気盛んな若造がおります。青島では、白兵に頼らぬ火力で結果を出しました。あの若造の言葉を借りるならば――欧州へ本格的に派兵し、英国の窮地を助ければ、多少の――」毅一郎は一拍置いた。「多少の心証の悪化は、相殺できるものと」

「借りを作らせて、貸しで帳消しにする、という腹か」

「左様にございます」

 

 山縣はしばらく黙っていた。庭の松に目をやったまま、動かなかった。

 

「面白い」大隈が身を乗り出した。「わしは面白いと思うぞ。乃木の遺志とは、また義理堅い若造もおったものだ。会うてみたいものだな」

「面白いかどうかではない」山縣が言った。「勝てるかどうかだ」

「勝てましょう」毅一郎は言った。

 

 根拠のない即答だった。だが、この場でそれを口にできる強さを、毅一郎は持っていた。田中義一があの若造を試したように、この円卓もまた、若造の描いた絵図の真贋を試している。そのことに、この場の誰も気づいていなかった。

 

「よかろう」

 

 山縣は湯呑みを置いた。「対華要求は、加藤の描いた絵図通りに進めよ。だが五号については、わしは解せぬ。支那に突きつけたところで、いずれ列強の耳に入る。要求の時期と、情報の扱いは徹底させよ。欧州派兵の件は、陸軍省の好きにやらせておけ。満蒙の特殊権益の承認と、外債借り換えの緩和――英国からそこまで引き出せれば、あっぱれというものだ。だが、一つだけ言っておく」

 

 部屋の温度が、また下がった気がした。

 

「これはいずれ、誰かが腹を切る類の話だ。うまくいけば誰の手柄でもよい。しくじった時、責めを負う覚悟のある者だけが、ここに座れ」

 

 毅一郎は頭を下げた。何かを飲み込んだ顔をしていた。この老人は、将来の自分の死に方を、いま無自覚に言い当てている。そんな気がしたが、口には出さなかった。

 

「覚悟の上にございます」

「良い返事だ」大隈が茶を啜った。「わしなら、その手の覚悟は義足に預けて、自分では一切背負わんがな」

 

 今度は山縣が、口の端をわずかに緩めた。笑ったのかどうかは、誰にも分からなかった。加藤だけが、この老人二人の呼吸に、まだついていけずにいた。

 

 廊下に足音がした。若い伝令だった。膝をつき、毅一郎の耳元に何かを囁いた。

 

 毅一郎の顔から、血の気が引いた。

 

「――何だと」

「宮ノ下にて、お嬢様が何者かに」

 

 毅一郎は立ち上がった。座を立つ作法も忘れていた。

 

「閣下、御無礼を」

「構わん、行け」

 

 山縣は短く言った。毅一郎は廊下へ飛び出しながら、震える指で上着のボタンを掛け直した。急いていたせいで、一つ掛け違えたままだった。それに気づく余裕は、もうなかった。廊下の向こうで、自動車の扉が閉まる音がした。エンジンの唸りが、松林の向こうへ遠ざかっていく。

 

 円卓に残された者たちが、しばらく黙っていた。

 

「――冴子殿か」大隈がつぶやいた。「あの跳ねっ返りが、こんな夜に何をしでかしたものやら」

「知らん」山縣は庭に目を戻した。「ワシの知ったことではない」

 

 だが、その目は庭を見てはいなかった。毅一郎の消えた廊下の暗がりを、いつまでも見ていた。加藤が茶を注ぎ足そうとして、徳利が空なのに気づいた。誰もそれを咎めなかった。

 

 庭の松に、粉雪が降り始めていた。古稀庵の灯りだけが、小田原の闇の中で、いつまでも消えずに残っている。




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