フェリックス・ミッターマイヤーは庭師になった   作:シロン茶

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プロポーズ編


サイドストーリー:恋物語 その2

フェザーンの空は、燃えるような朝焼けだった。

庭へ面した作業卓に端末を置き、フェリックスは夢中で設計図を書き込んでいた。昨夜の余韻が、彼の頭の中で爆発的に広がっていた。熱く溶け合うような一体感が、フィボナッチ数列に従う植栽配置と、対数螺旋を描く池を閃かせた。

周囲には手書きのメモ用紙が散乱し、床には植物図鑑と地形資料が開きっぱなしで転がっていた。

 

「……何をやっているの?」

 

背後から声がした。

振り向けば、簡素なワンピースを肩に引っかけただけのゾフィーが、まだ寝起きの髪のまま立っている。

その頬が、わずかに膨れている。

 

「朝起きたらあなたがいないなんて、最悪なんだけど」

 

「え?」

 

フェリックスは素直に目を丸くした。

 

「メモは残したよ。『庭にいる』って」

 

「そういうことじゃないの」

 

初めて二人で過ごした夜の翌朝、目覚めて隣に男がいなければ女がどう思うか――この美貌の青年は、どうやら誰からも教わらずに育ってしまったらしい。

だが本人は少し考え込んだあと、申し訳なさそうに眉を下げ、そしてすぐにいつもの静かな微笑を浮かべた。

 

「ごめん。どうしても、作りたい庭が閃いたのを図面に描いておきたくて、熱量が逃げてしまうから」

 

言いながら、フェリックスの秀麗な顔が朱を帯びて綻び、怜悧な空色の瞳が煌めいて朝日に透ける。 その顔で言われると、腹を立て続けるのが難しい。

 

フェリックスは立ち上がり、彼女のもとへ歩み寄ると、そっと抱き寄せた。まだ外気の冷たさをまとった身体だった。

 

「この庭なんだけどね、昼はただの庭園なんだ。でも、夜は空間の秩序が書き換わる。そこは『世界』になるんだ」

 

フェリックスの秀麗な頬は上気したまま、声もうわずっている。ゾフィーはしばらく黙って彼を見上げ、それから呆れ果てたように、深く長い溜息をついた。

 

「……それが、今この瞬間に言うべきこと?」

 

「……あ、ごめん、ちょっとテンションが上がってる」

 

フェリックスは、ようやく現実に引き戻されたように気まずく目を逸らす。ゾフィーは小さく肩を揺らして笑った。

 

「私と寝たらテンションが上がって、庭を思いついたから、ベッドを抜け出した、と」

 

「いや、その……うん」

 

困ったような、しかし隠しきれない熱情を帯びた声。ゾフィーは彼の胸に頰を寄せ、その鼓動を確かめるように囁いた。

 

「許してあげる。あなたとの化学反応、本当にすごかったもの。活性化エネルギーを一気に超えて、系全体が新しい状態へと流れ込むような……私のホメオスタシスが、めちゃくちゃに乱されて」

 

フェリックスは耳まで真っ赤になり、抱きしめていた腕に力が入った。深呼吸をして気持ちを整え、急に真顔になる。

 

「ゾフィー」

 

背後から、さっき摘んだばかりの黄色い薔薇の蕾を差し出した。まだ蕾に近く、朝露が花弁の先に残っている。

 

フェリックスは、静かに膝をついた。

 

「ゾフィー、君がいると、この庭は安定する。長期的な遷移も予測できる」

 

「いきなりロマンが死んだわね」

 

ゾフィーが呆れたように笑う。

フェリックスは言葉を詰まらせかけながらも、真剣な顔で続けた。

 

「僕と君で庭を作っていきたい。僕が枝の配置を決め、君が土壌条件を整えてくれれば——」

 

ゾフィーの笑みがぴたりと止まった。

 

「……確認していい?」

 

「うん?」

 

