海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
自動車は箱根の山道に差し掛かっていた。横浜を出てから、すでに二時間近くが過ぎている。
真崎は座席に体を預けたまま、柏木からの電報を何度も思い返していた。「至急、宮之下へ来られたし」――それだけだ。理由を書かない柏木の癖は知っている。だが今回は、いつもより急いている気がした。徴用の自動車まで寄越すとは。
窓の外を、霜の降りた木立が過ぎていく。日はすでに傾き、山の影が道に長く伸びていた。運転手は無口な男で、山道に入ってからは一言も発していない。
真崎は内ポケットに触れた。乃木大将の遺書の隣、赤い布の感触があった。上海の霧の中で聞いた三味線の幻聴を、ふと思い出した。あの老人はいまごろ、どこで何を企んでいるのか。
自動車が揺れた。道が凍っているらしい。運転手が速度を落とした。
(柏木が急ぐ理由――)
考えても答えは出なかった。
窓ガラスに、自分の吐く息が薄く曇った。指先でそれを拭うと、外の景色がまた鮮明になった。霜を被った杉林の向こうに、明かりが一つ見えた。
富士屋ホテルの門灯だった。
自動車が門前で止まると、玄関先に人影が一つ、じっと立っているのが見えた。火のついていないタバコを持った男だった。柏木丈二に違いない。
真崎はドアノブに手をかけた。
*
同じ頃、地球の裏側では、
シンガポールを経てスエズ運河を抜け、地中海を渡り終えたのは、大正四年一月の初めのことだった。
停車場からの道すがら、志願兵を募る貼り紙をいくつも見た。指を差す髭の将軍の絵。
BRITONS WANTS YOU――「英国はお前を必要としている」。
街角では、揃いの帽子をかぶった一団が隊列を組んで行進していた。同じ町工場、同じ教区の若者を募って一つの中隊に仕立てる。パルズ大隊という仕組みだと聞いた。開戦から半年近く経つというのに、街の熱気はまだ冷めていないらしい。若い男が一人で歩いていれば、見知らぬ女が白い羽根を差し出す。臆病者への符牒だと、船の中で聞かされていた。上海の
ヴァンス男爵が指定してきたのは、セント・ジェームズ通り裏手の、看板も出さない古いサルーンだった。扉を叩くと、初老の給仕が無言で頷き、奥の階段へ案内した。案内された特別室に通されると、卓の上にはすでに支度が済んでいた。黄金色に揚げられた魚と山盛りのポテト、そして漆黒のギネスビールが、泡を立てている。
「またそれですか……ヴァンス男爵。」
「といいつつ、
自分の口から出た言葉に、秋月は少し驚いた。あの夜は、この漆黒の液体を前に、言い知れぬ寒気を覚えたものだった。
ヴァンスは目を細め、椅子に深くもたれた。
「成長したものだ、少佐。以前のあなたは、このグラスを恐ろしい生き物でも見るような目で眺めていた」
「見抜かれておいででしたか」
「私の仕事は、人の目を読むことですからね。さあ、チップスが冷めないうちに」
「閣下は、変わりませんね」
「変わらぬのが取り柄でしてね。世界の方が、勝手に変わっていく」
秋月はグラスを傾けた。苦味の奥に、焦がした麦芽の甘さが潜んでいる。フィッシュの衣を噛み砕く音が、静かな部屋に響いた。
「閣下。今日は豪華な土産があります」秋月はナイフを置いた。「対華二十一箇条の件です」
「ほう。正式な通告は今月半ばと聞いていますが」
「十四項目は、貴国にも正式に通告されるでしょう。ですが――」秋月は声を落とした。「第五号がある。政治顧問の
ヴァンスの指が、初めて止まった。ナイフを持つ手ではなく、テーブルの端を軽く叩いていた指だ。
「――それは、貴国の公式な情報網からの話ですか」
「いいえ。私どもの筋からです」
「私どもの、ね」
ヴァンスはしばらく秋月の顔を見ていた。値踏みするような目ではなかった。値踏みは、もう終わっている目だった。
「諜報部隊にも出ていない話を、正式な通告より先に、私の耳へ届けてくださると」
「同盟国のよしみです」
「あなた方の耳の早さには、いつも驚かされる。うちの外務省より早いというのは、少々具合が悪い話ですがね」
