海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
針の先が、指の腹を刺した。
「……っ」
真崎は指を口にくわえた。血の味が滲む。畳の上に繕い物を広げていた。ボタンの取れた軍服の袖だ。まだ半分も進んでいなかった。
三日ぶりの非番だった。上海から戻って以来、ろくに休みが取れていない。せめて今日一日は、誰にも呼ばれずに過ごすつもりだった。針仕事は昔から苦手だ。八極拳の型を千回繰り返す方が、よほど性に合っている。
障子の隙間から、冬の朝の光が差し込んでいた。部屋の中はまだ冷えている。真崎は肩を回し、首筋を鳴らした。昨夜は遅くまで、明日の狙点を頭の中で組んでいた。皿の飛ぶ角度、風の向き、投擲機の癖。実戦の兵站計算をする時と、同じ頭の使い方だった。
指の血を確かめてから、真崎はもう一度針を持った。今度は慎重に、糸を通す。
(これしきの物、片づけられなくてどうする)
三十分かけて、ようやくボタンが一つ付いた。歪んでいた。真崎はそれを見て、少しだけ笑った。誰に見せる袖でもない。歪んでいても構わなかった。
壁に立てかけた革のガンケースに目をやった。中身はブローニング・オート5——ベルギーのFN社が世に出した自動散弾銃だ。反動を利用して次弾を薬室に送り込む機構。村田銃の
給料の少なくない額を、この銃一挺に注ぎ込んだ。だが、これは贅沢ではない。仕組みを知りたいという、もっと始末の悪い欲だ。
今日は、それを試す日だ。クレー射撃という遊びがある。素焼きの皿を空中に飛ばし、それを撃ち落とす。横浜の外国人たちの間で広まりつつある競技だ。日本人にはまだほとんど知られていない。
*
新橋から始発に近い汽車に乗った。冬の朝、車窓は白く曇っていた。横浜までは一時間もかからない。着いた頃には、日はもうすっかり昇っていた。
旧居留地の一角に、その射撃倶楽部はあった。制度としての居留地はとうに廃止されている。それでも街並みは、外国人が住んでいた頃とほとんど変わっていない。異国の言葉と、コーヒーの匂いが未だに漂っている。
石造りの倶楽部の裏手が、射場になっていた。冬枯れの芝の向こうに、木製の投擲小屋が一つ。粗末な作りだが、この遊びが日本にはまだ珍しい証だった。空にはうっすらと霜が残る雲があり、風はほとんどない。今日は狙いやすい日だった。
会員は十人足らず。ほとんどが外国人だった。日本人は真崎ともう一人だけだ。
「オオ、マサキ。今日は新しい銃か」
顔見知りの英国人商人が、真崎の抱えたケースを見て目を細めた。
「ブローニングです」
「自動装填か。撃つのは初めてだろう」
「ええ」
少し離れた場所で、水平二連銃を磨いていた日本人が顔を上げた。真崎ともう一人の日本人会員、貿易商の息子だという初老の男だ。
「真崎さん、また物好きな。
「試してみたいだけです」
「軍人というのは、皆そうやって身上を潰す」
男は笑いながら、自分の銃身を布で拭き続けた。悪意のない皮肉だった。真崎は否定しなかった。
係の少年が、投擲機に素焼きの皿を構えた。手投げの粗末な仕掛けだ。輸入されたばかりの器具で、まだ扱いに慣れていない。
「プル」
真崎の声に、皿が飛んだ。左へ、思ったより高く。狙いを外した。空を切った銃声だけが、冬の空気に響いた。
(——想定より初速が速い)
村田銃の重い引き金とは勝手が違う。軽すぎる引き金は、かえって狙いを乱す。頭では分かっていたが、体がまだ覚えていなかった。
「ハハッ、初弾はそんなものだ」
英国人が笑った。真崎は銃を下ろし、機関部を確かめた。薬莢が自動で排出され、次弾が装填されている。この感触だけで、今日来た甲斐があると思った。
「もう一度」
二枚目。皿の軌道を、今度は最後まで見た。呼吸を半分だけ吐いて、止めた。銃床を頬に押し当てる。木の感触が冷たい。指先に力を込めるのではなく、抜く。師範の教えとは畑違いだが、道理は同じだ。狙いは皿そのものではなく、少し先——皿が飛んでいく先の空間に置く。
パン。
皿が空中で砕けた。白い粉が、朝の光の中で散った。反動が肩に伝わる。村田銃よりも柔らかい衝撃だった。機構が、力を逃がしているのが分かる。
「オー!」
周りから拍手が起きた。真崎は銃を下ろし、それだけで満足した顔をした。
三枚目、四枚目、五枚目と、面白いように命中が続いた。投擲機の癖が読めてくると、体が勝手に狙いを合わせる。
