海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
車のドアを開けると、まだ日暮れ前の冷気が頬を刺した。
玄関先に、火のついていない煙草を指に挟んだ男が立っている。柏木丈二だった。
「急に呼び出してどうした」
「休日にすまんな。神林参謀次長から、緊急のお呼び出しだ」
「またその展開か……」
真崎は苦笑いした。柏木がこの目をしている時は、大抵ろくでもない話だ。
「中将殿はどちらへ」
「それが、山縣元帥の別邸へ向かわれてしまってな」
柏木は煙草をくわえたまま、火をつけなかった。吸う気もないのに、いつも指に挟んでいる癖だ。
「もうしばらく待っていてくれ。
「それと、用が済んだら一泊してよいとも聞いている。温泉もあるぞ」
「それは結構なこった」
真崎は玄関ホールに足を踏み入れた。
*
撞球室は思ったより広かった。緑の羅紗を張った台が二つ、静かに冬の光を吸っていた。玉を一つ突いてみたが、すぐに飽きた。
(待つのは性に合わん……)
腰を上げ、廊下に出た。誰にも咎められなかった。窓の外では、傾きかけた冬の陽が箱根の山を薄く染めていた。
廊下を三つ折れたところで、それが聞こえた。
「きゃああッ、犯さないでください!!」
女の悲鳴だった。廊下の奥、乾いた冬の空気によく通る声だった。
真崎は考えるより先に走り出していた。
角を折れる。もう一つ折れる。悲鳴の発生源には、まだ辿り着かない。声はもっと奥、渡り廊下の先から来ていた。
その手前の交差路で、男とすれ違った。
長身。陸軍軍装――軍務局内で見たことがある顔だ。歩調は速すぎず、遅すぎない。だが呼吸の間隔がわずかにおかしい。走った後の息を、歩幅で殺している男の呼吸だった。
(——こいつだ)
根拠はなかった。だが、外れているとも思えなかった。真崎は声もかけずに肩を摑んだ。
男が振り向いた。目に驚きはなかった。値踏みする色だけがあった。
「ちょっと待ってください」
真崎は短く言った。男の返事はなかった。かわりに、肘が来た。真崎は半身になってこれを流した。素人の反応ではない。
(こいつだな)
三十センチ。真崎は距離を測りながらさばいた。詰めさせれば負ける間合いではない。詰めさせなければ勝てる間合いでもない。八極拳は、その中間の呼吸が命だ。
「何だね、君は」
男の拳が肩をかすめた。布が裂けた。真崎は肘を落とし、腰を割って懐に入った。襟を摑もうとした瞬間、男は自ら後ろへ体を投げ出すようにして拘束を外した。上着が肩から抜け落ちる。真崎の手には、千切れた布とボタンが一つだけ残った。
(縫い直さないとな)
場違いな感想が、頭の隅をよぎった。
男は上着を着直すと、大股で逃げ去った。廊下の角を折れると、走るのをやめ、早歩きに切り替えた。夜会帰りの客がまばらに行き交う人波の中へ紛れていった。走れば怪しまれる。それを分かっている足取りだった。
真崎は二歩追って、止まった。ボタンは証拠になる。ここには正義感の強い軍人や憲兵がたくさんいる。悲鳴のあった方角に、まだ用がある。
*
渡り廊下の突き当たり、暖房用のラジエータが並ぶ小部屋の前に、憲兵が二人立っていた。奥に、令嬢がひとり。
壁に手をついて、息を整えていた。スカートと袖が乱れている。それでも、くずおれてはいなかった。怯えた目のはずが、すでに次の一手を探しているような、妙に据わった目をしていた。
(キレイな人だ)
素直にそう思った。だが同時に、別の感想も湧いた。
(――ただし、大層な跳ねっ返りだろう、これは。)
柔和な顔立ちに反して、只者ではない気配がある。真崎は憲兵の間を抜けて歩み寄った。
(右肩とスカートに不自然な折れ跡、後ろに暖房機、太ももをさすっている)
「暖房機に押しつけられていたろう。至急、氷嚢の用意を」
真崎は状況を分析してそう言った。
「お嬢さん、自力で歩けるか。部屋に浴室があるなら、まず水で冷やしなさい」
令嬢が顔を上げた。
(顔が紅潮している。やはり格闘の後のようだ)
「……ありがとうございます」
凜々しい顔には似つかわしくないかよわい声だった。
(このボタン、無駄にはすまい)
廊下の向こうから、重く急いた足音が近づいてきた。
「冴子ッ!」
叫ぶように名を呼びながら、初老の将官が走ってくる。真崎はその顔に見覚えがあった。
(――神林中将の、娘か)
すべてを察するのに、そう時間はかからなかった。厄介なことになった、と真崎は思った。
*
