海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第九話 海上の時限爆弾

 大正三年(一九一四年)六月の末。

 

 東シナ海を上海へと向かう日本郵船の一等喫煙室。

 ハバナ産高級シガーの紫煙と、特権階級特有の明るいざわめきが満ちていた。

 革張りのチェスターフィールド・ソファに身を沈め、真崎勇気は水っぽくなったウイスキーを傾けていた。

 

 手元の英字紙には、数日前の凶報が刷られている。

 

『オーストリア皇太子、サライェヴォにてセルビア人青年の凶弾に(たお)る』

 

 部屋では、欧米の商人たちがカードテーブルを囲んでいた。

 

「バルカンの田舎町で、また野蛮人どもが騒ぎを起こしたらしい」

「我々の商売には関係のない話だ。さあ、カードを配りたまえ」

 

 グラスを片手に肩をすくめ、ポーカーへ向き直る。

 

(愚かな……。火薬庫の導火線に、すでに火は点いたというのに)

 

 その呑気な宴が狂人の笑いに映り、真崎が英字紙を握り直した――その時だった。

 

「――相席、構いませんか」

 

 流暢な日本語が、耳を打った。

 

 真崎は男を見た。

 年齢は同じか、少し若いか。

 

 まず鼻腔を打ったのは、フランソワ・コティの甘く退廃的な香水だった。

 次に視界に入ったのは、体に完璧に寄り添うアイリッシュ・リネンの三つ揃えと、ベストに光る純銀のチェーン。

 西欧で仕上げられた中国人の青年――一見すればそう見える。

 

 だが真崎の直感は即座に警告した。

 男の所作に、無駄がない。

 座る動作にすら、筋肉の隙がない。

 死線と隣り合わせで生きる者だけが持つ、獣の静けさだった。

 

 真崎は微かに目を細め、警戒の色を隠しながら短く応じた。

 

「……どうぞ。私の買い切った席というわけでもない」

「それはどうも」

 

 男は人懐っこい笑みを浮かべ、給仕に何かを頼むと、真崎の手元にある英字紙に視線を落とした。

 

「滑稽なものですね」

 

 男は、鼈甲縁(べっこうぶち)の眼鏡の奥の、どこまでも黒く冷たい双眸で、ポーカーに興じる欧米人たちを冷ややかに一瞥(いちべつ)した。

 

「自分たちが座っている椅子が、今まさに『時限爆弾』に変わったというのに、彼らはまだ手元のポーカーの手札ばかりを気にしている。大英帝国の栄華という麻薬は、よほど気持ちの良い夢を見せてくれるとみえる」

 

 真崎の心臓が、微かに跳ねた。

 

「時限爆弾、だと?」

 

 真崎が探るように問うと、男は静かに微笑んだまま言葉を続けた。

 

「ええ。欧州の同盟システムは、天才的な時計職人が作り上げた『精巧な時計』だ。ですが、精密すぎるがゆえに、たった一つの歯車が狂うだけで、すべてが自動的に自壊していく。……サライェヴォで鳴ったあの銃声は、その時計を内側から破壊する、最初の、そして決定的な一撃です」

 

 それは、真崎が参謀本部の地下室で柏木と共に導き出した、破滅への論理そのものであった。

 この東洋の男は、高等遊民のような身なりをしながら、遠く離れた欧州の政治力学を、極めて冷徹かつ俯瞰的な視点から解剖してみせたのだ。

 

「……失礼ながら、お尋ねしても。貴方は一体……?」

 

 真崎の声には、明確な警戒と威圧が込められていた。軍服こそ脱ぎ捨てているものの、その眼光は戦場の将校のそれへと戻っている。

 だが、男は怯むどころか、さらに深く真崎の瞳を覗き込んできた。

 

「ただの、上海のしがない貿易商ですよ。それよりも……」

 

 男は身を乗り出し、声を一段低くした。

 

「あなただけだ。この浮かれた密室の中で一人だけ、来るべき本物の『血の匂い』を嗅ぎ取っているのは」

 

 男の口元に、面白がるような、しかし鋭利な刃物のような笑みが浮かんだ。

 

「その背広はよく似合っていらっしゃるが、隠し切れないものがある。……日本の軍人さんは、随分と鼻が利くようだ。それとも、あなたの属する組織が、特別に優秀なのかな?」

 

