海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
埠頭の雑踏に、作業服の男の姿はもう見えなかった。
工廠の警備兵に伝え、周辺を検めさせたが、収穫はなかった。「造船工の交代要員に紛れて出て行ったのだろう」と警備兵の下士官は言った。もっともらしい話だったが、秋月は納得していなかった。
「あの歩き方は、荷役の男のものじゃない」秋月は埠頭を見渡しながら言った。
「私も同意見です」チェスタートンが地図を畳んだ。「だが今は、これ以上は無駄足だ。予定に戻りましょう」
*
工廠の門をくぐってすぐ、ヴァンスは足を止め、案内板も出ていないレンガの建物を指した。
「乗艦の前に、一つ見ておいてほしい場所がある」
古いロープ工場を改装した部屋だった。四年前に開いたばかりだという、海軍の小さな博物館。薄暗い展示室に、色褪せた軍服や勲章、素描画が並んでいた。壁の一面は、歴代の提督の肖像画で埋まっている。中でも一角だけ、一人の男の遺品でまとめられていた。
「ここは」
「ネルソン提督の間です」ヴァンスはガラスケースの前で足を止めた。中には、肩章の外れかけた濃紺の上着があった。左肩の下に、黒く変色した染みが残っている。「トラファルガーで、彼が着ていた上着です」
「――狙撃されたと聞きました」
「マストの上から、フランスの狙撃兵に。距離は二十ヤードもなかったでしょう」ヴァンスは静かに言った。「勝った戦の、勝った瞬間に死んだ。皮肉なものです」
チェスタートンが、後ろから覗き込んだ。
「軍人が最期をどう迎えるか、選べたためしはありませんからね」チェスタートンは肩をすくめた。「もっとも、私はまだ選ぶ気はありませんが」
「怖くはないのですか。閣下も、これから同じ艦に乗るというのに」秋月が聞いた。
ヴァンスは笑った。
「歴史は繰り返すと言いますが、まさか自分が主役になるとは、誰も思っていませんよ」ヴァンスは上着から目を離し、秋月を見た。「それに――生き延びることばかり考えていては、この仕事は務まりません」
秋月は、その上着の染みから、しばらく目を離せなかった。
(――あの男も、同じ台詞を吐きそうだ)
高杉の顔が、ふと頭をよぎった。危うさを笑い飛ばす老人と、この老獪な英国人が、どこか重なって見えた。
展示室を出ると、潮風が頬を打った。埠頭の向こうに、ヴィクトリー号の帆柱が見えている。
ヴィクトリー号の甲板は、乾いた木の匂いがした。百五十年前の艦だというのに、床板は磨き込まれ、艤装の真鍮は鈍く光っている。艦内の一室で、司令部付きの参謀と一時間ほど打ち合わせが続いた。港湾防備の穴、二重スパイの疑い、回覧経路の締め直し。話の中身は、流石の秋月にとっても半分も理解できない専門用語と隠語の応酬だった。
打ち合わせが終わると、一同は甲板へ出た。冬の陽が、艦の帆柱に長い影を落としている。
「お疲れさまでした、少将」ヴァンスが言った。「あの機雷掃海の件、ダーダネルスに回す前に、まずこの港で試してもらえますか」
「善処しよう、男爵」
海軍少将ヘイスティングスは、白髪交じりの口髭を撫でながら答えた。港務部を長く預かる男で、今回の掃海技術の采配を一手に握っている――そうチェスタートンが道中で説明していた。海峡作戦の兵站が、この老将の一存にかかっている部分も少なくない、と。
「掃海艇の増強さえ通れば、来春には」ヘイスティングスが続けた。「もっとも、大蔵省がまた渋るでしょうがね」
「渋られたら、また私が行きます」ヴァンスが言った。「慣れた仕事だ」
四人は談笑しながら歩いた。
チェスタートンが秋月に耳打ちする。
「あの少将が首を縦に振らないと、ダーダネルスの機雷は永遠に片付きません」
「重要な方なんですね」
「重要すぎるくらいですが、護衛が薄いのが困りものです」
その時だった。
ヴァンスの目が、埠頭の向こう――倉庫の並ぶ通りの先、古いレンガ造りの建物の屋上に一瞬だけ止まった。
(――光った)
窓ガラスでも、水面の照り返しでもない。もっと鋭く、一点に絞られた光だった。
「伏せろ!」
ヴァンスが叫んだ。同時に、体をひねってヘイスティングスへ体当たりした。老将の体が甲板に押し倒される。
乾いた破裂音が、遅れて届いた。
ヴァンスの体が、一瞬止まった。それから、糸が切れたように甲板に崩れ落ちた。
「ヴァンス閣下ッ!」
秋月が叫んだ。チェスタートンはすでに動いていた。倒れたヴァンスの傍らに膝をつき、外套の前を開く。左の鎖骨の下、白いシャツに赤い染みが広がっていくのが見えた。
「衛生兵を呼べ! 急げ!」
チェスタートンの声が甲板に響いた。水兵たちが駆け出す。
