海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
上海。地下拠点。高杉晋作は電文の紙テープを一目見て、動きを止めた。
「……ほう」
三味線を弾く手が止まった。皺の中で、目だけが動いた。
――数時間前、帝都。
真崎勇気の自宅、深夜。一人暮らしの家に、物音一つない。真崎は寝室のタンスの奥板を外した。黒石に組み立て方を教わった改造電信装置が、闇の中で鈍く光っていた。真崎は電鍵に指を置いた。指先が冷たい。上海で黒石に習った時より、指の動きは速くなっていた。
(神林中将から聞いたことを、そのまま流していいのか)
迷いは一瞬だった。真崎は打ち始めた。トン、ツー、トン。もし英国が派兵要請をしてきた時、その交換条件として、日本は満蒙の特殊権益を認めさせたがっている、と。
送信を終えると、装置の音が消えた。真崎はしばらく、暗闇の中で電鍵に手を置いたままでいた。冷えた指を、掛け布団の下に差し込んだ。まだ脈が速い。
*
上海の通信室で、黒石透はヘッドホンを外した。紙テープを持つ手が、わずかに震えていた。
「先生。真崎大尉殿から、直接です」
高杉に紙を渡した。高杉は一読し、二読目はしなかった。
「満蒙、か」
「はい。もし英国が派兵を頼んできたら、その見返りに満蒙の特殊権益を認めさせたい、と」
扉が開いた。ディアナが盆を運んできた。湯気の立つコーヒーを、高杉の机と黒石の作業台に一つずつ置いた。誰も頼んでいない。いつもそうしている、というだけの動きだった。
「今夜は冷えますから」
それだけ言って、ディアナは部屋を出て行った。黒石は「ありがとう、ディアナ」と言い、コーヒーに口をつけてから、ようやく息を一つ吐いた。
「面白い間合いで来おった」高杉はカップを取り上げた。「秋月が先月、ロンドンで妙な種を蒔いておる」
「あの第五号関連の情報だ」黒石が言った。
「奴らには全部見せておらん。匂わせただけじゃ。だが匂いを嗅いだ犬は、自分の鼻で答えを探しに行く」
「本当にダーダネルス海峡に突っ込む計画なら」黒石が言った。「英国は自分の首を絞めることになりますね」
「絞まっておるとも」高杉は静かに言った。「兵站が足りん。いずれ日本に頭を下げに来る。その時、手ぶらで頭を下げさせるほど、こちらも甘くない」
高杉はコーヒーを一口飲んだ。
「秋月に打て」
黒石はヘッドホンを掛け直した。指が電鍵に伸びた。
あの襲撃以来沈黙していた回線だったが、電信機の修復を終え、美濃部とはようやく再び交信できるようになっていた。
同じ夜更け、帝都からもう一本、別の電文が届いていた。柏木からだった。宛先は海軍省嘱託翻訳官・美濃部栞――秋月が使うのと同じ、表向きは業務連絡を装った回線だ。
第五号の中身、満蒙を巡る陸軍の執着、ロシア側の絡み――要点だけを絞った、短い文面だった。
「ジョージさん……あっ、JGさんからも来てます」黒石が言った。
「両方まとめて打て」高杉が言った。「秋月には、材料は多い方がいい」
黒石は頷き、二本の電文を一つに束ねる作業に取りかかった。
*
ロンドン。冬の霧が、窓の外に張りついていた。
秋月慧は宿の卓上で、黒石からの電文を受け取った。満蒙特殊権益。派兵の交換条件。柏木がまとめた第五号の中身と、津野田・ロシアの繋がり。
二枚の電文を並べた。
(――繋がった)
鞄の奥から、柏木に預かった第五号の写しを引き出した。電文の文字と並べる。
日本が欲しいものは二つ。満蒙の特殊権益。日露の外債、利払いの緩和。それを英国から引き出す手札が、いま揃った。
第五号は、もう一つの手札だ。表に出せば、日本の外交上の恥になる。だが英国の手にだけ渡り、脅しの種として使われれば話は違う。断れば公にする――そう匂わされれば、日本は頷くしかなくなる。
(――だが、それで終わらせるつもりはあるまい)
