海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第九十二話 収束する符号

 上海。地下拠点。高杉晋作は電文の紙テープを一目見て、動きを止めた。

「……ほう」

 三味線を弾く手が止まった。皺の中で、目だけが動いた。

 

――数時間前、帝都。

 

 真崎勇気の自宅、深夜。一人暮らしの家に、物音一つない。真崎は寝室のタンスの奥板を外した。黒石に組み立て方を教わった改造電信装置が、闇の中で鈍く光っていた。真崎は電鍵に指を置いた。指先が冷たい。上海で黒石に習った時より、指の動きは速くなっていた。

 

(神林中将から聞いたことを、そのまま流していいのか)

 

 迷いは一瞬だった。真崎は打ち始めた。トン、ツー、トン。もし英国が派兵要請をしてきた時、その交換条件として、日本は満蒙の特殊権益を認めさせたがっている、と。

 送信を終えると、装置の音が消えた。真崎はしばらく、暗闇の中で電鍵に手を置いたままでいた。冷えた指を、掛け布団の下に差し込んだ。まだ脈が速い。

 

   *

 

 上海の通信室で、黒石透はヘッドホンを外した。紙テープを持つ手が、わずかに震えていた。

 

「先生。真崎大尉殿から、直接です」

 高杉に紙を渡した。高杉は一読し、二読目はしなかった。

「満蒙、か」

「はい。もし英国が派兵を頼んできたら、その見返りに満蒙の特殊権益を認めさせたい、と」

 

 扉が開いた。ディアナが盆を運んできた。湯気の立つコーヒーを、高杉の机と黒石の作業台に一つずつ置いた。誰も頼んでいない。いつもそうしている、というだけの動きだった。

「今夜は冷えますから」

 それだけ言って、ディアナは部屋を出て行った。黒石は「ありがとう、ディアナ」と言い、コーヒーに口をつけてから、ようやく息を一つ吐いた。

 

「面白い間合いで来おった」高杉はカップを取り上げた。「秋月が先月、ロンドンで妙な種を蒔いておる」

「あの第五号関連の情報だ」黒石が言った。

「奴らには全部見せておらん。匂わせただけじゃ。だが匂いを嗅いだ犬は、自分の鼻で答えを探しに行く」

「本当にダーダネルス海峡に突っ込む計画なら」黒石が言った。「英国は自分の首を絞めることになりますね」

「絞まっておるとも」高杉は静かに言った。「兵站が足りん。いずれ日本に頭を下げに来る。その時、手ぶらで頭を下げさせるほど、こちらも甘くない」

 

 高杉はコーヒーを一口飲んだ。

「秋月に打て」

 

 黒石はヘッドホンを掛け直した。指が電鍵に伸びた。

 あの襲撃以来沈黙していた回線だったが、電信機の修復を終え、美濃部とはようやく再び交信できるようになっていた。

 同じ夜更け、帝都からもう一本、別の電文が届いていた。柏木からだった。宛先は海軍省嘱託翻訳官・美濃部栞――秋月が使うのと同じ、表向きは業務連絡を装った回線だ。

 

 第五号の中身、満蒙を巡る陸軍の執着、ロシア側の絡み――要点だけを絞った、短い文面だった。

「ジョージさん……あっ、JGさんからも来てます」黒石が言った。

「両方まとめて打て」高杉が言った。「秋月には、材料は多い方がいい」

 黒石は頷き、二本の電文を一つに束ねる作業に取りかかった。

 

   *

 

 ロンドン。冬の霧が、窓の外に張りついていた。

 

 秋月慧は宿の卓上で、黒石からの電文を受け取った。満蒙特殊権益。派兵の交換条件。柏木がまとめた第五号の中身と、津野田・ロシアの繋がり。

 二枚の電文を並べた。

 

(――繋がった)

 

 鞄の奥から、柏木に預かった第五号の写しを引き出した。電文の文字と並べる。

 日本が欲しいものは二つ。満蒙の特殊権益。日露の外債、利払いの緩和。それを英国から引き出す手札が、いま揃った。

 第五号は、もう一つの手札だ。表に出せば、日本の外交上の恥になる。だが英国の手にだけ渡り、脅しの種として使われれば話は違う。断れば公にする――そう匂わされれば、日本は頷くしかなくなる。

 

(――だが、それで終わらせるつもりはあるまい)

