ウイングは、ゴンとキルアに一枚ずつチケットを渡した。
「今日は、試合に出るのではなく観るだけです」
ゴンはチケットを受け取って、すぐに目を輝かせる。
「二百階の試合?」
「はい。念能力者同士の戦いです」
「見たい!」
隣でキルアがチケットを指で弾いた。
「見るだけで強くなれるの?」
「見るだけで強くはなれません」
ウイングは穏やかに答えた。
「ですが、知らないまま戦うよりはいい。二百階から上では、相手の能力を見てから考えていては遅いこともあります」
ゴンは首をかしげる。
「能力を見てからじゃ遅い?」
「ええ。発を使うには、たいてい何かしらの準備があります。オーラの流れ、間合い、視線、呼吸、体の向き。そういったものです」
キルアは黙って聞いていた。
「今日の試合に、それが分かりやすい方が出ます」
「分かりやすい?」
ゴンが聞くと、ウイングは少しだけ苦笑した。
「正確には、分かりやすく勝つ方です。ただし、見えるかどうかは別ですが」
キルアが眉を上げる。
「強いの?」
「強いですよ」
ウイングはそれ以上、詳しく言わなかった。
⸻
二百階の観客席は、下層とは空気が違っていた。
歓声は大きい。
だが、その中に混じる熱は、単なる娯楽のものではない。
ゴンは身を乗り出してリングを見つめていた。
「次の試合、もう始まるかな」
「さあな」
キルアはパンフレットを眺めていたが、視線はすぐに会場の方へ戻っていた。
周囲の客も、下の階とは違う。大声で騒ぐ者はいても、目だけは妙に鋭い者が混ざっている。
「ねえ、キルア」
「何?」
「ウイングさんが言ってた人って、次の試合に出るのかな」
「たぶんね」
キルアはパンフレットの出場者欄を見る。
そこには、二人の名前が載っていた。
ガレフ。
リオル。
「リオルって人かな」
ゴンが名前を覗き込む。
「知ってる?」
「知らねーよ」
近くに座っていた観客が、二人の会話を聞いて笑った。
「リオルを見るのは初めてか?」
ゴンは素直にうなずく。
「うん。強いの?」
「強いかどうかは知らねえ。まともに戦ってるところを見た奴が少ないからな」
「どういうこと?」
「すぐ終わるんだよ。前の試合も、その前も。派手な技も出さねえし、何したのかよく分かんねえ」
キルアが少しだけ反応した。
「念能力は?」
「さあな。スーツで出てきて、相手が何かする前に終わる。変な奴だよ」
ゴンはますます興味を持ったようだった。
「見たい!」
キルアはパンフレットを閉じる。
「ちょうど始まるみたいだぜ」
場内にアナウンスが響いた。
『続いての試合です! 西側入場口より、ガレフ選手!』
先に姿を見せたのは、体格のいい男だった。
肩幅が広く、腕には包帯のようなものを巻いている。
歩き方からして、自分の力を隠す気がない。
観客の一部が歓声を上げた。
キルアは男を一瞥する。
「結構やるんじゃね」
「分かるの?」
「なんとなくね」
その直後、反対側の入場口に照明が当たった。
『対するは、リオル選手!』
現れたのは、黒髪の青年だった。
黒に近い濃紺のスーツ。
白いシャツ。
手には革手袋。
闘技場に立つ選手というより、どこかの会合に向かう途中で道を間違えたような格好だった。
ゴンは瞬きをする。
「スーツだ」
キルアは黙って見ていた。
リオルは派手に手を振るでもなく、観客を煽るでもなく、リングの中央まで歩いて軽く頭を下げた。
それだけだった。
キルアが小さく言う。
「……あいつ」
「何?」
「隙がない」
ゴンはもう一度リングを見る。
リオルは静かに立っていた。
細身で、相手の男と比べれば明らかに線が細い。
けれど、不思議と弱そうには見えなかった。
ガレフがリオルを見て笑う。
「おいおい、スーツで来る場所じゃねえだろ」
リオルは少しだけ困ったように笑った。
「すみません。着替える時間がなくて」
「舐めてんのか?」
「いえ」
リオルは革手袋の指先を軽く直す。
「よろしくお願いします」
開始の合図が鳴った。
ガレフの右腕に、オーラが集まった。
何かを撃つのか、殴るのか。
ゴンには、そこまでは分からない。
だが、リオルは待たなかった。
発が形になる前に、間合いの内側へ入る。
掌底が顎を打ち、膝裏を払う。
崩れた体勢の首筋に、指先が軽く触れた。