高杉が描く絵図なら、この先がある。英国に第五号を握らせ、脅しの手駒として使わせる。日本に派兵を呑ませたあとは、その第五号ごと、英国自身に握り潰させる。表沙汰にすれば、脅迫の事実まで一緒に世に出る。だから英国も、深追いはしない。恥を晒さず、要求だけを引き出して、証拠は闇に葬る。
(――高杉先生が、前に言っていた絵図だ)
欧州で称賛される形で参戦し、講和の席で英国との関係を保ったまま、蘭印の石油に手を伸ばす。いずれ台頭する米国と、対等に渡り合うための布石。第五号は、その最初の一手に過ぎない。
(――脅し、そして手仕舞い。うまくできている)
窓の外で、霧がまた一段深くなった。
秋月は懐中時計を見た。深夜だが、ヴァンスは夜更かしの質だ。仕度を整え、コートを羽織った。
霧の中、辻馬車を拾う。行き先はセント・ジェームズ通りの、あの看板のないサルーンだった。
扉を叩く。返事はなかった。もう一度。
やがて、初老の給仕が顔を出した。
「こんな時間に、失礼を」秋月は言った。「男爵はまだ、いらっしゃるか」
給仕は無言のまま、奥の階段を指した。
どうやら、間に合ったらしい。
階段はきしんだ。二段ごとに、踏み板が違う音を立てる。秋月は手すりを頼りに上った。灯りは最小限だった。
特別室の扉が、細く開いていた。
「さすがに非常識な時間だ、少佐」
声が先に出迎えた。ヴァンス男爵は暖炉の前の椅子に座っていた。卓の上には、飲みかけのブランデーが一つと書類が置かれていた。相手を待たせていた形跡はない。思索にふけっていたのだろう。
「閣下も、まだお休みではなかったようで」
「歳を取ると、夜が長くてかなわない」ヴァンスは椅子を指した。「座りたまえ。ここまで来たということは、朝まで待てない話なのだろう」
秋月は腰を下ろした。ブランデーは勧められなかった。今夜は、そういう夜だった。
「先だってお話しした件、続きがございます」
「第五号の話か」
「日本の元帥方は、すでに動いております。派兵を受け入れる前提で」
ヴァンスの手が、グラスの脚から離れた。
「――確かな筋か」
「確かです」
「早いな。私の耳より、貴国の内側の方が」
ヴァンスは低く笑った。だが目は笑っていなかった。この男が本気で驚いた時の顔を、秋月はもう覚えていた。
「条件は」
「満蒙の特殊権益。それから、日露の外債、利払いの緩和」
「後者は、うちの大蔵省が渋りますよ」
「渋られても、通していただかねば」
ヴァンスはグラスを傾け、しばらく黙っていた。暖炉の火が爆ぜた。
「――相変わらず押しの強い頼み事だな、少佐」
「無理は承知の上です」
ヴァンスは葉巻を灰皿に這わせた。話の接ぎ穂を探しているのではない。次の一手を、すでに読んでいる目だった。
「第五号は、どうする」
「――と、仰いますと」
「もはやとぼけている時間もないだろう。あれは、貴国にとって外に出せぬ代物のはずだ。チャイナの内政に踏み込む条項など、列強の前で読み上げれば、日本の信用は地に落ちる」
秋月は答えなかった。
「私が握っていれば」ヴァンスは続けた。「日本に否とは言わせぬ材料になる、ということだ。違うか」
秋月はニヤリと笑った。秋月の反応が、答えの代わりになった。ヴァンスはそれで満足したらしい。
「なるほど。そちらの筋書きが見えてきた」ヴァンスはグラスを回した。「英国が握り、日本に呑ませる。呑ませたあとは――どうする。表に出すのか」
「いいえ」秋月はようやく口を開いた。「表に出せば、脅した事実まで世に出ます。閣下のお立場も、無傷では済みますまい」
「私の心配までしてくれるとは、ご丁寧なことだ」
ヴァンスは笑ったが、今度は目も笑っていた。
「握り潰していただきたいのです。派兵さえ通れば、第五号そのものに用はありません」
「都合のいい話だ。うちが手を汚し、証拠まで隠してやれと」
「同盟国のよしみです」
「その台詞、前にも聞いたな」
ヴァンスは椅子の背にもたれた。天井を見上げ、しばらく黙っていた。
