海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「慌てるな!」
ヘイスティングス少将の怒号が、混乱する甲板を制圧した。彼は傾く甲板の上で、太いロープを掴んだまま微動だにしていなかった。
「この艦は木でできている! 鉄のようには沈まん! それに......」少将は一息ついた「こいつを沈ませたら
自爆の原因となる実戦用の黒色火薬は、とうの昔に弾薬庫から降ろされている。そして木材そのものが水に浮く物質である以上、どれほど浸水しようとも、自重で一気に海底へ引きずり込まれることはない。
ヴィクトリー号は、満身創痍で軋みながらも、その巨大な三層の船体を海面にとどめていた。
ドイツの高速魚雷艇の上では、艇長が信じられないものを見るように双眼鏡を下ろしていた。
彼らの切り札であった魚雷は、旧世紀の骨董品に巨大な風穴を開けただけで、目標であった奥の最新鋭戦艦には届かなかった。それどころか、傾きながらも沈まないヴィクトリー号の巨体が、第一ドックへと続く水路を完全に塞ぐ「閉塞船」となって立ちはだかっていた。
「Zurück!――(後退しろ!)港外へ脱出する!」
ドイツ艇長がドイツ語で絶叫した。奇襲は失敗した。このまま港の奥に留まれば、蒸気を上げ始めた英国駆逐艦の餌食になる。
しかし、振り向いた艇長の目に映ったのは、さらに絶望的な光景だった。
海霧が、潮風に乗ってわずかに晴れ始めていた。
狭いポーツマス港の出入り口には、いつの間にか、黒煙を吹き上げる何隻もの蒸気タグボートや武装トロール船が、密集して壁を作っていた。
ヘイスティングス少将が、ヴィクトリー号を盾として動かしたあの数分の間に、手空きのあらゆる小型船を呼び寄せ、退路を断っていたのだ。
掃海と港湾の取り回しのプロフェッショナルである少将にとって、この狭い港内は、まさに彼自身の「庭」であった。
「さて」
傾斜した甲板の上で、ヘイスティングス少将が軍帽を被り直した。
「無礼な乱入者どもに、この大英帝国海軍の誇る旗艦から、丁重な挨拶をしてやろうではないか」
少将の背後、霧の上まで突き出たヴィクトリー号の最も高いマストにするすると、鮮やかな信号旗が掲げられていく。
『――英国ハ各員己ガ義務ヲ尽クスコトヲ期待スル』
それは、かつてトラファルガーの海戦でネルソン提督が掲げたのと同じ、英国艦隊に戦闘開始を告げる不朽の暗号旗だった。
「全門、開け!」
ヘイスティングス少将の号令が、傾いたヴィクトリー号の甲板に轟いた。
だが、その命令に応えて火を噴いたのは、百年前の前装式黒色火薬砲ではない。
舷側に開いた無数の砲門から、あるいは高い甲板の手すり越しから突き出されたのは、海兵隊員たちが構えるリー・エンフィールド小銃と、据え付けられたルイス軽機関銃の銃身だった。
「撃てッ!」
鋭い号令とともに、乾いた銃声が連続して空気を叩いた。
三層の甲板を持つヴィクトリー号の高さは、水面を這うように進むドイツの小型魚雷艇にとって、まさに難攻不落の要塞、「見下ろす壁」であった。
ルイス機関銃の薬莢が滝のように甲板に降り注ぎ、曳光弾が霧を切り裂いてドイツ艇の薄い外板を次々と貫いていく。
「……恐ろしいものだな」
チェスタートンが、手すりに寄りかかりながらリボルバーの撃鉄を起こした。
「潜水艦ならいざ知らず、あんな木と薄い鉄板でできた高速艇では、上からの制圧射撃にはひとたまりもない」
彼は冷静に狙いを定め、炎上し始めた敵艇の操舵手を撃ち抜いた。
秋月もまた、海兵隊から借り受けたライフルを構え、銃床を肩に押し当てていた。
「潮の満ち引きを利用した無音航行。それに加え、この濃霧と、内通者による防潜網の物理的無効化……」
秋月は引き金を弾きながら、敵の作戦の恐るべき緻密さに舌を巻いていた。
「スピットヘッドの哨戒網をどう抜けたのか疑問だったが、あの平べったい艇体なら、
「海軍上層部が聞いたら、よくできた言い訳だと感心するだろうさ」
チェスタートンが皮肉げに口角を上げた。
「だが、あいつらは一つだけ計算を間違えた。この港に、引退したはずの『木の怪物』がまだ浮いていることを、誰も教えていなかったことだ」
眼下では、先頭のドイツ魚雷艇が燃料タンクに被弾し、爆発炎上していた。
退路を塞いでいたタグボートやトロール船からも、単装機関砲や小銃による一斉射撃が加えられ、湾内は一方的な殲滅戦の様相を呈していた。
さらに、霧の上で翻るヴィクトリー号の信号旗を目印に、港の奥から蒸気を上げ終えた英国の駆逐艦部隊が、怒涛の勢いで押し寄せてきている。
