俺はあの夜のことを、死ぬまで忘れないと思う、と見習い侍従にして友人のエリックが語るのを、アレクは笑い転げながら聞いた。
先日の新年の祝賀パーティーに、エリックがフェリックスと参加したというから、どんな様子だったか聞いただけなのだが。
パーティーは盛況で、シャンパンは美味かった、とエリックは語るーー
バルコニーの夜風は心地よかった。
フェリックスは庭を見ていた。
いつものことだ。こいつはどこへ行っても庭を見る。パーティー会場に来ても庭を見る。社交の場に来ても庭を見る。美女がいても、たぶん庭を見る。
「あの植え込みはいいな」
「……そうだな」
「あの白いモニュメントは余計かも」
「そうだな」
俺はシャンパンを飲んだ。フェリックスとバルコニーに来ると、いつもこうなる。庭の品評会だ。貴族の子女たちが笑い声を立てる豪奢な会場から、なぜ俺たちは庭を採点しているのか。
まあ、いい。これがフェリックスだ。
そこへ、声がした。
「ヘル・ミッターマイヤー、少しよろしいかしら」
俺は振り返って、内心で「おお」と思った。
ゾフィー・フォン・フォイエルバッハ。今年、社交界デビューして話題になった、頭脳明晰で知られる才女だ。アカデミーに入るため、貴族の母の古い家名を名乗っている。
フェリックスが振り返った。
俺はその横顔を見た。
「ほう」とか「おや」とか、そういう反応を期待した。
だが、フェリックスは無表情だった。
そして言った。
「……ここでは話せない。場所を変えよう」
俺はシャンパンを噴き出した。
待て。待て待て待て。
「ここでは話せない」?
「場所を変えよう」?
夜のバルコニーで、シャンパン片手に、男がそれを言うのか。
お前は何をしているんだ、フェリックス・ミッターマイヤー。
ゾフィー嬢は眉を寄せた。しかしどこか楽しげだった。
「……あら。どういう意味かしら」
「語弊と誤解のリスクを最小化するためだ」
俺は口元を押さえた。笑ってはいけない場面だとわかっていた。でも笑いたかった。
「では、どこでならその"リスク"が減るの?」
「庭だ」
俺は頭を抱えた。
庭。
夜のパーティーで庭に誘うというのがどういう隠語か、お前は本当に知らないのか。
知らないんだろうな。
それがフェリックス・ミッターマイヤーという男だ。
ゾフィー嬢は笑った。花が綻ぶような笑みだった。
「面白い方ね。……いいわ、では、あえてここで話しましょう」
彼女が一歩踏み込む。
「あなたの言う"誤解"とやら、興味があるの」
フェリックスは怯まない。こいつが怯むところを俺は見たことがない。そしてそれが時々、非常に恐ろしい。
「よろしいのか。貴女の立場は特殊だ。環境によって、貴女という個体への評価が歪む可能性がある」
ゾフィー嬢が吹き出した。
「つまり私と話すだけで、あなたの評価も歪むと?」
「その通りだ」
俺はこの会話の密度に若干めまいがしていた。
これは口説きなのか。哲学なのか。どちらでもないのか。どちらでもあるのか。
そのとき、温度が変わった。
会場の内側から、圧が来た。
物理的な圧だ。気のせいではない。バルコニーの空気が数度、確かに下がった。
俺は振り返って、蒼白になった。
漆黒の軍服。
直立した威容。
そして、あの鋭い目。
ウルリッヒ・ケスラー提督。憲兵総監。
目の前の才女の、父親。
「……話を聞こうか」
俺は石になった。
フェリックスは迷わず敬礼した。こいつはいつも迷わない。それが今夜ほど恐ろしく見えたことはない。
「フェリックス・ミッターマイヤーです、閣下」
「知っている」
刃のような視線がフェリックスを検分し、娘に移る。
「状況を説明しなさい」
俺は「助かった、ゾフィー嬢は説明が上手いはずだ、うまくまとめてくれ」と念じた。
ゾフィー嬢は悪戯っぽく唇を上げた。
「お父様。この方に"ここでは話せない"と言われたのですわ。場所を変えるかどうかを話していました」
駄目だこの親子。
沈黙が落ちた。
ケスラー閣下の視線がフェリックスに戻る。
「……意図は」
「誤解の排除です、閣下」
俺は目を閉じた。
フェリックスが喋り始めた。公共空間における観測者バイアスがどうとか、文脈の欠落がどうとか、記号と意図の乖離がどうとか。
俺には半分しかわからなかった。
しかしケスラー閣下は聞いていた。
そして、小さく頷いた。
「そうか」
俺は「通じるのか」と思った。本当に思った。この理屈が通じる世界に俺は生きているのか。
「だが」
閣下の声が低くなる。
「その提案が、社会的文脈において"誘惑"と解釈される矛盾についてはどう考えている」
お、と俺は思った。
閣下は鋭い。そこだ。そこを突いてくれ。フェリックスを少し困らせてくれ。頼む。
フェリックスは一秒考えて、答えた。
「それは、観測者の持つ前提コードの問題です。記号と意図の乖離は、送り手ではなく受け手の解釈系に依存する。私の提案は純粋に論理的なものでした」
駄目だった。
「……ならば、君は"誘惑"という概念を、論理の外に置いているということか」
「はい」
「では一つ問おう」
閣下の声が静かになった。静かなほど怖い声だ。
「君は今、私の娘が美しいと思っているか」
「はい」
フェリックスは即答した。
……終わった。今、銀河が止まった。俺は固まった。フェリックスは一秒も乱れなかった。
「……ほう」
ケスラー閣下の声は低い。
でも、フェリックスは全然気にならないのか、眼下の庭園を一瞬だけ見た。あの、男から見ても超絶に美しい流し目で。
俺は嫌な予感がした。
こいつが庭を見るとき、ろくなことにならない。
「あの庭園と同じです」
俺の嫌な予感は的中した。
全員が固まった。
俺も固まった。
お前は今、憲兵総監の前で、その令嬢を庭園に例えた。
お前は正気か。
正気だから怖い。
「……説明しろ」
閣下の声が、また一段低くなった。
「あの庭園は、設計者の意図が明確です。よけいな装飾に頼らず、構造で魅せています」
フェリックスは立板に水で説明し始めた。導線が美しいとか、観る者に解釈の余地を与えながら主張はぶれないとか。
俺は聞きながら思った。
これは褒めているのか。
これで通じるのか。
この男は本当に、庭を語るときだけ饒舌になる。
ゾフィー嬢がころころと笑った。
笑うとマリーカ様そっくりだよな。
にしても、なぜ笑えるんだ、と俺は思った。
普通は怒る場面ではないのか。
いや、でも、笑いたくなる気持ちはわかる気がする。この男の比喩は、突拍子もないが、嘘ではない。
それが伝わるから、笑えるのかもしれない。
ケスラー閣下が庭を見た。
フェリックスを見た。
娘を見た。
そして、初めて表情が微かに動いた。
「……あの植え込みだが」
「あの植え込みは、昼と夜で表情を変えます。昼の眺めも素敵です」
「……そうか」
俺はその瞬間、何かが決まったと思った。何が決まったのかは、うまく言えない。
ただ、ケスラー閣下はフェリックスに言った。
「今度、昼間に我が家に来たまえ。庭の話の続きをしよう」
俺はグラスを取り落とした。
pixivから転載