ガレフの目から力が抜ける。
巨体が、音を立ててリングに沈んだ。
一拍遅れて、会場がどよめく。
『し、試合終了! 勝者、リオル選手!』
ゴンは思わず立ち上がった。
「すごい!」
キルアは目を細める。
「速いだけじゃない。能力を出される前に潰した」
「見えた?」
「少しだけ。でも、あの距離をほとんど予備動作なしで詰めてた」
リング上で、リオルは倒れた相手を見下ろしていた。
勝ち誇る様子はない。
審判に何かを確認されると、彼は軽くうなずき、そのままリングを降りた。
⸻
試合後の通路で、ゴンはリオルを見つけるとすぐに走り寄った。
「リオルさん!」
リオルは足を止める。
ゴンとキルアを見て、柔らかく笑った。
「さっき観客席にいた子たちだね」
「うん! さっきの試合、すごかった!」
「ありがとう」
ゴンは興奮したまま尋ねる。
「どうやったの?」
リオルは少し考えてから答えた。
「相手の能力が出る前に、近づいたんだ」
キルアが半眼になる。
「それが簡単にできたら苦労しないって」
リオルは苦笑する。
「たしかに。簡単ではないね」
ゴンは目を輝かせる。
「俺にもできる?」
「できると思うよ。ただ、今はウイングさんの言うことを聞いた方がいい」
キルアの表情が変わる。
「なんでウイングのこと知ってんの?」
「さっき少し話した。君たちのことも、その時に聞いたんだ」
「ふーん」
キルアはまだ警戒を解いていない。
リオルはそれに気づいているようだったが、気にした様子はなかった。
「ゴンくんと、キルアくん。だったね」
ゴンはうなずく。
「うん!」
キルアは少しだけ顔をしかめる。
「くん付けかよ」
「嫌だった?」
「別に」
リオルは小さく笑った。
その時、通路の奥からウイングが歩いてきた。
「リオルさん」
リオルが振り返る。
「お久しぶりです。ウイングさん」
ゴンが驚く。
「本当に知り合いなんだ」
ウイングは穏やかにうなずいた。
「ええ。私の師匠に縁のある方です」
キルアが首をかしげる。
「師匠?」
リオルは少し苦笑した。
「俺も昔、少し世話になった人がいてね。かなり厳しい人だった」
ウイングが言う。
「今もお元気ですよ」
リオルの表情が、ほんのわずかに固まる。
「……それは、少し怖いですね」
ゴンは不思議そうにリオルとウイングを見比べた。
「そんなに怖い人なの?」
ウイングはにこやかに答える。
「とても立派な方です」
リオルは否定しなかった。
ただ、少しだけ遠い目をした。
「立派ではありますね」
キルアは小声でゴンに言う。
「絶対怖いタイプだろ、それ」
⸻
ウイングと別れたあと、リオルは一人で通路を歩いていた。
試合後の熱気はまだ会場に残っている。
歓声も、足音も、遠くで響いていた。
曲がり角の先に、人影があった。
壁にもたれたヒソカが、こちらを見ていた。
「君、いいね♢」
リオルは足を止めた。
「……どうも」
「今度、遊ぼうよ」
「遠慮しておきます」
ヒソカは愉快そうに目を細める。
「つれないなあ♡」
リオルは軽く会釈だけして、そのまま歩き出した。
近づかない方がいい。
そう判断するのに、時間は要らなかった。
ヒソカはその背中を見送りながら、楽しそうに笑っていた。
⸻
その夜。
リオルは天空闘技場の外れにあるホテルの一室で、革手袋を外していた。
机の上には、いくつかの資料が置かれている。
闘技場の選手名簿。
スポンサーの一覧。
上層階に出入りする関係者の記録。
そして、顔写真のない一枚の書類。
そこには、ある男の名前だけが記されていた。
リオルはその名前に、赤い線を引く。
通信機が短く鳴った。
『探していた男ですが、ヨークシンに向かうようです』
リオルは窓の外を見る。
「分かりました。こちらも向かいます」
『例の品も、動く可能性があります』
リオルはしばらく黙った。
机の上に置いた革手袋に、視線を落とす。
「……確認でき次第、回収します」
通信が切れる。
リオルは書類を閉じた。
部屋の照明が、窓ガラスに彼の横顔を薄く映している。
その表情は、通路でゴンたちに向けたものとは違っていた。
やがて、リオルは低くつぶやく。
「今度こそ、取り戻す」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。