海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
従僕に案内されたのは、離れの小さな居間だった。
毅一郎は暖炉の前の椅子に、脚を組んで座っていた。上着を脱ぎ、シャツの袖をわずかにまくっている。柏木がこの姿を見るのは、公の場を離れた時だけだ。
「来たな、柏木。うまくやっているか」
「おかげさまで」
柏木は敬礼せず、ただ頭を下げた。ここでは、それでいいと分かっている。
「お前が私の車を回していた頃は、まだ軍務局長だった。少し前のことなのに、もう懐かしいな」
「私ももう懐かしいです」
「懐かしいだけの話にしておくのは、少々惜しい気もするがな」
毅一郎は暖炉の火に目をやったまま、そう言った。柏木は黙って続きを待った。
「真崎のことだ」
「はい」
「あれは、上海帰りで軍務局に知り合いも少ない。お前は真崎とも、冴子とも顔が利くだろう」
「多少は」
「それとなく、うまく繋いでやってくれんか。命令ではない。……頼み事だ」
柏木は表情を変えなかった。
「かしこまりました」
毅一郎は満足そうに頷いた。それで気が済んだらしかった。だが柏木の内心では、別の声が響いていた。
(――この人は、どこまで知っていて、こう言っているのか)
真崎が抱いた疑念と、よく似た形をしていた。深追いはしなかった。今夜、深追いする話でもない。
*
翌朝、柏木は冴子と共に富士屋ホテルの車寄せに立っていた。
迎えの自動車が、白い息を吐きながら待っていた。
三日間、世話になった建物を、冴子は一度だけ振り返った。
「長かったわね、ここも」
「長かった分、拾ったものも多い」
柏木は懐の乾板の重みを、上着の上から確かめた。振り返らずに車へ乗り込んだ。冴子も続いた。
箱根の山道を、車は帝都へ向けて下っていった。窓の外で、宮之下の湯煙が遠ざかっていく。
帝都に戻ったのは、その日の夕方だった。
柏木が冴子を連れて訪ねたのは、麹町の裏通りにある写真館だった。看板は小さい。ドイツ渡りの現像技術を持つ主人が、柏木の古い伝手だった。
「今日はまた、随分と急な用件で」
「急ぎだ。誰にも見せるな」
「いつも通りですな」
主人は奥の暗室へ二人を通し、鍵をかけて出て行った。
赤い灯りが一つ点いていた。冴子は袖をまくり、現像液の入った盆の前に膝をついた。柏木は懐から一枚の電報を取り出した。宮之下を発つ直前、憲兵隊の伝手から受け取ったものだった。
「――お前を襲った男が捕まった」
「え」
「宮之下を出てすぐの街道で、憲兵に押さえられたそうだ」
冴子が顔を上げた。
「自白したの」
「いや。知らぬ存ぜぬを通しているらしい。真崎さんから預かった布切れとボタンのことも、まだ憲兵には渡していない」
「渡さないの?」
「今渡せば、証拠が浅すぎる。黙秘を崩すには、もう一手要る」
柏木はそこで、一拍置いた。
「――それと、詫びておくことがある」
「何」
「ロシアと裏の繋がりがある人物、最初にお前へ伝えた時、俺は取り違えていた」
冴子は乾板を手にしたまま、柏木を見た。
「角田剛三郎じゃなくて、あの背の高い方がロシアと繋がってたってこと?」
「そうだ。背の高い方は津野田大佐。まさか同じツノダ読みで漢字が違ったとは」柏木は苦い顔をした。「密告者から聞いたのは音だけだ。鹿の角《つの》に、田んぼの田。てっきりそれだと思い込んだ。裏を取らなかった、俺の落ち度だ」
冴子は、ふっと口の端を上げた。
「あなたもそんな単純な失敗をすることがあるのね」
「めったにない」
「めったにない割には、今回は派手にやったじゃない」
柏木は何も言い返さなかった。
*
現像液の中で、像がゆっくりと浮かび上がってきた。
最初に見えたのは、埠頭のような場所だった。次に、軍服の男。長身。着こなしの癖に見覚えがある。
「――津野田。私が襲われた方」
冴子が呟いた。
男の向かいに、外套の男が立っていた。顔立ちは東洋人のものではない。
「ロシア人か。顔まではわからないな」
「背景を見ろ」柏木が言った。「遠くにあるあの旗、ドイツの海軍旗だ」
冴子は目を凝らした。
「ここは
「いや、日本の陣地じゃない。ドイツの要塞の近くだ」柏木は乾板を灯りに近づけた。「自分の陣地のすぐそばで、日本の将校が余所の国の人間とこそこそ会っている――ドイツの防諜班にしてみれば、見過ごせない絵だ」
「それが、どうして日本の手に」
「青島が落ちた時、接収した記録の山の中に紛れ込んでいたんだろう。誰も気に留めずに、展示品の箱に放り込まれた」