 真崎は絶句した。

 軍服を脱ぎ、完璧に身分を隠したはずだった。なぜ分かる。

 

「おしゃべりが過ぎましたね。それでは、よい旅を」

 

 真崎の横をすり抜けざま、男の指先が、真崎の足元に置かれた革トランクの錠前に一瞬だけ触れた。

 真崎はそれに気づかない。いや、気づけるはずがなかった。

 男の動作は、ただ歩調を整えるためにステッキを持ち替えただけの、自然な仕草にしか見えなかったからだ。

 

 だが、その刹那――

 

 男の指先から、目にも留まらぬ速さで銀色の針が繰り出され、トランクの鍵穴に滑り込んだ。

 音もなく開錠されたトランクの隙間に、男は手袋を外した長い指先を数ミリだけ差し込み、内部の感触を確かめる。

 

(……重い『鉄』が一つ。それと、紙の束が数枚。……ほう。ただの左遷将校が持ち歩くにしては、随分と物騒で、かつ重たい『過去』を詰め込んでいるようだ)

 

 男は満足げに細く息を吐くと、真崎が振り返るよりも早く、再び音もなく錠を戻した。すべては二歩進む間の、コンマ数秒の出来事である。

 男は、豪奢な喫煙室の喧騒の中へと溶け込むように消えていった。あとに残されたのは、氷の溶けきったウイスキーと、微かなフランソワ・コティの残り香。

 そして、何者かに自らの「内側」を丸裸にされたような、得体の知れない寒気だけであった。

 

「……何だったんだ、あの男は」

 

 真崎は、今さらながら足元のトランクを抱きかかえるように引き寄せた。

 その中には、大日本帝国の命運を左右する「乃木希典の隠し遺書」と、護身用のモーゼル拳銃が、厳重に秘匿されているはずであった。

 

(開けられた……。気づかぬうちに、中を見られた)

(……軍服を脱いだだけで、丸裸だったか)

 

 真崎の背筋に、冷たいものが走った。

 三宅坂の官僚たち相手の政治闘争など、まだルールのある児戯(じぎ)に等しかった。これから足を踏み入れる上海という都市は、目の前のこの男のように、息をするように人の本質を見抜き、歴史の深淵を覗き込んでいる化け物たちが蠢く場所なのだ。

 

 真崎は深く息を吐き出し、窓の外へ視線を向けた。

 いつしか、窓外の海の色が変わっていた。東シナ海の澄んだ青は失われ、黄土色に濁った泥水が、波打ちながら船肌を叩いている。長江が運んできた膨大な泥土が海を染める、黄浦江(こうほこう)の河口が近い証拠であった。

 

 真崎は、窓ガラスに映る己の顔を見つめた。

 そこには、三宅坂の狭い世界を抜け出し、これから始まる途方もないスケールの謀略戦に武者震いする、一匹の獣の顔があった。

 

   *

 

 船はゆっくりと速度を落とし、いよいよ世界の陰謀が吹き溜まる極東の魔都・上海へと、その巨大な舳先(へさき)を滑り込ませていく。

 

 外灘(バンド)――租界時代の上海において、黄浦江沿いに列強各国が競い合うように領事館や銀行を建ち並べた、東洋随一の金融街である。その岸壁に船が接舷し、タラップが降ろされた。

 

 真崎は革トランクを引き寄せ、列に並んだ。

 タラップを一段下りるごとに、岸壁の喧騒が耳に迫ってくる。中国語、英語、フランス語、ポルトガル語。怒声と笑声と物売りの叫びが、分厚い壁のように押し寄せた。

 

 石畳に軍靴の先が触れた瞬間、真崎は思わず息を止めた。

 腐った泥と魚と香辛料と、人の体臭が混じり合った、濃密で不快で、しかし生命力に満ちた匂い。三宅坂の廊下に染み付いた墨と(ほこり)の匂いとは、何もかもが違う。

 

(ここが、魔都か)

 

 岸壁では、苦力(クーリー)たちが荷を担いで走り回り、阿片窟の客引きが袖を引き、物乞いの子供が足元にまとわりついてくる。

 

 真崎はトランクを握り直し、雑踏の中へ一歩踏み出した。

 背後で、汽笛が長く鳴った。




◆あとがき◆
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※明日も同じく3回(07:00 / 12:00 / 19:40)更新予定です。
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