フェリックス・ミッターマイヤーは庭師になった   作:シロン茶

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フェリックス・ミッターマイヤーは隠れ庭を作る

「陛下。新しい試作が完成しました」

フェリックスの声は静かだった。

アレクは頷き、彼の背を追う。

 

アレクのプライベートガーデンを抜けた先の小径は皇宮の華やかさとは無縁の、ほとんど野生に近い緑に包まれていた。しかし一歩進むごとに、光の密度が変わり、葉の重なりや風の通り道が計算されていることに気づく。

やがて木々がふっと途切れた。

そこにあったのは、庭と呼ぶにはあまりに小さく、しかし「空間」と呼ぶにはあまりに完璧な、掌ほどの静寂だった。

 

石畳が緩やかに波打ち、石積みが無造作とも言えるように外構を作っている。三つの自然石が影の角度を測る古い天文器具のように置かれ、中央には銀葉の若木が一本だけ、風を受けて微かに揺れていた。

 

「……フェリックス。これは?」

 

「陛下のための『始まりの庭』です。ここでは、何も背負わなくていい。ただ、世界が動く音だけを聴いてください」

 

フェリックスは木造りの椅子を引いた。アレクは自然と腰を下ろす。風が銀葉を揺らし、苔が光を吸い、石が影を落とす。そのすべてが、皇帝という名を静かに剥がしていく。

 

アレクは深く息を吐いた。久しく感じていなかった「空白」が胸の奥に生まれる。

 

「あそこの石の配置……影が伸びる方向に合わせて、わざと少し傾けてあるのか?」

 

「はい。いわゆる日時計ですね」

 

「時計か。だが、ずいぶんゆるやかな時の刻みだ……」

 

影はゆっくりと、まるで慈しむように石の表面を這っていく。

一日のうちで最も疲れ果てた午後の光の中でさえ、その動きは決して急がない。まるで、皇帝がこれまで背負ってきたすべての時間を、優しく撫でさするように。

前へ、前へと急かされるのが皇帝の務めだ。

しかしこの庭では、時間は円環を描き、静かに回り続けている。過去も未来も、今この瞬間に溶け合い、ただ「在る」だけだった。

アレクの肩から、目に見えない重みがゆっくりと落ちていく。

 

「……お前は、予から『皇帝』という衣を剥ぎ取るつもりか」

 

「いえ。陛下が明日またその重い衣を纏うために、今だけは裸の心で呼吸していただきたいのです」

 

フェリックスは柔らかく微笑んだ。

 

「護衛は、この森に見える木々の間に配置できます。ここは皇宮エリア内部です。先の庭園技監フォーゲルが構想した『警備の死角にならない森』を譲り受けました。……陛下が昼寝する庭です。約束しましたでしょう」

 

アレクはふっと笑った。そんな約束をした記憶が、胸の奥で温かく揺れる。

 

ふと、銀葉の若木の根元に、小さな薔薇の苗が植えられているのが目に入った。葉はまだ頼りなく、茎も細い。

 

「ずいぶん小さいものを植えたな。まだ花は咲かないのか」

 

「ええ。この庭に馴染むまで、あと一度は冬を越さなければなりません。彼らが『今だ』と思った瞬間に、陛下へ最高の香りを届けます」

 

フェリックスは苗を守るように手をかざした。

 

「実はこれは、プロメテウスの亜種なのです。少し変わった色味が出た時に挿し木で増やし、独立した株として育てていました。プロメテウスより淡く柔らかな色ですが、香りは少し強くなるようです。数年後に安定しましたら新種と呼べるでしょう」

 

アレクは「数年後」という言葉に、静かな安堵を覚えた。

 

風が銀葉を揺らし、まだ定まった色を持たない薔薇の苗が小さく震える。

 

 

 

「実はこの庭には仕掛けがありまして」

 

フェリックスは置いてあった如雨露を取り上げ、石積みに向かって、さあっと水をまいた。指を唇に当て、護衛たちにも同じ合図を送った。

その瞬間——

 

銀鈴を転がすような音が立ち上がった。

 

コン……、カラン……。

 

乾いた地の底で、見えない水脈が呼吸するような反響だった。

 

「水琴窟です。地中に作った空洞が、落ちる水の音を増幅させます」

 

音は胸の奥まで洗い流すようだった。音が消えるまでの数秒間、そこには空白の宇宙が広がるような。

 

「お前は……目に見える庭だけではなく、音の中にまで『帝国』を作ったのか」

 

「そんな大きなものではありません。これは『避難所』です。帝国の広大さに疲れた時の」

 

フェリックスは穏やかに続けた。

 

「この庭は、計算だけでは作れません。風の癖、土の湿度、地中の温度差……すべてが合わさるのを待ち、自然と折り合いをつける。人が支配するのではなく、自然が許す形に寄り添う時の音なのです」

 

「今は私が水を撒きましたが、庭に降った雨露が集まれば自然に音を生じます。ですので、季節ごとに、いえ、陛下のお越しになるたびごとに、おそらく音色が変わるでしょう」

 

「この音は、今この時だけのものか……」

 

「ええ」

 

二人はしばらく、無言で水音に耳を傾けていた。

 

コン……カラン……

 

その反響は、胸の奥に溜まった決断の重さを、ゆっくりと溶かしていく。

 

「フェリックス……この音は、予の心臓の音に似ているな」

 

「陛下の心臓はいつも速く鳴っています。ここでは、少しだけゆっくりさせてあげられます」

 

アレクは目頭が熱くなるのを感じた。

 

「陛下が疲れた時、いつでもここへ。執務室内にも同じ仕組みを作ることは可能なのですが、音を聴くには静寂が必要なので……」

 

コン……カラン……

 

水琴窟の音が、遅れて響いた。

 

アレクは、しばらく動かなかった。

銀葉の揺れも、苔の湿りも、石の影も、すべてが音の余韻の中に溶けていく。音は、小さな庭に静かに降り積もっていった。

 

やがて、彼がゆっくりと目を開ける。

 

風が吹いた。

フェリックスが静かに言う。

 

「枝変わりの薔薇が安定するには、あと数年かかります。色が変わる可能性もあります」

 

アレクは答えなかった。

ただ、その定まらない苗を見つめ続けた。

 

やがて、静かに口を開く。

 

「……ならば、予はこの薔薇を『パンドラ』と呼ぼう」

 

フェリックスが顔を上げた。

アレクはわずかに息を吐き、言葉を続けた。

 

「まだ決まっていない未来に、せめて名だけは与えておきたい」

 

それは宣言でも命令でもなく、ただ胸の奥に生まれた白い余白に、そっと指を置くような声だった。

 

コン……カラン……

 

水琴窟の音が、もう一度、遅れて響いた。

アレクは再び目を閉じた。その数秒の空白は、確かに彼だけのものだった。

 

 

 

後に「パンドラの庭」と呼ばれるこの小さな空間は、第六代皇帝アレクサンデル二世によって壊されるまで、さまざまな秘密の物語を静かに育んでいった——それはまた、別の話。




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