海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
ヴィクトリー号の甲板は、怒号と靴音で溢れかえっていた。
狙撃で肩口を撃ち抜かれたヴァンス男爵は、大量の血を流して完全に意識を失っていた。
軍医が駆けつけ、膝をついた。ハサミで上着を切り裂き、血に染まった白いシャツを開いた瞬間、内ポケットから何かが甲板へ滑り落ちた。銀色の懐中時計だった。ガラスに一筋のヒビが入り、針は四時七分で止まっていた。撃たれた、その時刻だった。傷口は、おそらく心臓に近い。
「手伝ってください!」
軍医の声に、秋月は反射的に両手を重ねた。指先が震えていることに、自分で気づいた。だが手は止めなかった。
「まだ止まらんのか、血は!」
チェスタートンが、怒号に似た声を上げる。
「心臓近くの動脈はそれています」軍医が押し殺した声で言った。「ですが、支線の動脈が切れている。鎖骨の下では止血帯が巻けない!」
「――貸せ」
秋月は傷口を押さえる手はそのままに、もう片方の指先を鎖骨の上のくぼみへと滑り込ませた。鎖骨の上から動脈の根元を骨に押しつけて、流れそのものを断つ。
「おい、なに変なことやってるんだ!」
チェスタートンが叫んだ。
「いいえ、これでいいんです」軍医が短く言った。「鎖骨下の動脈を、根元で骨に押し付けている。止血帯が巻けない場所では、これしかありません。そのまま押さえていてください」
「……お前、よく知ってるな」
チェスタートンが息を呑んだ。
「
「他にも手当てする者がいます」軍医はそう言い残し、次の負傷者へ駆けていった。
チェスタートンが、甲板に落ちたままの懐中時計を拾い上げ、そばの木箱の上に置いた。
秋月は、傷口を押さえたまま、その場を動かなかった。
「電話線が通じません!」
下士官が、血相を変えてヘイスティングス少将に駆け寄った。
「工廠の通信司令部はもちろん、対岸のゴスポートにある要塞砲台への回線も、すべて不通です! 何者かに切断された模様です!」
「見事な手際だな」少将は苦々しく吐き捨てた。「陽動、攪乱、通信の寸断。あの屋上のスパイも、この数分の空白を作るための捨て駒の一枚だったということか」少将は口の端を歪めた。「もっとも――私を仕留めておけば、それで話は終わっていたのだがな」
少将は甲板のへりに歩み寄り、乳白色の海霧の奥へと目を凝らした。
大英帝国の中枢とも言えるポーツマス港。
通常であれば、厳重な沿岸砲台と、海底に張り巡らされた鋼鉄の
だが、冷たい北海の風が運んできたこの異常な濃霧が、沿岸の探照灯と見張りを完全に盲目にした。
そして内部に潜り込んだスパイの工作により、港を塞ぐ防潜網は海中へと無惨に下ろされてしまっている。
そこに、エンジンを切り、上げ潮の潮流に乗って無音で滑り込んでくる影があった。
「……聞こえるか」
少将の問いに、チェスタートンが血塗れの顔を上げた。
「スクリュー音……いや、ただのエンジン音じゃありません。小型で、異常に速い」
「ドイツの高速魚雷艇だ」少将は口髭を撫でる手を止め、拳を握りしめた。「おそらく、商船かトロール船に偽装してイギリス海峡に接近し、霧に乗じて分離したのだろう。水上強襲だ」
秋月は、ヴァンスの傷口を押さえながら少将を見た。
「迎撃は間に合わないのですか!」
「戦艦がボイラーを炊き、動力を得るには何時間もかかる」少将は呻くように言った。「港内の駆逐艦も、機関を止めている。砲を向ける前に、魚雷を撃ち込まれるのが先だ。やつら、大型艦の痛いところを突いてきやがる」
濃霧の向こう、数百ヤード先。港の奥にある第一乾ドックには、艤装中の戦艦が、水を抜かれたまま鎮座している。狙いは艦そのものではない。ドックを塞ぐケーソン――あの鋼鉄の扉さえ破れば、逆流した海水がドックを満たし、艦もろとも数ヶ月は使い物にならなくなる。
もしあの扉が魚雷で破られれば、戦時下の英国海軍にとって致命的な打撃となる。
それを狙っての、狂気とも言える小規模での水上強襲だった。
キィィィィン……。
霧の奥から、ついに金属音が響き始めた。
魚雷艇が、発射態勢に入るためにエンジンを再始動し、急速に速度を上げる音だった。
「少将!」
誰もが絶望しかけたその時、ヘイスティングス少将の目が、鋭く光った。
「伝令! 港内に待機しているすべての
少将の声が、甲板の端から端まで響き渡った。
「直ちにヴィクトリー号の係留索を切り離せ、抜錨だ! 全馬力で、本艦を牽引せよ!」
「もう一人、走れ!」少将は続けた。「手空きの小型船という小型船を、全て港口へ回せと。電話が使えぬなら、艇を漕いでなりと伝えて来い!」
二人目の伝令が、転がるようにタラップを駆け下りていった。
「……本艦を、牽引?」
最初の伝令の水兵が、耳を疑ったように聞き返した。
ヴィクトリー号は、十八世紀に建造された木造の戦列艦である。大砲こそ降ろされているものの、三層の甲板が積み重なるその高さは、水面すれすれを進む小型艇からは、現代の戦艦にも劣らぬほど見上げるようだった。
しかも、自走するための機関は一切持っていない。
「そうだ! 第一ドックへの射線上に、この船を割り込ませろ!」
少将の意図を理解したチェスタートンが、息を呑んだ。
「まさか……この艦を、魚雷の盾にするおつもりですか!」
「他にあるか!」少将は吠えた。「掃海と港湾の取り回しにおいて、私の右に出る者はこの港にはおらん! あの荒くれ者のタグボート乗りたちなら、私の命令一つで、この老婆を思い通りに躍らせてみせる!」
少将の怒号を受け、伝令が走り出した。
数分後、霧の中から、ガタガタ、ドッドッドッという重々しい往復蒸気機関のピストン音が響き始めた。ポーツマス港の働き蜂である、強大な馬力を持った複数の外車・内車式タグボートだった。
彼らは太いワイヤーをヴィクトリー号の舳先と舷側に引っかけ、黒煙を猛烈に吹き上げながらスクリューを回した。
ギギッ……メキメキメキッ!
