海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
イワン・ヴォルコフは、届いたばかりの報告書を机に置いた。読み返す気にもならなかった。
ロシア大使館、書記官の一室。暖炉の火が弱く爆ぜていた。
「ツノダは、しくじりました」
連絡員が抑えた声で言った。ヴォルコフは答えなかった。指先で机を軽く叩いている。
「憲兵に押さえられたそうです。あの写真を回収するどころではなくなった」
「知っている」
ヴォルコフは窓の外を見た。庭木が黒く沈んでいる。
「陸軍の中佐だ何だという体裁の男に、荒事を任せたのがそもそもの誤りだった。もっとも――」
ヴォルコフは葉巻に火をつけた。ゆっくりと吸って、吐いた。
「あの写真が表に出たところで、私はどうということもない。取材目的で
「本当に、それで済むとお考えで」
「済ませる。それが仕事だ」
ヴォルコフは煙を目で追った。
「ツノダの口は」
「今のところ、割れていないようです」
「割れれば、それまでの男だったということだ」
「あなたと内通していると自白したら」
「キミがうまくやってくれるんでしょう」
「全く人任せな。もちろん何とかするが」
連絡員は一礼して下がった。部屋には、暖炉の火と葉巻の煙だけが残った。
ヴォルコフはしばらく、届いた報告書に目を落としたままでいた。
*
同じ夜、ロンドン。
海軍情報部の一室に入る前、秋月はベルンから届いたばかりの一通に目を通していた。差出人は陸軍駐在武官・永田鉄山。堅い字で、たった一言だけが記されていた。
「貴官が海で油を計算している間、こちらの大地では、日露一会戦分の弾薬が毎朝蒸発しています」
会ったこともない男の走り書きに、秋月は小さく笑って報告書を畳んだ。同じ島国の海と陸から、同じ戦争を見ている男がいる――妙に、腑に落ちた。
海軍情報部の一室で、秋月は若い士官と向き合っていた。
「ルパート・チェスタートン中尉です」ヴァンスが紹介した。「
チェスタートンは軽く頭を下げただけだった。握手はしない。
「アキヅキ少佐、でしたか」青い目が、値踏みするように秋月を見た。「男爵閣下から色々と伺っていますが――正直、半信半疑でしてね」
「ケイ、でいい。その方が発音しやすいでしょう――貴官もずいぶん疑い深いようで」
「日本人に、何ができるのか。失礼を承知で申し上げれば」
ヴァンスが咳払いをしたが、チェスタートンは意に介さなかった。秋月は表情を変えなかった。
「今にわかりましょう」秋月は静かに言った。「言葉より、結果で語る主義でね。あなたも国籍や人種など些細なことより、結果重視の方かと思ったが」
「結構」チェスタートンはわずかに口の端を上げた。「結果を出せる人間しか、私は信用しません」
ヴァンスは二人のやり取りを見て、小さく肩をすくめた。
「ドイツ側の動きは」秋月が話を戻した。
「寄港地のいくつかに、うちが泳がせている二重スパイの報告があります。ポーツマス軍港に入り込んでいるのは確実です。ドイツのスパイがロンドンにはびこる前に早めに潰しておきたい」チェスタートンは地図を広げた。「あなた――
「基本は抑えている」秋月は込み上げてくるボルテージを抑えつつチェスタートンに返した。「結果でお見せしましょう」
チェスタートンは、声を立てて笑った。
「本国は、正式な通告を待つ気はないようだ」
チェスタートンは机の上の書類を指先で弾いた。
「閣下の口添えのおかげで、あなたの話——第五号の件は、もう十分な重みを持っている」
(――ヴァンス閣下経由で流した話が、もうここまで届いているのか)
「代償として、何を求めます」秋月は椅子に座ったまま言った。
「欧州への本格的な派兵。口約束ではなく、数字で」
「望むところです」秋月は即答した。
チェスタートンは葉巻に火をつけ、しばらく黙っていた。
「もう一つ、片付けたいことがある」
「イギリスに潜り込んでいるドイツのスパイですか」
「そうだ」チェスタートンはうなづいた。「先週から、外へ出したはずのない一報が、二度も先回りされている。回覧先の中に、ネズミがいる。容疑者は五人だ」
「増援が必要だと」
「私一人では、五人全員を同時には見張れない」
窓の外で、霧笛が二度、短く鳴った。
翌朝、海軍情報部の会議室で、ヴァンスが地図を広げていた。
「ポーツマスへ行く」前置きなしに言った。「回覧先にネズミがいるなら、机の上の書類より、現地の顔を見た方が早い」
チェスタートンが頷いた。「手配します。ウォータールー発、昼過ぎの列車で」