 高杉が描く絵図なら、この先がある。英国に第五号を握らせ、脅しの手駒として使わせる。日本に派兵を呑ませたあとは、その第五号ごと、英国自身に握り潰させる。表沙汰にすれば、脅迫の事実まで一緒に世に出る。だから英国も、深追いはしない。恥を晒さず、要求だけを引き出して、証拠は闇に葬る。

 

(――高杉先生が、前に言っていた絵図だ)

 欧州で称賛される形で参戦し、講和の席で英国との関係を保ったまま、蘭印の石油に手を伸ばす。いずれ台頭する米国と、対等に渡り合うための布石。第五号は、その最初の一手に過ぎない。

 

(――脅し、そして手仕舞い。うまくできている)

 

 窓の外で、霧がまた一段深くなった。

 秋月は懐中時計を見た。深夜だが、ヴァンスは夜更かしの質だ。仕度を整え、コートを羽織った。

 霧の中、辻馬車を拾う。行き先はセント・ジェームズ通りの、あの看板のないサルーンだった。

 

 扉を叩く。返事はなかった。もう一度。

 やがて、初老の給仕が顔を出した。

「こんな時間に、失礼を」秋月は言った。「男爵はまだ、いらっしゃるか」

 給仕は無言のまま、奥の階段を指した。

 どうやら、間に合ったらしい。

 

 階段はきしんだ。二段ごとに、踏み板が違う音を立てる。秋月は手すりを頼りに上った。灯りは最小限だった。

 特別室の扉が、細く開いていた。

 

「さすがに非常識な時間だ、少佐」

 声が先に出迎えた。ヴァンス男爵は暖炉の前の椅子に座っていた。卓の上には、飲みかけのブランデーが一つと書類が置かれていた。相手を待たせていた形跡はない。思索にふけっていたのだろう。

 

「閣下も、まだお休みではなかったようで」

「歳を取ると、夜が長くてかなわない」ヴァンスは椅子を指した。「座りたまえ。ここまで来たということは、朝まで待てない話なのだろう」

 秋月は腰を下ろした。ブランデーは勧められなかった。今夜は、そういう夜だった。

 

「先だってお話しした件、続きがございます」

「第五号の話か」

「日本の元帥方は、すでに動いております。派兵を受け入れる前提で」

 ヴァンスの手が、グラスの脚から離れた。

「――確かな筋か」

「確かです」

「早いな。私の耳より、貴国の内側の方が」

 ヴァンスは低く笑った。だが目は笑っていなかった。この男が本気で驚いた時の顔を、秋月はもう覚えていた。

 

「条件は」

「満蒙の特殊権益。それから、日露の外債、利払いの緩和」

「後者は、うちの大蔵省が渋りますよ」

「渋られても、通していただかねば」

 ヴァンスはグラスを傾け、しばらく黙っていた。暖炉の火が爆ぜた。

「――相変わらず押しの強い頼み事だな、少佐」

「無理は承知の上です」

 ヴァンスは葉巻を灰皿に這わせた。話の接ぎ穂を探しているのではない。次の一手を、すでに読んでいる目だった。

 

「第五号は、どうする」

「――と、仰いますと」

「もはやとぼけている時間もないだろう。あれは、貴国にとって外に出せぬ代物のはずだ。チャイナの内政に踏み込む条項など、列強の前で読み上げれば、日本の信用は地に落ちる」

 秋月は答えなかった。

 

「私が握っていれば」ヴァンスは続けた。「日本に否とは言わせぬ材料になる、ということだ。違うか」

 秋月はニヤリと笑った。秋月の反応が、答えの代わりになった。ヴァンスはそれで満足したらしい。

「なるほど。そちらの筋書きが見えてきた」ヴァンスはグラスを回した。「英国が握り、日本に呑ませる。呑ませたあとは――どうする。表に出すのか」

「いいえ」秋月はようやく口を開いた。「表に出せば、脅した事実まで世に出ます。閣下のお立場も、無傷では済みますまい」

「私の心配までしてくれるとは、ご丁寧なことだ」

 ヴァンスは笑ったが、今度は目も笑っていた。

 

