海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
箱根の湯に浸かっているのに、指先だけが強張っていた。
無意識に、脇腹のあたりを探っている。上着はもう脱いだのに、そこにあるはずのボタンの感触を、指が探していた。
真崎は苦笑し、湯船の縁に頭を預けた。富士屋ホテルの内風呂は広い。石造りの壁に、高い格天井。湯気がそこまで昇り、白く渦を巻いている。柱時計の音だけが、静かに時を刻んでいた。
客は真崎の他に誰もいない。夜も更けた頃合いだ。
湯の中で、右肩を軽く回した。廊下ですれ違った男の肘が、まだそこに鈍く残っている。骨に達するほどの当たりではなかった。だが、力の乗せ方には覚えがあった。素人の腕ではない。あの一瞬の攻防を、湯の中でもう一度なぞってみる。三十センチの間合い、肘の落とし方、体の投げ出し方。どれも、訓練された者の動きだった。
懐に入れていたボタンと布切れは、脱衣所に畳んだ軍服の内ポケットに眠っている。忘れるわけがなかった。今夜だけで、厄介事を三つも背負わされた格好だ。証拠品。正体の知れない男。それから――
(見合い、か)
良い話だが、厄介ごとに巻き込まれた……と心半分で思っていた。
神林冴子という令嬢の顔を思い出す。暖房機の脇で、壁に手をついていた姿。怯えているはずの目が、すでに次の一手を探すような色をしていた。あの目の据わり方は、とても「おしとやか」の類ではない。道場帰りの武家娘だと言われても、真崎は驚かなかっただろう。
美しいことは、認める。だが正面から向き合えと言われると、妙な威圧を感じる相手だった。
(呉の田舎者には、いささか荷が重い)
宇品の母がこの話を聞いたら、何と言うだろうか。「贅沢な縁だね」と笑うか、「中将のご令嬢に何を粗相した」と叱るか。想像するだけで、湯よりも先に頭がのぼせてくる。
村田翁ならどう評するか。あの老人の顔を思い浮かべる。「弾も女子も、狙いが外れれば怪我をするだけじゃ」とでも言いそうだった。真崎は声を出さずに笑った。
高杉ならどう評するか。「何を悩んでおる。早く楔を打て」とでも言うだろうか。
考えても答えの出ない話だ。今は身体を温めることだけを考えよう。そう決めたそばから、また冴子の顔が浮かんでくる。暖房機の熱に炙られながらも、くずおれなかった背中。あの気の強さは、華やかな香水の匂いとは不釣り合いなほど、まっすぐだった。
(――いや、まっすぐすぎる。それが厄介なのだ)
不意に、上海の朝の匂いが鼻の奥に蘇った。香菜とザーサイ、烏龍茶の湯気。あの朝、
発つ日の朝、扉の前で愛玲が言った言葉を思い出す。「トーキョーで女ができたら、必ず連絡すること」。冗談めかした声だったが、目は笑っていなかった。もう一つ、その後に続いた台詞もある。もしトーキョーで誰も見つからなかったら、迎えに来てほしい――あれは、本当に冗談だったのか、今もって分からない。
(――まだ何も知らせていないな)
見合いの話が、愛玲の言う「女ができた」に当たるのかどうか、真崎には判断がつかなかった。ただ、何と書き送ればいいのか、見当もつかない。
真崎は湯を両手で掬い、顔にかけた。始末に負えない話だった。
湯から上がり、浴衣に着替えた。廊下は冷えていた。夜の匂いに、煙草の匂いがわずかに混じっている。
廊下の奥、渡り廊下の窓際に、火影が一つ揺れていた。誰かが煙草を吸っているらしい。近づくと、聞き覚えのある咳払いがした。
喫煙室に、柏木がいた。窓際の長椅子に腰掛け、煙草に火をつけたまま、庭の暗がりを眺めている。灰の先が、闇の中でぼんやりと赤く灯っていた。
「湯冷めするぞ、その恰好で」
「大丈夫だ。珍しいなタバコに火を付けているのは」
「ちゃんと吸うときもある」
柏木は短く答え、視線だけを真崎に向けた。
真崎は対面に腰を下ろし、内ポケットからボタンと布切れを取り出した。卓の上に、音を立てて置く。
「これを見てくれ」