毅一郎は娘の腕を取り、傷を確かめた。しばらく無言だったが、大事ないと分かると、詰めていた息を吐き出した。それから、真崎の方を振り返った。
「真崎か。……お前がいてくれたとは、助かった」
「たまたま通りかかっただけです」
「たまたまで済む話か、これは」
毅一郎は冴子を女中に預けると、廊下の窓際まで真崎を促した。先ほどの狼狽は、もう表情から消えていた。
「またもや呼び立ててすまなかったな。だが時間がなくてな……」
「いえ、お気になさらず。上申書のことでしょうか」
「その通りだ。さきほど元帥方と打ち合わせがあった。外務大臣も同席の場だ」
真崎の背筋に、電流に似たものが走った。元老と外相が同じ卓を囲んだということだ。
「場所を移そう。会議室まで一緒に来てくれ。誰もいない」
毅一郎はそう言うと、真崎を会議室までそそくさと案内した。
*
「田中軍務局長には、何と言われた」
毅一郎は会議室のドアをパタンと閉めると同時にそう始めた。
「足りん、の一点張りでした」
真崎は当時のやりとりを思い返しながら続けた。
「数は、せめて一個師団規模でなければ英国側も本気にすまい、と。金は、借り換えだけでは足りぬと。名分は、議会と新聞に説く言葉がまだ形になっていないと。まとめて『全部だ』と返されました。もちろん承知はしております。今使えるものは全て使って揃えにいっているつもりです」
「なるほどな」
毅一郎は頷いた。「あぁ、座っていいぞ」
卓を挟んで、二人は向き合った。窓の外、暮れかけた箱根の山へ目をやり、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと切り出した。
「先の打ち合わせのことだが。山縣閣下に、欧州派兵の一件を持ちかけた」
「――閣下に、ですか」
「元より、英国側からもそれらしい噂が非公式に流れてきていてな。渡りに船だ、と申し上げたら、存外あっさり乗ってくださった。表向きにはまだ何も出ておらんが、閣下はもう受ける前提で話を進めておられる」
真崎は息を止めた。田中を口説く算段を練っていた頭上で、すでに話は動いていた。
「条件は」
「満蒙の特殊権益と、外債の借り換えの継続だ。英国側も渡りに船だろう。海峡の一件で、あちらも人繰りに困っている」
毅一郎はそこで一拍置いた。
「田中が『足りん』と言った三つのうち、名分と金の方はこちらでも目処が立ちつつある。お前が案じるべきは、もう数の方だけでいい」
「だが」毅一郎は、わずかに声を落とした。「案ずるな。この件はもう、お前一人の肩に乗せておく話ではない。元帥方が動けば、田中も否応なく従う。お前が独りで口説き落とさずとも、じきに上から話が下りてくる」
「――それは」
「気を抜けとは言わん。だが、背負いすぎるな、ということだ」
「それにしても」ふいに声を落とした。「令嬢が飛んだ物騒な目に遭った。お前には、みっともないところを見せたな」
「いえ」
「大事はないとは思うが、少々、丈夫すぎるのも困りものでな……男が寄り付かん」
真崎は何と返せばいいか分からず、黙っていた。
「中将のご令嬢でしょう。縁談など、引く手あまたでは」
「お前は痛いところを突くな……。あれは時代の先を行きすぎてるのか、全滅だ」
毅一郎は自嘲するように、鼻から短く息を抜いた。参謀本部で万の兵を動かす方が、よほど気が楽だ――そんな顔をしていた。
「……お前の親父さんも、旅順へ行かれたのだったな」
真崎の脈が、一瞬だけ止まった。
「旅順に従軍し、そのまま殉職しました」
「――そうか……真崎がいたな。なぜ今まで気づかなかったのか」
独り言のような呟きが、次の瞬間には真崎への言葉に変わっていた。
「そうだ。お前、冴子と見合いをしてみないか」
真崎は言葉に詰まった。
「……それは。私では、さすがに釣り合わないのでは。私は華族の出でもなく、
「構わん。お前の親父さんも、旅順の最前線へ行かれたのだろう」 神林の目が、真崎の胸の奥を射抜くように細められた。 「国家に血を捧げた家系だ。親子二代で陸軍とは、立派なものだ」
毅一郎はひとり頷きながら、似たような言葉をぶつぶつと繰り返した。
「神林様、夕食のご用意が整いましてございます」
「――今の話は、前向きに考えてみてくれ。また連絡する」
毅一郎はそう言うと、何事もなかったような顔で歩き出した。真崎はしばらくその背中を見送ってから、懐の千切れたボタンに、もう一度触れた。
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