「決めるのはあなたで、私は条件を整える側?」

 

「役割分担だと思うけど……」

 

「……落第」

 

「落第!? なぜ!?」

 

ゾフィーは首を軽く振って、研究者の目になった。

 

「主体が固定されすぎているわ。土壌はただの条件じゃないの。反応場よ。条件次第で、系全体が変わるの」

 

「環境が主導することもある……と?」

 

「ええ。枝だって、時には選ばれる側になるべきよ」

 

フェリックスは一瞬黙り、ゆっくり頷いた。

 

「……合理的だ。でも放っておけば庭はただのカオスになる」

 

「だから選択『だけ』じゃ足りないのよ」

 

「じゃあ何が必要なんだ?」

 

ゾフィーは微笑みながら、フェリックスのダークブラウンの髪を優しく撫でた。

 

「相互作用よ。私たちは開放系。何度も壊されても、介入されても、また二人で系を再構築できる……そんな関係が欲しいの」

 

フェリックスは空色の瞳に一瞬影を落とし、低く答えた。

 

「……そうだね」

 

二人はそっと見つめ合い、深く頷き合った。

フェリックスが再び口を開きかけたその時、ゾフィーの指が彼の唇をそっと塞いだ。

 

「動的平衡と言ってもいいわ。絶えず変化しながら、同じ平衡状態を保ち続けるのよ」

 

「動的平衡……」

 

フェリックスがノロノロと繰り返すと、ゾフィーは彼の耳元に顔を近づけ、甘く囁いた。

 

「でも今はね……系全体の安定と、不可逆なプロセスへの移行を提案していいかしら?」

 

一拍置いて、フェリックスの目が大きく見開かれた。

 

「……だから、僕だってそう言ってる!」

 

我慢の限界を迎えたフェリックスが、とうとう声を張り上げた。

彼は握りしめていた黄色い薔薇をゾフィーに突きつけ、真っ赤になりながら言う。

 

「僕たちが中途半端な関係を続けていると、ケスラー提督に『治安を乱す行為』と見做されかねないし、また皇帝陛下に邪魔されるのも嫌だ。……君と、法的に、不可分になりたいんだ!」

 

ゾフィーが、ぷっと吹き出した。

 

「……そうね。父は怖いものね」

 

「違う! そこじゃない! ねえ、僕は君にプロポーズしてるんだよ!」

 

必死な顔で焦っていく男の手から、ゾフィーは薔薇を受け取った。

 

「ええ、わかってる。でも、フェリックス。不可分になりたいとか、皇帝陛下とか、そんなの、外部条件でしょ」

 

フェリックスが言葉に詰まる。ゾフィーは続ける。

 

「私たちに必要なのは、干渉されても再構成できること」

 

フェリックスの目が見開かれる。

 

「何度壊れても、また二人で系を立ち上げられること」

 

お互いの瞳を覗き込んで、はっきりと言う。

 

「だから——私と、不可逆に結合しなさいって言ってるの」

 

フェリックスが完全に固まる。ゾフィーはくすっと笑った。もう一度、男の耳に囁く。

 

「つまり結婚しましょうってこと」

 

フェリックスはようやく息を吐いた。

 

「ああ。君という高効率な触媒が加わると、僕の庭はいつも計算を超える——散逸構造のような、美しい秩序になる」

 

ゾフィーは一歩進んで、彼に寄り添った。

 

「全部、相談して決めるよ」

 

ガバッとゾフィーを抱きしめたフェリックスが、繰り返すように言った。

 

「それが一番、安定する」

 

ゾフィーはトクトクと速いお互いの鼓動を聞きながら、断言する。

 

「違うわ。一番、面白いのよ」

 

「……キスしていい?」

 

「キスだけならね」

 

朝の光が、二人の影を重ねる。

 

端末には、まだ何も完成していない庭。変化し続ける、非平衡の未来が広がっていた。

 




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