フェリックス・ミッターマイヤーが、少しおかしい。
最初に気づいたのは現場主任たちだった。
相変わらず毎日現場にやってくる。身なりは整っている。指示は的確。歩幅すら変わらない。
だがそこに、人間の温度がない。
「……そこではない。基準線を取り直せ」
静かな声に、現場を預かる者たちは凍りつく。
「水の流れの角度が違う。計り直せ。設計どおりに施工しろ」
数字は正しい。判断も正しい。
各工区の責任者は困惑しつつ受け入れたが、現場主任たちは顔を見合わせ、声を潜めた。
「設計主任が壊れた」
「皇帝と衝突したんじゃないか」
「計画が中止になる」
根拠のない噂だけが、土埃とともに舞い、沈殿していく。
そんな現場が続く中。
場違いな、帝国仕様の地上車がやってきて、作業員を驚かせた。
降りてきたのはラフな私服のゾフィーだった。
彼女の片腕には一歳の娘、もう片方の手で三歳の息子を引いている。
フェリックスの顔色が変わった。
「……子どもたちまで、どうしてここへ」
ゾフィーは迷わず泥を踏み、夫の隣に立った。
「あなたが家に持ち帰らないから、こちらから届けに来たのよ。忘却と、現実をね」
子どもたちは、巨大な重機や掘り返された土の山に目を輝かせている。
「ファーター!」
息子がフェリックスの脚にしがみついた。
「離れなさい。ここは危ない。……ゾフィー、連れて帰れ」
「嫌よ」
ゾフィーはきっぱりと言った。
「この子たちがね、“ファーターはハイネセンの怪獣と戦ってるの?”って聞くのよ。だから見せに来たの。ハイネセンの怪獣を」
現場に、笑いが漏れた。フェリックスは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む。
「ゾフィー、やめろ」
「やめないわ」
ゾフィーは息子に言った。
「ほら、渡して」
息子は少し照れくさそうに、ポケットから何かを取り出した。
「ファーター、これ……あげる」
差し出されたのは、子ども用の安っぽい絆創膏だった。
黄色い星のマークがついている。
「ころんだとき貼るやつ。いたいの、なおるよ」
フェリックスは固まった。
「……なんだ、これは」
「ファーター、怪獣とたたかってるんでしょ?」
フェリックスは、その小さな黄色い星を見つめた。
「ファーター、勝ったの? 負けたの?」
フェリックスの唇から、乾いた笑いが漏れた。自分が何と戦っていたのか、もうわかっていた。
フェリックスは、ゆっくりと膝をついた。
端整な顔が、子どもの目線と同じ高さになる。その仕草はまるで自分がこれまで拒み続けてきた何かに、ようやく屈したかのようだった。
「……ああ。負けたんだ」
声が、わずかに掠れた。
「完敗した」
息子が嬉しそうに、黄色い星の絆創膏をフェリックスの頬にぺたりと貼り付けた。
現場にいた作業員たちが、思わず息を呑み、それからくすくすと笑い声を漏らした。
フェリックスは目を閉じた。
頬に貼られた黄色い星は、驚くほど温かかった。
ゾフィーは夫の肩に手を置いた。
「いい? フェリックス。あなたはロイエンタールの血を引いているけれど、ミッターマイヤーの家で育ち、私の夫で、この子たちの父親なの」
彼女は周囲の掘り返された土を指差した。
「ここも同じよ。灰は灰のまま。でも、その上に咲く花が人を前へ歩かせるなら、もう墓地とは呼ばれないわ」
「ああ」
フェリックスは口を曲げるようにして頷いた。
余白が無いというメックリンガーの言葉が、苛立たしいほど脳裏に蘇ってくる。
そんな夫をゾフィーは強い目で見据えた。
「公園を、完成させて」
「わかったよ」
フェリックスは立ち上がり、ふと周囲を振り返った。一様に手を止めてニヤニヤと眺めている作業員たちに眉を上げる。秀麗な顔に貼られた絆創膏を見て、妙に気まずそうに視線を逸らした作業員もいた。
三歳の小さな子どもだけが、黙り込んだ父親の機嫌も知らず、その足にしがみついていた。
その夕方、フェリックスは工区責任者だけでなく、現場主任と主な作業員を集めた。
「植栽計画を少しやり直す」
ざわめきが走る。
「……で、設計主任殿」
第三工区の現場主任が、笑うような呆れたような顔で言った。
「その絆創膏、会議中も貼ったままですか」
室内に笑いが漏れる。フェリックスは不思議そうに怜悧な目を上げて、首を傾げた
「とくに支障は無いだろう」
今度は、はっきりと笑いが起きた。
フェリックスは黄色い星を貼ったまま、図面を見下ろした。
完璧な設計だ。構造も工程も、もう変えられない。だが、樹種分布や密度なら、まだ変更可能だ。この庭を、誰のための空間として仕上げるか。
墓として整えるのはやめようと、フェリックスはようやく納得していた。
「北の第五区画に芝生を追加する」
「水場周りの植栽密度は減らす」
「ベンチは見えるように配置していい。木陰を作る樹種に変更する」
現場主任たちは顔を見合わせた。
誰かがぽつりと言う。
「……人が来ますかね、この場所に」
「この薔薇園に、回廊を作る」
フェリックスは、公園の真ん中を指した。
「ここに《プロメテウス》をありったけ植えてやる」
作業員たちは、一様にどよめいた。
やがて苗木の搬入が始まった。
市民たちがフェンス越しにざわついた。
忌避されて目を背けられていた工事現場に、いつの間にか見物人が集まるようになっていた。
とくに人々がざわめいたのは、数万本の《プロメテウス》の苗木の搬入だ。
「あれ、薔薇の花だってさ。帝国らしい趣味だなあ」
「プロメテウスって、火を盗んだ神様の名前じやなかったか? 火災の跡地だっていうのにね」
「黄色い薔薇って、愛の倦怠とか別れとか、そういう花言葉だよな」
この反応は想定内だった。
いや、むしろ穏当な部類かもしれない、とフェリックスは思った。
名は記号だ。
記号は、時に土壌より深く傷を掘る。
しばらく、土を均す音だけが続いた。
やがて、苗木を運んでいた年嵩の作業員の一人が、フェリックスに届くような大声で言った。
「プロメテウスってのは、要は、権力に逆らった男だろう」
周囲が静まった。
「俺は嫌いじゃない。この土地に植えるには、悪くない名前だ。皇帝陛下に敬意を表したいくらいだ」
若い作業員が驚いたように振り返る。
「……あんた、帝国寄りだったか?」
「違うさ。ただ……」
男は空を見上げた。
「火を盗んだかどうかなんてどうでもいい。“与えられた秩序に従わなかった”ってだけで、俺たちには十分意味がある」
フェリックスはその言葉に、初めて視線を上げた。
計画開始から二年近く。
幾度もの遺骨発見による中断と徹底的な土壌の更新を経て、ようやくこの地は形を成そうとしていた。
三十三歳。父の時間が終わった地点まで、あとわずか……
pixivから転載