フェリックス・ミッターマイヤーは庭師になった   作:シロン茶

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幕間:皇帝の眼差し

帝都フェザーン宮廷の大広間は、皇帝即位二十周年を祝う光と音で満ちていた。

 

二十歳のアレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、形式どおりの挨拶を受け、形式どおりに返しながら、人々の流れを静かに観察していた。

 

視線は均等に配られる。

表情は穏やかに保つ。

皇帝としての振る舞いを崩さないよう。

 

——ただ、一箇所だけ。視線が止まる。

 

淡い青のドレスの若い女性。

その隣に立つのは皇太后宮殿の侍女マリーカ・フォン・フォイエルバッハ。

 

その娘。

あれがゾフィー・フォン・フォイエルバッハか。

 

社交界に出たばかりの年齢相応に、場の空気を測りかねているように、目線がうろうろしている。

だが、背筋だけは不思議なほどまっすぐだった。

 

そのとき、人垣がわずかに割れた。

 

フェリックス・ミッターマイヤーが、まるで引き寄せられるように一歩踏み出した。

 

普段は社交の文脈を理解しない男が、迷いも逡巡もなく、ただ“そこへ行くべきだ”というように歩んで行く。

 

ゾフィーが顔を上げる。

 

二人の視線が合う。

 

一瞬の静止のあとに、フェリックスは笑った。

驚くほど柔らかく。

 

フェリックスが礼を取り、ゾフィーが戸惑いながらも微笑み、二人の間に小さな円が生まれる。

 

ゾフィーは一瞬だけ母を見る。マリーカは、ほんのわずかに頷いた。

 

音楽が変わる。

舞踏の合図。

 

フェリックスは自然に手を差し出した。

訓練された所作。

しかし、彼が必要外でダンスを踊ったことがないのを、士官学校同期なら誰でも知っている。

 

そして、ゾフィーはその手を取った。

 

——そこで、世界が閉じた。

 

少なくとも、二人のあいだでは。

 

円の中で、ゾフィーが笑っている。

ぎこちなく、それでも確かに楽しげに。

フェリックスが何かを言い、ゾフィーが首を振り、また笑う。

 

その笑みに合わせて、胸の奥がわずかに痛む。

 

鋭いものではない。じわじわと広がる、鈍い圧迫感。

 

視線を外す。

 

外したままにしようとする。

 

だが、また戻る。

 

——見てしまうのではない。

見ることをやめられない

 

「……なるほど」

 

誰にも聞こえない声で、アレクは呟いた。

 

呼べばいい。

名を呼べば、ゾフィーは来る。

礼を取り、頭を垂れるだろう。

母も止めはしないだろう。

 

だが、その後は?

 

思考が止まる。指が震えていた。

 

——これは、消えない。

少なくとも今夜は。

 

 

 

深夜。

 

帝国の頂点に立つ青年は、母と、もうひとりの“母”に挟まれることになる。

 

皇帝の私室は、夜会の喧騒が嘘のように静まり返っていた。その静けさは、むしろ圧力だ。

 

皇太后ヒルダ・フォン・マリーンドルフ。

そして、侍女マリーカ・フォン・フォイエルバッハ。

 

二人は並んで立っていた。

微笑んでいるが、目が笑っていない。

 

アレクは一瞬だけ、これは面倒なことになったと悟った。

 

「陛下、お座りください」

 

ヒルダの声は穏やかだった。

 

アレクは素直に従う。

 

優雅な所作で椅子に座った皇帝へ、最初に口を開いたのは、やはり皇太后だった。

 

「——視線です」

 

わずかに曲がった我が子の口元を見ながら、母親はゆっくりと言った。

 

「場にいた全員が気づいていましたよ。あなたが、どこを見ていたか」

 

ただの事実の指摘だが、それだけではないことは自明だった。

 

「フェリックスの隣にいる令嬢を、あれほど熱心に見るものではありません」

 

はあ、とヒルダは大仰にため息を吐いた。

 

「皇帝が、ひとりの娘にあれほど注意を向ける意味を、宮廷は勝手に解釈します。それが何を招くか——説明は要りますか」

 

「……不要です」

 

「結構」

 

皇太后はそれ以上言わなかった。

 

次に、マリーカが口を開いた。

 

「アレク様」

 

幼い頃と同じ呼び方だった。アレクは、わずかに視線を逸らす。

 

「あの子も社交界に出たばかりでございまして」

 

「……ああ」

 

マリーカは、そこで初めてまっすぐに皇帝を見た。

 

「あの子なりに先のことに計画もございます。できましたら余計な手出しをなさらないでください」

 

「余計な手出しなど……」

 

アレクは口を開きかけて、止まった。

その先を、自分で否定できないと知っていたから。

 

マリーカは責めなかった。

ただ、息をひとつ落とす。

 

皇太后が静かに言う。

 

「わかっていると思っていましたよ。あなたは、何でも手に入る場所にいて、だからこそ、手に入れてはいけないものがあるのだと」

 

「何でも手に入る?……逆ではありませんか。私はこの椅子に座るために、最初からすべてを捨てさせられている。私は石像ですか」

 

沈黙が落ちた。

皇太后は、眉を上げた。

 

「……フェリックス・ミッターマイヤーが自由に笑えるのは、あなたがその頭上に、揺るぎない秩序という天蓋を広げているからです。あなたが彼と同じ地平に降りれば、彼が享受している自由もまた、形を変えて崩れ去るでしょう」

 

その言葉は、皇帝を抉った。

 

「以上です。失礼いたしました。陛下。どうぞ良い眠りを」

 

二人はそのまま退出する。

 

扉が閉まる音が、やけに遠く響いた。残された部屋で、アレクはしばらく動かなかった。

 

長い静寂の中で、ようやく大きく息を吐く。

 

だが、楽にはならない。胸の奥の重さは残っている。もう一度息を吐いて、椅子に深くもたれた。

 

「……視線か」

 

いずれ、この視線も武器になるのだろうか、とぼんやり思う

 

「……フェリックスはずるい」

 

思わず呟く。その言葉に残った苦味は、しばらく消えなかった。

 

 

 

 

 

 




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