百年間、この港に係留されていた老兵が、不満を漏らすような凄まじい軋み音を立てて動き始めた。
「HMSヴィクトリー、
ヘイスティングス少将が、甲板の最前列でメガホンを構える。
少将は目を閉じた。濃霧で視界は数十ヤードもない。頼れるのは、潮の満ち引きによる海流の圧力と、霧の向こうから近づいてくる甲高い敵艇の推進音だけだった。だが、彼にとってポーツマス港は、目をつぶっていても歩ける己の庭だ。敵の針路と速度が、彼の脳内の海図に恐ろしいほどの精度で描き出されていく。
「前衛タグ、
厳格な操船号令が霧を裂く。
ガタガタとピストンが響き、太い
「艦首振るぞ!
「
少将は音の推移を捉え、メガホンの向きを変えた。敵が、ドックへの最終射線に入ろうとしている。
「右舷タグ、
霧の向こうから、推進音を限界まで上げたドイツ高速魚雷艇の姿が、ぬらりと浮かび上がった。彼らの狙いは一直線に、奥の乾ドックへ向かっている。
艇上のドイツ兵が、信じられないものを見るように目を剥いた。
彼らの放つ魚雷の射線の真ん中に、蒸気タグボートに無理やり引かれた「三層の甲板を持つ巨大な木の城」が、横滑りするようにスライドして迫ってきたからだ。
「衝撃に備ええッ!」
少将が叫んだ。
秋月はヴァンスの上に覆いかぶさり、頭を抱えた。
金属のペラ音を立てて水を切るドイツの四十五センチ魚雷が、十八世紀の分厚いイングリッシュ・オークの船体に向かって、一直線に吸い込まれていった。
水面下を疾走する魚雷が、ヴィクトリー号の舷側中央部に突き刺さった。
――一瞬の静寂――刹那、約百五十キロのTNT火薬が炸裂した。
爆音とともに、凄まじい水柱がポーツマスの海霧を突き破って天へ吹き上がった。
衝撃波が空気を叩き、甲板の上の人間を容赦なく弾き飛ばす。秋月は気を失ったヴァンス男爵の上に覆いかぶさり、チェスタートンと共に甲板の木材に爪を立てた。
もしこれが、近代の薄い鋼板でできた駆逐艦であったなら、衝撃波がフレーム全体を伝わり、溶接部やリベットを一気に引き裂いて、船体は真っ二つに折れて轟沈していただろう。
だが、相手は一世紀以上も前に作られた「木造」の戦列艦だった。
魚雷が命中した水線下には、直径数メートルの巨大な大穴が開いた。しかし、厚さ六十センチメートルにも達する強固なイングリッシュ・オークの二重構造は、現代の鋼鉄とは全く異なる物理挙動を示した。
木材特有の高い弾性と粘りが爆圧を吸収し、衝撃の「逃げ」を作ったのだ。何百本ものオークの破片が、獣の牙のように港内に飛び散った。
バキィィィィン……ギギギギギギギギギッ!
何十本もの巨木が同時に引き裂かれ、悲鳴を上げるような凄まじい軋み音が港内に響き渡る。
「くそっ!」
チェスタートンが、降り注ぐ木片からヴァンスの頭を庇いながらうめいた。秋月の肩にも、鋭い木っ端が突き刺さって制服を裂いた。まだ動く。筋肉までは達していない。
爆発の直後、海面からツンとする黄色い煙――TNTの硝煙が立ち上ってきた。それはすぐに、ヴィクトリー号の船底に百五十年間染み込んでいた、乾いたオーク材とタール、そして古い真鍮の匂いと混ざり合い、異様な香気となって霧の中に溶けていった。
「沈むぞ! 退避しろ!」
水兵の一人が叫んだ。ヴィクトリー号は凄まじい勢いで海水を飲み込み、右舷へ大きく傾斜し始めていた。
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