工事が何度も中断する中、フェリックスの端末に、皇帝執務室からの通知が届いた。追加予算の承認。
フェリックスは画面を見つめた。それは単なる数字の羅列ではなかった。
「ミッターマイヤー主任」
呼ばれてフェリックスは顔を上げた。第三工区の現場主任が、作業再開を告げに来ていた。
「追加予算が通った」
思わず言ってしまう。現場主任は驚いた顔をした。
「深層土壌置換用の特殊機材を優先投入する。できるだけ深く、地層ごと入れ替える」
顔を輝かせてそう話すフェリックスに、現場主任は長い息を吐いた。
「……あんた、噂どおり皇帝のお気に入りなんだな。そんでもって、お育ちがいい」
「どういう意味だ?」
「予算をもぎ取るのもすげえし、それを懐に入れないからさ」
フェリックスは眉を顰めた。
「……そんなことをしたいなら、ここには来ないが」
現場主任は、フェリックスをまっすぐに見つめた。
「俺はここをどうにかしたいと思ってたから、あんたに従ってる。我らが自治政府が三十年、手をこまねいていたことをやるってことだからな」
フェリックスは静かに頷いた。現場主任は、低く、しかしはっきりと言った。
「だから、死者のためじゃなく、生きてる俺たちのために、“息ができる場所”を作ってくれ」
その言葉は、どんな批評よりも深く、フェリックスの胸に刺さった。
追加予算がついたことで、土壌の入れ替えは滞りなく進んでいた。
「新しい土が入ってから、臭いが変わったな」
作業員たちがそう言い合うとおり、風が吹くたび、柔らかく湿った土の匂いが流れてくる。
この区画も、やがて正しい土に覆われるのだ。
第三工区の入り口に立って、フェリックスは静かに息を吐いた。
アレクが政治的な代償を払って確保した土――その思惑が何であれ、効果は確かだった。
そのとき、背後で靴音がした。
振り返ると、薄いコートを羽織った女が立っていた。
場違いなほど整った装い。だが足元だけは、すでに土で汚れている。
「早朝から感傷的ね、設計主任」
ゾフィー・フォン・フォイエルバッハだった。
フェリックスは立ち上がり、手袋をはめ直した。
「ハイネセンまで、君が来るとは」
「化学者としてのお仕事よ。市民向け土壌安全説明会。『帝国にも女性科学者はおります』という展示物も兼ねてね」
ゾフィーは歩み寄り、
「土壌サンプルの分析結果を持ってきてあげたわ。……あなたが取りに来ないから」
フェリックスは視線を逸らした。
「忙しい。分析結果なら、データで送れと言ったはずだ。もう土の入れ替えは進行している」
「あなたが忙しさを盾にして、何から逃げているかは、わかっているけどね」
ゾフィーは端末を差し出した。
そこには、焼けた有機物と化学消火剤が結晶化した“記憶の化石”のような土壌データが並んでいる。
「この土地、面白いわよ。三十年分の沈黙が結晶化してる。でもね、フェリックス。化学的に言えば、ここはまだ『死んで』はいない。反応が続いているということは、まだ系が動いている」
彼女は、観察対象を見るような静かな眼差しで夫を見上げた。
フェリックスは口を歪めるだけで、何も返さない。
「どんなに中和剤を撒いても、新しい土を入れても、根は深くまで伸びて、底にある灰に触れる」
「……そんなことは私が一番わかっている」
フェリックスは低く言った。
「美しく花が咲けば、後世はその過程を問わず“再生”と分類する。……私は、その認識を成立させるためにここにいる」
ゾフィーは短く息を吐いた。
「嫌な男ね」
「陛下にも言われた」
「……あなたって、ほんと皇帝陛下が好きよね」
ゾフィーは立ち上がると、夫の肩を軽く叩いた。
「あなたがやろうとしていること、今の状況では現実的な解なんだと思うわ」
フェリックスは答えない。
空色の瞳は、妻のほうを見ようとしなかった。
「でもね。それで、“ここに来る人”が救われるかどうかは、別の話よ」
しばらく、沈黙が続いた。
「……救うところまでは、僕の範囲じゃない。機能する空間を作る。それが仕事だ」
ゾフィーは一瞬だけまばたきを忘れた。彼女は何か言いかけようとし、結局、口を閉ざした。
ゾフィーが去ると、フェリックスは再び一人になった。
「……面白くなんかないよ、ゾフィー」
独り言というより、助けを求め損ねた声に近かった。
フェリックスは、新しい土を強く握りしめた。
そのゾフィーが開催した「土壌安全説明会」は、地元大学の教授や学生たちにボイコットされ、市民からは「分析データは帝国に都合よく改ざんされている!」と糾弾の声が上がった。
ゾフィーがどれほど科学者として誠実であろうと、市民は彼女を“侵略者の妻”としてしか見なかったのである。
pixivから転載