空に、茶色い羽の塊が横切った。
鴨だった。三羽ほどが、隊列も組まずに射場の上を通り過ぎていく。
「——おい」
水平二連の男が銃を構えかけて、すぐに下ろした。
「まさか、あれを撃つ気じゃないでしょうね」
「一瞬、迷った」
男は真顔でそう言った。係の少年だけが、素焼きの皿を構えたまま所在なく空を見上げている。
「これではまるで狩猟じゃないか」
「クレーより、よほど狙いやすそうですが」
「それを言うな」
鴨は誰にも撃たれず、悠々と倶楽部の向こうへ消えていった。何事もなかったように、係の少年が皿を放った。
六枚目、紐が緩んだのか、皿は予想より低く右へ逸れた。
「惜しいな」
水平二連の男が声をかけた。真崎は肩をすくめただけだった。
(癖を読み違えた。もう一度、同じ紐の音を聞けば分かる)
七枚目。投擲小屋の紐が擦れる、かすかな音に耳を澄ませた。放たれた瞬間、右への逸れを見込んで銃口を合わせる。
パン。
命中。八枚目、九枚目と、続けて皿が砕けた。頭で考えるより先に、指が動く感覚だった。こんな感覚は、上海の銃撃戦以来だ。ただしあの時は生死がかかっていた。今は誰も死なない。それだけで、体の力の抜け方がまるで違った。真崎は自分でも気づかないうちに、口の端を緩めていた。
「ブラボー、マサキ! 見事な腕だ」
英国人が声を上げた。水平二連の男でさえ、布を持つ手を止めて眺めていた。
「はは。遊底式で十分と言ってたじゃないですか」
「訂正しよう。その銃、見直した」
「遊びも仕事のうちです」
「詭弁だな」
十枚目。集中が研ぎ澄まされていく。呼吸、姿勢、引き金——すべてが一つの流れになっていた。命中。歓声が上がる。十枚のうち、九枚を落としたところで、真崎は肩の力を抜いた。
(悪くない)
村田翁に見せたら、なんと言うだろうか。あの老人は自動装填の機構をどう評するか。考えただけで、次に会う時の会話が楽しみになった。
*
昼近く、倶楽部の入口が騒がしくなった。
「真崎大尉殿は、こちらに」
軍服の若い伝令だった。息が上がっている。走ってきたのだろう。額に汗が浮き、軍靴には土埃がついていた。
真崎は銃を置いた。周りの会員たちが、何事かと視線を向けてくる。
「私だが」
「至急、これを」
電報だった。差出人の名を見ただけで、面倒事だと分かった。柏木丈二。
「至急、宮之下へ来られたし」
理由は書いていない。柏木が理由を書かない時は、書けない理由がある時だ。
「お宅にお伺いしましたが、ご不在でしたので。射撃場においでと聞き、追ってまいりました」
伝令は息を切らしたまま、直立していた。真崎はブローニングをケースに戻した。歪んだボタンの袖に、もう一度腕を通す。
「迎えは」
「自動車を待たせております。急ぎとのことでしたので、陸軍省が借り上げました」
真崎は一瞬、伝令の顔を見直した。自動車に乗る機会など、そう多くはない。柏木がそこまで急いでいるということだ。準備がいい。柏木のやることは、いつもそうだ。
英国人が、ケースを片づける真崎を見て肩をすくめた。
「仕事か」
「ええ」
「軍人はいつもそうだ。楽しみの途中で呼ばれる」
「次はもっと撃たせろ。今日はいい銃を見た」
二人分の台詞が重なった。真崎は思わず苦笑した。英国人も同じ顔をしていた。
真崎は短く頭を下げ、倶楽部を出た。冬の日差しが、旧居留地の煉瓦道に長い影を落としていた。自動車に乗り込みながら、真崎は電文をもう一度見た。
(宮之下——)
箱根の温泉地だ。何の用件かは分からない。柏木がわざわざ電報を寄越す時、ろくな話ではなかったためしがない。田中との交渉が終わったばかりだというのに、今度は何が待っているのか。
自動車のエンジンが唸り、車体が動き出した。硝煙の匂いが、まだ上着に残っていた。倶楽部の煉瓦塀が、窓の外を過ぎていく。今日という一日は、これで終わりだった。もっとも、最初から長続きする休みだとは思っていなかった。
少しだけ解説を。
日本でのクレー射撃の起源は、1878年(明治11年)、横浜の外国人居留地に遡ります。当時は素焼きの皿ではなく、生きたスズメを放って撃つ「放鳥射撃」として始まりました。横浜放鳥会という愛好会が結成され、鶴見村に専用の射撃場まで作られていたそうです。
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