「――悪い話ではない」ヴァンスはやがて言った。「艦隊は兵が足りん。陸相たちはチャーチル大臣の無茶な海峡作戦の一件で頭を抱えている。そこへ、極東から援軍が転がり込む。しかも、恩を着せる形で。
「では」
「ただし」ヴァンスは指を一本立てた。「これは私一人の腹づもりだ。外務省の正式な意向ではない。そのつもりで聞いてくれ」
「承知しております」
ヴァンスはグラスの中身を飲み干した。
「貴殿らのやり方は、いつも礼儀正しく人を追い詰める。日本人らしくはない」ヴァンスは秋月を見た。値踏みする目ではなかった。それはもう、とうに終わっている目だった。「その裏に誰がいるのか、そろそろ聞いてもよい頃合いだと思うが」
「いずれ、機会があれば」
「その返事も、前に聞いた。貴国の革命時代の生き残りといったところかな」
ヴァンスは短く笑い、給仕を呼ぶ紐に手を伸ばした。
「もう遅い。今夜はここまでにしよう。次に会う時は、もう少し行儀のいい時間にしてくれると助かる」
「善処いたします」
秋月は立ち上がった。扉のところで、一度だけ振り返った。
「閣下」
「何だ」
「――ありがとうございます。上海でよく閣下が召し上がっていた葉巻です」
「まったく。プレゼントを差し出すタイミングが見事だ」
ヴァンスは片手を振っただけだった。それ以上は何も言わなかった。
外に出ると、霧はさらに深くなっていた。街灯の光が、滲んで丸く広がっている。辻馬車を探したが、この時間には一台も走っていなかった。秋月は歩き出した。
息が白い。革靴の踵が、濡れた石畳を鳴らした。
(――これで、動き出す)
満蒙。外債。派兵。第五号。四つの糸が、一人の英国人の腹の内で、一本に縒り合わされた。秋月自身の手で縒ったわけではない。ただ、縒られるべき場所に、糸を置いてきただけだ。
(高杉先生の言う通りだ。あとは、向こうが勝手に動く)
ロンドン塔の方角から、船の汽笛が長く響いた。霧の底で、テムズの水面が黒く光っている。
秋月はコートの襟を立て、宿への道を急いだ。まだ、この夜のうちに打つべき電文が一本残っていた。
*
真崎は引き出しの底から便箋を取り出した。上海から持ち帰ったきり、一度も使っていなかった。
書き出しに迷った。結局、いつもの調子で書くことにした。
――『愛玲へ。突然だが、見合いをすることになった。相手は神林中将の令嬢だ』
筆を止めた。神林毅一郎の顔を思い浮かべる。あの目つきの鋭さは、娘にもよく似ていた。
――『正直に言えば、あまり気の進まぬ話だ。気の強い令嬢でな。俺のような呉の田舎者には、いささか荷が重い』
書きながら、苦笑した。愛玲が読めば、鼻で笑うだろう。「あなたが荷が重いと言う女なんて、よほどね」とでも返してきそうだった。
筆はそこで、また止まった。
(――続きを、どう書けばいい)
「また会いたい」とは書かなかった。そこまで書く度胸は、まだない。代わりに、こう書いた。
――『満州の方は変わりないか。もし北の方で妙な噂――特にロシアがらみの話を耳にしたら、知らせてくれると助かる。仕事の話で悪いが』
仕事にかこつけただけの、ただの口実だとわかっていた。それでも、繋がりを切らずにいる理由が欲しかった。
最後に、一行だけ付け加えた。
――『帝都は、まだお前の作った粥の味が恋しい』
それだけ書いて、筆を置いた。読み返すと、我ながら情けない文面だと思った。それでも、破り捨てはしなかった。
封をして、宛名を書いた。上海のマスターの店気付、といういつもの宛先だった。愛玲が満州に出ていても、いずれ届くはずだった。
窓の外、帝都の夜はまだ明けない。真崎は行灯の灯りを消し、布団に入った。
(何と答えるかは、もう書いた。今度は、あちらの番だ)
満蒙の話より、よほど厄介な宿題だったが、今夜だけは、悪くない気分だった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。