沖合――ソレント海峡の外側で、この強襲作戦の戦果を待ち構えていたであろうドイツの指揮官船も、この激しい銃砲撃の音と、出撃してくる英国駆逐艦のスクリュー音を聞きつけ、たまらず海中深くへと潜航し、撤退していった。
戦闘は、三十分と保たずに終わった。
ポーツマス港内に侵入したドイツの高速魚雷艇は三隻。うち二隻が炎上して沈没、一隻が拿捕された。
ヴィクトリー号の甲板では、硝煙とタールの匂いが充満する中、兵士たちの間から自然と歓声が沸き起こっていた。彼らは傷つき傾いたこの古い旗艦を誇らしげに撫で、あるいは甲板に座り込んで安堵の息をついている。
「……終わったな」
チェスタートンが、熱を持ったリボルバーをホルスターに収めた。
秋月もライフルを下ろし、傍らで横たわるヴァンス男爵の元へ駆け寄った。
*
そこにはすでに、急行した軍医が膝をついていた。
軍医がハサミで上着を切り裂き、血に染まった白いシャツを開いた瞬間、内ポケットから何かが甲板へ滑り落ちた。銀色の懐中時計だった。傷口は、おそらく心臓に近い。
「手伝ってください!」
軍医の声に、秋月は反射的に両手を重ねた。指先が震えていることに、自分で気づいた。だが手は止めなかった。
「まだ止まらんのか、血は!」
チェスタートンが、怒号に似た声を上げる。
「心臓近くの動脈はそれています」軍医が押し殺した声で言った。「ですが、支線の動脈が切れている。鎖骨の下では止血帯が巻けない!」
「――貸せ」
秋月は傷口を押さえる手はそのままに、もう片方の指先を鎖骨の上のくぼみへと滑り込ませた。鎖骨の上から動脈の根元を骨に押しつけて、流れそのものを断つ。
「おい、なに変なことやってるんだ!」
チェスタートンが叫んだ。
「いいえ、これでいいんです」軍医が短く言った。「鎖骨下の動脈を、根元で骨に押し付けている。止血帯が巻けない場所では、これしかありません。そのまま押さえていてください」
「……お前、よく知ってるな」
チェスタートンが息を呑んだ。
「
やがて、血の染み込む速さがわずかに落ち着いてきた。秋月は気づけば奥歯を噛みしめていた。口の中が渇いていることに、場違いにも思い当たった。
「腕は」秋月は訊いた。
「……分かりません」軍医が首を振った。「神経の際どい場所を弾がかすめています。命を拾っても、左腕が元に戻る保証はありません」
秋月は自分の脈を数えるように、ヴァンスの手首に指を当てた。弱い。だが、脈はある。
ふと視線を落とし、先ほど甲板に落ちた懐中時計を拾い上げた。
倒れた時に打ちつけたのだろう。ガラスに一筋のヒビが入り、針は九時十七分で止まっていた。
秋月は蓋を閉じ、自分の懐に収めた。この針が再び動き出す時まで、自分が預かっておくということだ。
「男爵、峠は越えます。越えさせます」
誰に向けた言葉か、秋月自身にも判然としなかった。
*
簡易的な手洗いの水道の脇に、チェスタートンが湯気の立つカップを二つ、無言で置いた。渋い紅茶だった。
秋月は指にこびりついた血を洗い終えると、その一つを受け取った。
「ありがとう。血の気が引いて、指が冷えきっていた」
「気休めだ」チェスタートンはぼそりと言い、隣の木箱に腰を下ろした。「この時期はもっと熱々の紅茶が本来必要だが、今日はこれで我慢しろ」
チェスタートンは懐からビスケットの包みを一つ、無造作に押しつけた。
「秋月、メシは食ってるか。何でも良いから胃に入れておけ。甲板で行き倒れられても困る」
秋月は何も言わず、それを頬張った。乾いたビスケットが、やけに甘く感じた。
(――平静を装う、では足りなかったらしい)
自分でそう思って、少しだけおかしくなった。
ヘイスティングス少将が、二人の元へゆっくりと歩いてきた。
彼の軍服も、木片の破片で所々破れ、煤で汚れていた。だがその表情には、港湾を守り抜いた指揮官としての確かな誇りが宿っていた。
「ミスター・ケイ。それにチェスタートン君」
少将は、担架に乗せられようとしているヴァンス男爵を見下ろした。
「男爵の命、そしてこの軍港の命を繋いだのは、君たちの奮闘あってこそだ。大英帝国海軍を代表し、礼を言う」
「我々は、ただ目の前の男を守っただけです」
秋月が静かに答えた。
「この港を守ったのは、少将の采配と、この老練な船の力です」
秋月は、懐に収めた銀の懐中時計に触れた。
ヒビの入ったガラス。九時十七分で止まったままの針。
この針が再び動き出す時まで、自分はここに立っている。
その誓い通り、海峡の霧が少しずつ晴れゆく中、秋月たちは担架と共に、歴史の生き証人である巨大な戦列艦の甲板を後にした。
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