「……これは墓だな」
老人は図面を見たまま言った。
エルネスト・メックリンガー。
退役後も寸分の乱れない装いのまま、彼は端末越しにフェリックスと向き合っていた。
フェリックスは画面を閉じる。
「感想としては刺激的ですね」
「構成は見事だ。軸線は澄み、比率は正確で、視線の逃がし方にも無駄がない」
「ありがとうございます」
「だからこそ、墓なのだ」
メックリンガーは図面の一点を示した。
「ここを歩く者は皆、正しく歩くだろう。迷いもせず、滞りもせず、美しく通過する。だが、立ち止まらぬ。道草も食わぬ。待ち合わせもせぬ。喧嘩して背を向ける場所も、仲直りする陰もない」
フェリックスは表情を変えなかった。
「公共空間に必要なのは秩序です」
「秩序だけで人は暮らせん」
老人の声は低く、静かだった。
「君は人間を、まるで水のように流している。だが人はこぼれる。寄り道もする。泣きもする」
メックリンガーはふと目を細め、穏やかに言った。
「昔、私は君に言ったな。庭園は芸術に似ていると」
「ええ」
「訂正しよう。芸術は完成してよい。だが公園は、完成してはならん」
フェリックスが初めて老人を見た。
「……意味がわかりません」
「人が使って壊し、季節が崩し、子どもが踏み荒らし、恋人が名を刻み、老人が毎朝同じ椅子に座る。そうして初めて場所になる」
老人は図面を閉じ、静かに返した。
「君のこれは、美しく強固で、誰にも傷つけられぬよう設計されている。余白がない」
「感傷的ですね」
「そのとおり。その感傷が必要なのだ。君の作品は近ごろ、死者には優しいが生者に冷たい」
メックリンガーは、まっすぐ彼を見た。
「まるで生きている者を信じていないようだ」
フェリックスの指先が、机上で止まった。図面に触れる指先が震える。
慰霊施設の位置。記念樹列。静謐の広場。追悼の回廊。そこには確かに、死者への配慮が満ちていた。
老人は最後に、ごく静かに言った。
「君は何を失ってから、こんなにも整ったものばかり作るようになった」
フェリックスは答えなかった。
ただ、端末の画面を閉じ、立ち上がった。
「ご忠告、感謝します。ですが、私は私の方法でやります。——失礼します」
ドアを閉める音が、いつもより少し強く響いた。
フェリックス・ミッターマイヤーが芸術家提督と対峙していたのと同じ頃。
皇太后宮殿では二人の女性がティータイムを過ごしていた。
外気はまだ冷たかったが、透明な天蓋の下には柔らかな湿度と花の匂いが満ちている。白磁の茶器から立つ湯気が、午後の光に淡くほどけていた。
摂政皇太后ヒルダ・フォン・マリーンドルフは、ティーカップを置き、向かいの若い女性を見た。
ゾフィー・フォン・フォイエルバッハ。帝国学術院所属、化学技官。帝国初の正式な女性化学者として知られている。
もっとも、とヒルダは内心で思う。「正式」という言葉ほど便利な飾りもない。
実力は本物だ。論文も、研究も、現場判断も優れている。だがその門を最初に開けるため、彼女が母から譲り受けた姓と縁故が役立たなかったとは、誰も言うまい。能力だけで世は変わらない。能力を通す通路もまた必要なのだ。
それを本人もよく知っている顔をしていた。
「ハイネセンの土壌試料は届いたのですか」
ヒルダが問うと、ゾフィーは視線を伏せ、一拍置いてからうなずいた。
「はい。分析中ですが……ひどいものです。三十年放置され、熱を帯びたまま壊死した傷口ですね」
「治りますか」
その問いに、ゾフィーは即答しなかった。窓外の、管理された庭園に目を向け、静かにかぶりを振った。
「治るという言葉が、元の健やかな大地に戻るという意味なら、私の代では不可能です」
「不可能……ですか」
「できるのは、封じ込めるための処置です。そのための最適解を導き出します。それが私の仕事ですから」
ヒルダの微笑みは、先ほどよりも深い信頼の色を帯びていた。
「あなたのそういう誠実なところ、好きよ」
「光栄です、皇太后陛下。私には偽りの気休めを申し上げることはできません」