柏木の目つきが変わった。指先で布地をつまみ、灯りにかざす。しばらく無言だった。
「……羅紗の織りが違う。既製品じゃないな」
「心当たりは」
「まだ言うな」柏木は布地から目を離さなかった。「憶測でお前を動かしたくない。お前のことだ。証拠が固まったらすぐ公式に告発するだろう」
その慎重さは、今に始まったことではない。真崎はしばらく黙って、柏木の指先の動きを見ていた。布の端を撫で、裏地の縫い目を確かめ、鼻先へ近づける。刑事のような手つきだった。
廊下の奥、遠い部屋から、くぐもった話し声が漏れてきた。元帥方の使う離れの方角だ。何を話しているかまでは分からない。真崎はそちらに一瞬だけ目をやり、また柏木の手元に視線を戻した。あの部屋の中で動いている話と、この卓の上で動いている話は、どこかで一本の糸につながっている。そんな気がしてならなかった。
「――そういえば」真崎はふと思い出した。「昔、参謀本部の暗号室に忍び込んで、欧州の電報を抜いてきてくれたことがあったな。サライェヴォの一件だ」
「忍び込んだんじゃない」柏木は布地を検分したまま答えた。「神林閣下のお墨付きがあったから、入れたんだ」
「そうだったな」
真崎は黙った。あの夜のことは、よく覚えている。三宅坂の地下、カビ臭い書庫の暗がり。暗号室長に見咎められた柏木が、顔色一つ変えずに敬礼していた後ろ姿。だが素手で触れた背中には、冷や汗が滲んでいた。
あの晩、冷や汗を拭いながら笑っていた男が、今は同じ落ち着いた調子でボタンを検分している。
「――なあ柏木。あの時のこと、後日何か言われたか」
柏木の指が、一瞬止まった。
「……何もなかった」柏木は布地を灯りから下ろした。「妙な話だ。あの晩は終わったと思ったんだがな。翌朝、何の咎めもなかった」
真崎の背筋に、冷たいものが這った。
(神林閣下は、全部わかっていて、柏木に情報を抜かせ、俺に渡すところまで読んでいたんじゃないか)
まるで、誰かが描いた絵図の上を、今もなぞらされているような気がした。柏木という男が、盤上の駒なのか、それとも指し手の側にいるのか。真崎にはまだ判じかねた。
柏木は何も言わず、布地をもう一度灯りにかざした。指先でこすり、匂いを嗅ぐような仕草をする。表情が変わった。
「――この織り方、覚えがある」
「誰だ」
「まだ言えん」柏木は布を丁寧に畳み、懐へしまった。「もう少し裏を取らせろ。名前を出して的が外れれば、矢面に立つのはお前だ」
真崎が食い下がろうとした時、廊下から従僕の声がかかった。
「柏木様、神林様がお呼びでございます」
柏木は立ち上がりながら、片目だけ真崎へ向けた。
「――で、見合いの話は受けるのか」
「聞いていたのか」
「筒抜けだ、この程度は。悪くない話だと思うぞ。美男美女でお揃いじゃないか」
柏木は口の端をわずかに緩めただけで、笑いはしなかった。喫煙室を出ていく足音が、廊下の奥へ遠ざかる。
*
一人残された真崎は、卓の上に戻された布切れの端を、もう一度指でなぞった。
窓の外、宮之下の夜が更けていく。答えの出ない問いだけが、いくつも懐に積み上がっていた。
ボタンの正体。柏木が匂いを嗅いだ意味。神林閣下の絵図。そして――冴子という名の、跳ねっ返り。
真崎は懐から、もう一つの布切れを取り出した。歪んだボタンのついた、繕いかけの軍服の袖だ。三十分かけて縫った、あの不格好な仕付け糸を、指先でそっとなぞる。
(これも、片づけねばな)
窓の外で、庭木がひとつ、風もないのに揺れた気がした。気のせいだろう。真崎はそう思うことにした。
遠くの離れから漏れていた話し声は、もう聞こえない。だが、あの部屋で決まったことが、いずれ自分の足元にも届く。そのことだけは、確信に近い形で分かっていた。
温泉宿の夜は静かに更けていったが、真崎の頭の中では、幾本もの糸が、まだ絡まったままだった。
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