ヘイスティングスは呆然と、押し倒された姿勢のまま動けずにいた。
「男爵!――なぜ、私を庇った」
ヴァンスは答えなかった。目は開いていたが、焦点が定まっていない。荒い息だけが、繰り返し漏れていた。
埠頭側のタラップから、複数の足音が駆け上がってくる音がした。振り返った秋月の目に、作業服の男が四人、映った。先頭に立つ一人の歩き方に、見覚えがあった。
(――あの男だ)
男の右手には、短く切り詰めた散弾銃があった。混乱に紛れて甲板まで上がってくるつもりだったのだろう。狙撃が外れた今、任務を仕上げにきた顔だった。
「伏せろ、少将!」
チェスタートンが叫び、腰の拳銃を抜いた。銃声が甲板に響く。男たちは左右に散り、艤装の陰へ身を隠した。
傍らに、歩哨が一人倒れていた。腕から血が流れているが、胸は上下している。気を失っているだけだ――そう分かって、秋月はわずかに息をついた。落ちていたリボルバーを拾い、両手で構える。心臓が耳の奥で鳴っていた。掌に汗が滲む。
(――呼吸を殺せ。的は動く)
男の一人が艤装の陰から身を乗り出した瞬間、秋月は引き金を引いた。反動が肩を伝う。男は肩を押さえてよろめいた。
「当たった!」チェスタートンが叫んだ。
残りの男たちのうち一人が、仲間の後退を援護するように前へ出た。秋月はもう一度引き金を引いた。乾いた撃鉄の音だけが鳴った。弾切れだった。
(――しまった)
男が銃口をこちらへ向け直す。距離はもう詰まっていた。
「ケイ!」
チェスタートンの声が飛んだ。甲板を滑って、拳銃が一挺、秋月の足元まで届く。屈んで拾い上げると同時に、狙いも定めずに引き金を引いた。
銃声に、男が怯んで身を引いた。それだけで十分だった。
「退くぞ!」先頭の男が叫んだ。ドイツ語だった。
埠頭の奥で、複数の呼子笛が重なって鳴る。応援の歩哨が迫っていた。四人は負傷した仲間を担ぎ、煙のように倉庫の陰へ消えていった。
銃声が止むと、急に静けさが戻った。
秋月は肩を大きく上下させながら、拳銃を下ろした。掌が汗で濡れ、喉の奥がひりつくほど渇いていた。
倒れていた歩哨は、駆けつけた水兵に助け起こされ、肩を貸されながら歩き出していた。命に別状はなさそうだった。
チェスタートンも息が上がっていた。額に汗が浮き、拳銃を握る手が小さく震えている。
「本当に、基本は抑えていたんだな」
「そう言ったでしょう」
「見事だった。男爵のところへ行くぞ」
二人は息を切らしたまま駆け出した。甲板の中央、ヴァンスの周りに、すでに水兵たちが集まっていた。誰かが上着を脱いで、傷口に押し当てている。血の染みは、まだ広がり続けていた。
「閣下!」
秋月は膝をつき、ヴァンスの手を握った。指先は、氷のように冷たかった。
「救護室へ下ろすぞ!全員手伝えッ!!」
チェスタートンが叫んだその時――。
不意に、ポーツマス港全体を震わせるような、低く重い
「なんだ!?」
ヘイスティングス少将が顔を上げた。甲板の端へ走り、霧の立ち込める港内を睨みつける。
伝令の水兵が、息も絶え絶えにタラップを駆け上がってきた。その顔には、先ほどの狙撃騒動とは次元の違う、純粋な恐怖が張り付いていた。
「少将! 異常事態です!」
「落ち着け! 何があった!」
「
「馬鹿な!」ヘイスティングスは怒鳴った。「本日の入港予定はないはずだ! 誰が下ろした!」
「分かりません! 昇降所の管理室からの応答がなく……手動で赤色灯の入港許可信号が上げられています!」
その報告を聞いた瞬間、秋月とチェスタートンは顔を見合わせた。
(――陽動だ)
秋月は背筋が凍るのを感じた。
あの狙撃も、先ほどの散弾銃の男たちも、本命ではなかったのだ。彼らの真の目的は、この海霧の立ち込める中、港湾司令部の機能を麻痺させ、通信と指揮系統を混乱させること。
そして、防潜網を無効化すること。
その時、霧の向こうから「音」が聞こえた。
水面が不自然に裂けるような、微かな水音だった。
機関を止めたまま、潮の干満――上げ潮に乗って、音もなくソレント海峡を滑り込んできた「何か」。
大英帝国の本陣、ポーツマス港の奥深く。第一乾ドックの奥には、艤装中の戦艦が、水を抜かれたまま眠っている。分厚い鋼鉄の扉――ケーソンが、ドックと港とを隔てる最後の壁だった。
「……ドイツの高速魚雷艇か」
ヘイスティングス少将の顔から、一瞬で血の気が引いた。
白く濁った海霧の向こうで、大英帝国海軍の誇りを打ち砕く、前代未聞の奇襲作戦が幕を開けようとしていた。
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