「握り潰していただきたいのです。派兵さえ通れば、第五号そのものに用はありません」

「都合のいい話だ。うちが手を汚し、証拠まで隠してやれと」

「同盟国のよしみです」

「その台詞、前にも聞いたな」

 ヴァンスは椅子の背にもたれた。天井を見上げ、しばらく黙っていた。

「――悪い話ではない」ヴァンスはやがて言った。「艦隊は兵が足りん。陸相たちはチャーチル大臣の無茶な海峡作戦の一件で頭を抱えている。そこへ、極東から援軍が転がり込む。しかも、恩を着せる形で。

 

私の主人(チャーチル)にも、その上にも説明のつく話だ」

「では」

「ただし」ヴァンスは指を一本立てた。「これは私一人の腹づもりだ。外務省の正式な意向ではない。そのつもりで聞いてくれ」

「承知しております」

 ヴァンスはグラスの中身を飲み干した。

 

「貴殿らのやり方は、いつも礼儀正しく人を追い詰める。日本人らしくはない」ヴァンスは秋月を見た。値踏みする目ではなかった。それはもう、とうに終わっている目だった。「その裏に誰がいるのか、そろそろ聞いてもよい頃合いだと思うが」

「いずれ、機会があれば」

「その返事も、前に聞いた。貴国の革命時代の生き残りといったところかな」

 ヴァンスは短く笑い、給仕を呼ぶ紐に手を伸ばした。

 

「もう遅い。今夜はここまでにしよう。次に会う時は、もう少し行儀のいい時間にしてくれると助かる」

「善処いたします」

 秋月は立ち上がった。扉のところで、一度だけ振り返った。

「閣下」

「何だ」

「――ありがとうございます。上海でよく閣下が召し上がっていた葉巻です」

「まったく。プレゼントを差し出すタイミングが見事だ」

 ヴァンスは片手を振っただけだった。それ以上は何も言わなかった。

 

 外に出ると、霧はさらに深くなっていた。街灯の光が、滲んで丸く広がっている。辻馬車を探したが、この時間には一台も走っていなかった。秋月は歩き出した。

 

 息が白い。革靴の踵が、濡れた石畳を鳴らした。

(――これで、動き出す)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 満蒙。外債。派兵。第五号。四つの糸が、一人の英国人の腹の内で、一本に縒り合わされた。秋月自身の手で縒ったわけではない。ただ、縒られるべき場所に、糸を置いてきただけだ。

(高杉先生の言う通りだ。あとは、向こうが勝手に動く)

 

 ロンドン塔の方角から、船の汽笛が長く響いた。霧の底で、テムズの水面が黒く光っている。

 秋月はコートの襟を立て、宿への道を急いだ。まだ、この夜のうちに打つべき電文が一本残っていた。

 

   *

 

 真崎は引き出しの底から便箋を取り出した。上海から持ち帰ったきり、一度も使っていなかった。

 書き出しに迷った。結局、いつもの調子で書くことにした。

 

――『愛玲へ。突然だが、見合いをすることになった。相手は神林中将の令嬢だ』

 筆を止めた。神林毅一郎の顔を思い浮かべる。あの目つきの鋭さは、娘にもよく似ていた。

 

――『正直に言えば、あまり気の進まぬ話だ。気の強い令嬢でな。俺のような呉の田舎者には、いささか荷が重い』

 

 書きながら、苦笑した。愛玲が読めば、鼻で笑うだろう。「あなたが荷が重いと言う女なんて、よほどね」とでも返してきそうだった。

 

 筆はそこで、また止まった。

(――続きを、どう書けばいい)

 「また会いたい」とは書かなかった。そこまで書く度胸は、まだない。代わりに、こう書いた。

 

――『満州の方は変わりないか。もし北の方で妙な噂――特にロシアがらみの話を耳にしたら、知らせてくれると助かる。仕事の話で悪いが』

 

 仕事にかこつけただけの、ただの口実だとわかっていた。それでも、繋がりを切らずにいる理由が欲しかった。

 最後に、一行だけ付け加えた。

――『帝都は、まだお前の作った粥の味が恋しい』

 

 それだけ書いて、筆を置いた。読み返すと、我ながら情けない文面だと思った。それでも、破り捨てはしなかった。

 封をして、宛名を書いた。上海のマスターの店気付、といういつもの宛先だった。愛玲が満州に出ていても、いずれ届くはずだった。

 

 窓の外、帝都の夜はまだ明けない。真崎は行灯の灯りを消し、布団に入った。

(何と答えるかは、もう書いた。今度は、あちらの番だ)

 満蒙の話より、よほど厄介な宿題だったが、今夜だけは、悪くない気分だった。




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