「ご厚意には、貴国政府として然るべき形で応えねばなりますまい」
「それは、こちらが望むところです」
ヴァンスは低く笑った。だが目は笑っていなかった。秋月は、この男が今夜のうちに誰かへ電文を打つだろうと察した。大英帝国が、公式ルートより先にこの一手を握る。それが、影の奇兵隊の仕事だった。
「もう一つ、伺いたいことがあります」秋月は声の調子を変えた。「――英国側が、帝国陸軍の欧州派兵を希望しているとの風の噂を、耳にしたことがあります」
ヴァンスの表情は動かなかった。だが、ナイフを持つ手が、一瞬止まった。
「風向き次第では、そういう声がなくもない。実情はどうですか、少佐」
「それについてですが」秋月は言葉を選びながら続けた。「陸軍省の一部が、まさにその派兵を条件に、日露戦役の外債の借り換えを、貴国政府から引き出せないかと動いています。閣下もご存じの通り、あの戦役の外債がいまも国庫の首を絞めている。ロンドンとニューヨークで、高橋是清が搔き集めた金です。ジェイコブ・シフという銀行家の援助がなければ、あの戦争はなかった」
「有名な話です。あの若い財政官には、金融街《シティ》でも一目置く声がありましたよ」
「海軍としても、同じ流れに乗りたい。艦隊の近代化には、金がかかる。利払いが一分でも軽くなれば、新型艦の建造費に回せます」
ヴァンスは頷いた。皿の上のポテトを一本つまみ、油のついた指を気にする様子もなく口へ運んだ。
「陸軍も海軍も、同じ橋を渡ろうというわけだ。面白い。両方から梯子をかけられれば、こちらとしても断りにくくなる」
「そう願っています」
「もっとも、
「もっとも」ヴァンスの声に、初めて疲れの色が滲んだ。「私にも近頃、頭の痛い話がありましてね」
秋月は黙って続きを促した。
「先日、
「チャーチル海軍大臣ですか」
「あの御方は、頭の回転が誰より速い代わりに、止まる場所を知らない。私のような重石が要るのは、そのためです」ヴァンスはグラスの中身を回した。「腹立たしいのは、作戦を決める狭い輪の中に、実務を知る者が呼ばれないことだ。絵図を描くのは花形の将官たちで、後始末をするのは我々のような裏方だ。海図も兵站も知らぬ者が、机の上で海峡を突破させたがる」
「危うい賭けだと」
「賭けそのものが悪いとは言わない。ただ、負けた時の勘定書が誰の元に届くか、あの御方は考えていない」
愚痴だった。だが、この男の愚痴には、いつも芯がある。秋月はそれを黙って聞いた。街の外では、志願の熱狂が煙のように漂い、パルズ大隊の若者たちが誇らしげに行進している。その裏側で、こういう男たちが冷徹にソロバンを弾いている。上海の高杉と、どこか似ていた。
*
夜、宿泊先のインペリアル・ホテルに戻った秋月は、しばらく窓の外の霧を見ていた。上海に残したキクのことを思った。かりんとうの包みは、まだ半分残っている。あの湿った里弄の朝と、この乾いた霧の街と、どちらが遠いのか分からなくなる時がある。
卓に向かい、暗号表を広げた。宛先は美濃部栞。海軍省嘱託翻訳官。数字の羅列を組み立てながら、秋月は今夜聞いた三つの話を、簡潔な符牒に変えていく。第五号、ダーダネルス、外債――どれも、栞の手を経て、正しい場所へ届くはずだった。
電文を打ち終えると、秋月はランプを消した。窓の外で、霧がまた一段深くなった。
少しだけ解説を。
本話でロンドンの街角に描いた、同じ町工場・同じ教区の若者が一つの中隊に編成される仕組み――これは実在した「Pals Battalions(戦友大隊)」です。友人・兄弟・同僚が同じ部隊で戦えると謳われ、開戦直後の志願熱を大いに後押ししました。ただし同じ町の若者が同じ部隊に固まるということは、一つの戦闘で壊滅すれば、その町から同世代の男たちがまとめて消えることも意味します。秋月が見た行進の高揚の裏には、そういう仕組みの怖さが潜んでいます。
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