冴子は乾板を灯りにかざした。
「――偶然、ということ」
「偶然だ。だからこそ、誰も探しても見つけられなかった」
「津野田はおそらく、この写真が撮られたこと自体には気づいていたはずよ。二枚目を見て。カメラ目線で驚いた顔をしている。でも乾板は青島の戦場で行方が知れなくなっていた。ところが運悪く――いえ、運良く、青島祝勝会の展示品テーブルに紛れ込んでいることがどこかで分かって、持ち去ろうとした。この写真を見られたら、まずいから」
「そういうことだ」
冴子は写真をもう一度よく見た。
「このロシア人らしき人、宮ノ下の会場にいたヴォルコフっていうロシア人に姿が似てない?」
「……言われてみればたしかに。だが、確証とまではいえないな」
柏木は、外務省の随行官が持っていた書類を盗み撮った写真の現像も始めた。
文字が、少しずつ浮かび上がってくる。
「一、中央政府ニ政治、財政、軍事顧問トシテ有力ナル日本人ヲ
「三、必要ノ地方ニ於ケル警察ヲ日中合同トスルコト」
「お前が咲夜とかいう女から買った書類、もう一度見せてみろ。写真の書類と突合してみる」
冴子は懐から紙束を取り出した。柏木はそれを乾板の文字と並べ、指でなぞりながら読み比べていった。冴子はその手元を、黙って覗き込んでいた。
柏木が呟いた。
「なるほど……なるほど。これはずいぶんと攻撃的な要求だな」
「そんなにすごいの」
「すごいってもんじゃない。完全な内政干渉要求だ。中華民国に突きつけたら間違いなく欧米列強にチクられる」
「それって列強のひんしゅくを買うんじゃないの。欧州が戦時中であることにつけ込んだ火事場泥棒でしょ」
「そのとおりだ。日本の国際的信用にキズがつく。同盟国であるイギリスも黙っていないだろう。中国にも大きな禍根を残す」
冴子は乾板を布に包みながら、しばらく黙っていた。それから、指を折るように言った。
「――一度、整理させて。全部繋がってる?」
「言ってみろ」
「咲夜から買った情報。第五号の起案メモ」
「そうだ」
「柏木さんが撮影した外交官の文書を突合すると、どうやら第五号は内政干渉の要求」
「合ってる」
冴子は乾板を灯りに透かした。
「ロシアが津野田を使って何かを探っていた。第五号のことを知りたかった?」
「いや、第五号だけではない。日本がこのタイミングで中国に何を突きつけるかを、まるごと探っていたんだろう。俺たちと、腹の内は同じだ」
「ロシアがそれを知りたいのは、まだ中国権益を巡って日本とぶつかる可能性があるから?」
「そうだ。日露戦争は終わったが、日本は血を流した割に得られた対価は少ない。特に陸軍は、満蒙の特殊権益がほしくてたまらん」
「満蒙――南満州と東部
「そうだ」
柏木はそこで、少しだけ間を置いた。
「日露の戦役から、もう十年になる。だが陸軍にとっては、まだ勘定が済んでいない戦だ。満蒙さえ握れれば、あの戦の犠牲が報われる――そう思っている連中は、今も陸軍の上の方にごまんといる」
「ロシアにしてみれば、放っておけない話ね」
「だからこそ、津野田のような男を飼っておく価値がある。表向きは日本の将校で、中身はどちらの駒でもいい――そういう男を、な」
冴子はしばらく黙って、乾板を見つめていた。
「――満蒙の話は、今夜だけでは終わらなそうね」
「終わらん。だが今夜、俺たちが摑めるのはここまでだ」
柏木はそう言って、乾板を布でくるみ直した。
「――で、これからどうするの。津野田のことと第五号の情報とかは」
「証拠は揃った。だが、今すぐ表には出さない」
「なぜ」
「使う時より、使わない時の方が値打ちがあることもある」
柏木はそう言って、あのナイフのことを思い出した。今夜も、道具袋の底で眠っているはずだ。使わない判断を、誰かが信頼していた。今度は自分がその判断をする番だった。
「お父様は、どこまでご存知なのかしら」
「――さあな」
柏木はそれだけ答えた。それ以上は、今夜は考えないことにした。
「そういえば」冴子が乾板を布に包みながら言った。「真崎様の見合いのお返事、まだ聞いていないの?」
「本人が決めることだ」
「あなた、さっきお父様に何か頼まれてたでしょう」
「聞こえていたのか」
「筒抜けよ、この程度は」
柏木は短く笑った。今夜、二度目の同じ台詞を、今度は自分が言われる番だった。
窓の外、帝都の朝はまだ遠い。暗室には、赤い灯りだけが灯っていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。