「そこはお父様にそっくりね」
ゾフィーは少しだけ肩をすくめた。父親の名が出るとき、彼女はいつも微妙に困った顔をする。古い家名を与えた貴族の母と違って、父親からの恩恵はもはや重荷なのだろう。
ミッターマイヤー家のフェリックスと結婚したとき、彼女の公的な名前をめぐって一悶着も二悶着もあったことをヒルダは知っている。彼女は変わらないのに、どう名乗るかは時として大問題なのだ。
しばらく花を眺めてから、ヒルダは何気なく言った。
「アレクとフェリックス、うまくやっているかしら」
ゾフィーの手が、カップの持ち手で止まった。
「……その問いに、どの意味でお答えすればよろしいのでしょう」
「政治的にも、人間的にも」
「では、どちらも芳しくありません」
ヒルダは声を立てて笑った。
「率直ね」
「事実です」
ゾフィーはため息をついた。
「皇帝陛下は夫を面白がっておられます」
「ええ」
「否定なさらないのですね」
「本当だもの」
ヒルダは茶をひと口含んだ。
「アレクは、ずっと昔からフェリックスが大好きですからね。放してみては捕まえて、捕まえてみては放して」
「困ったご趣味です」
「血筋かしら」
ラインハルトの名は出さなかったが、ゾフィーは思わず吹き出した。すぐ口元を押さえたが、遅かった。
「失礼いたしました」
「いいえ、正しい反応よ」
「……夫は、もっと単純に陛下に必要とされたいだけですけど」
「まあ」
「夫がよく言ってます。皇帝陛下は人の心を見透かし、自分の目的のために他人を最適配置する。しかもそれを善意でやっている顔をする、と」
ヒルダは目を細めた。
「フェリックスも相変わらずだこと」
「ええ。たいへん」
その返答に、夫婦の情がにじんでいた。
ゾフィーは視線を上げた。
「皇帝陛下と夫は似たもの同士だと思います」
「そう。あの二人は似ているのよ。素直になれないだけで」
女二人でくすくすと笑いあってから、ヒルダはカップを置き、静かに話題を改めた。
「ところで、ハイネセンの土壌の件だけれど……やはり厄介なのね」
ゾフィーは表情を引き締め、うなずいた。
「ええ。焼却残渣に由来するダイオキシン類、重金属濃度ともに基準値を大きく超えています。それに消火剤。火事で焼けた刑務所跡地と伺いましたが、なるほどとしか申し上げようがありません。科学的解決をしていけるとしても、植栽は制約が多いでしょう。薔薇は咲きそうですが」
ヒルダは静かに微笑んだ。だが、その眼差しは冷えていた。
「政治的には、なお始末が悪いわ」
「政治的に、ですか」
「ええ。予算にも時間にも限りがある。大規模に土壌を入れ替えれば、過去を覆い隠すつもりかと疑われるでしょう。かといって表層だけ整えれば、傷跡に薄化粧を施したと嗤われる。フェリックスには悪いけれど、どちらにしても非難されるのよ」
ゾフィーは少し考え、淡々と答えた。
「微生物分解という手段もありますが、成果を見るまでおそらく数十年です。今回に限って申せば、化学より財政の領分でしょう。どうかご尽力を」
ヒルダは目を細め、興味深そうにゾフィーを見つめた。
「面白いわね。あなたは化学の限界も、政治の限界もよく知っている」
「長く見ておりますので」
「そう。完全な解決など、初めからこの世には少ない。フェリックスがそれを学んでくれているとよいのだけれど」
ゾフィーは小さくうなずき、それから静かに言った。
「陛下にお伝えください」
「何を」
「夫を壊れるまでお使いになるなら、私も黙ってはおりませんと」
ヒルダは目を丸くし、それから愉快そうに笑った。
「頼もしいこと」
「科学者ですので」
「それ、便利な肩書きだと思っていない?」
「かなり」
微笑んで、ヒルダは立ち上がった。
「公園が完成したら、最初に歩くのは誰かしらね」
ゾフィーも立ち上がる。
「子どもたちです」
「その次は」
「たぶん、陛下と夫です」
「喧嘩しながら」
「ええ。きっと」
ヒルダはうなずいた。それが見たい、と心から思った。
pixivから転載