「私も行きます」秋月が言った。
チェスタートンが片眉を上げた。「貴官が行く必要はない」
「いや」ヴァンスが割って入った。「ケイは英国滞在中、私に随伴することになっている。ご足労だが、来てもらう必要がある。それに――」
「ポーツマス軍港は、ぜひ一度見ておきたいと思っていました」秋月が言った。
「遊びじゃないんだぞ」チェスタートンが言った。
「当然です」秋月は表情を変えなかった。「日英同盟をより実効的なものにするには、海軍実務家である私がポーツマス軍港を実地見学するのも業務のうちです。それに――日本海軍が出せる数字は、私の頭の中にしかありません」
チェスタートンが小さく笑った。「口の減らない海軍さんだ」
*
昼のウォータールー駅は、軍靴の音で満ちていた。休暇帰りの兵、見送りの家族、志願兵の一団。プラットホームの端で、蒸気機関車が白い息を吐いていた。
三人は二等車の個室を取った。窓の外を、灰色のロンドン郊外が過ぎていく。煉瓦の煙突、干された洗濯物、羊の群れ。戦争をしている国とは思えないほど、のどかな景色だった。
「サンドイッチです」チェスタートンが紙包みを差し出した。ハムと辛子だけの、簡素な中身だった。「ここ半年で、卵もバターも値上がりしましてね」
「上海の方が、まだ食い物には困りませんでした」秋月が言った。
「上海は租界だ。戦場の外にいる」ヴァンスが窓の外を見たまま言った。「この国は、もう戦場の中にいる」
「ボクは見てきましたよ、その戦場を」チェスタートンがサンドイッチを頬張りながら言った。
「去年のクリスマス、ドイツ北西、クックスハーフェンのツェッペリン格納庫を叩きに行った時のことですがね」
ヴァンスは膝の上の本から目を上げなかった。
「霧がひどくてね。格納庫なんぞ影も形も見えやしない。仕方なく、手で爆弾を放り投げましたよ。原始的でしょう」
秋月は黙って聞いていた。
「機は燃料切れでね、着水するしかなかった。もうダメかと思った瞬間、波を割って味方の潜水艦が浮上してきたんです。スパイ小説みたいでしたよ」
「うちの機に乗ってた老兵が、また只者じゃなくてね」チェスタートンは声を落とした。「『砂洲の謎』っていう戦争小説を書いた男ですよ。実体験に基づく緻密な描写で、軍内じゃ結構有名になってる。霧の中でも、ドイツの海岸線の形をすべて頭に入れていた。情報部のお抱えだって噂です」
「ルパート」
ヴァンスが、初めて本から顔を上げた。
「さすがにうるさいぞ」
チェスタートンは肩をすくめ、サンドイッチの残りを口に押し込んだ。
秋月は窓の外に目を戻した。(――潜水艦に、水上機に、小説家の密偵か。この国の戦争は、道具立てが速い)
チェスタートンが銀のフラスコを傾けた。ウイスキーの匂いがした。
「一杯どうです、ケイ」
「では折角なので啜るだけ」
「意外だな。貴官、気に入ったぞ」チェスタートンはフラスコを差し出した。秋月は一口だけ含み、フラスコを返した。「もっとも、ポーツマスに着けば、そんな余裕もなくなるでしょうが」
二時間ほどで、列車はポーツマス・ハーバー駅に滑り込んだ。
ホームに降りた瞬間、秋月は空気の違いに気づいた。潮の匂いに、何か焦げたような臭いが混じっている。
埠頭の向こうに、無数のマストと煙突が並んでいた。本国艦隊の主力はここにはない。だが工廠には、修理待ちの巡洋艦と、腹を見せた潜水艦の艦影が連なっていた。
ドックの奥、古い木造の帆船が一隻、静かに係留されている。
「あれは」
「ヴィクトリー号」チェスタートンが言った。「トラファルガー海戦の旗艦だ。今は司令部の一部として使っている」
「なぜわざわざ、ヴィクトリーを司令部に?」秋月が聞いた。
「陸ではなく、船だからですよ」チェスタートンは答えた。「陸の建物なら、忍び込む道は塀の外にいくらでもある。船なら、乗り込める場所も見張れる場所も限られる。それに――」チェスタートンは肩をすくめた。「いざとなれば、あれでも一応、動く。陸の司令部は動かせませんが、船は錨を上げれば済む話です」
埠頭を歩く水兵の列の中に、一人だけ歩調の違う男がいた。作業服を着ているが、荷を担ぐ肩の角度が、他の水兵と違う。
秋月の視線に気づいたのか、男は不自然に顔をそむけ、人混みの中へ消えた。
「ケイ」チェスタートンの声が、初めて硬くなった。「今の、見ましたか」
「見ました」
埠頭の奥で、汽笛が長く一つ、鳴った。
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