士官学校の卒業式が終わり、帝都の喧騒が遠のいた深夜。
皇帝アレクサンデル・ジークフリードは、執務室の椅子に深く沈み、ひとつの階級章を掌の中で転がしていた。フェリックス・ミッターマイヤーが、先刻返上していったものだ。
「……身勝手な男だ」
明日から、彼は軍服を脱ぐ。
同じ図面を覗き込んで「合理的ですね」「それは強引ですって」と軽口を叩き合うことも、気軽に食事を共にすることも、もう叶わない。
机の上には、統治という名の無機質な書類の山。
そしてその脇、花瓶すら用意されていない殺風景な部屋で、水差しに無造作に活けられた一輪の黄色い薔薇。
それはフェリックスが「卒業の祝いです」と置いていった、まだ固く閉じた蕾だった。
「俺を置いて、お前は土の匂いの中へ行くのか……」
アレクサンデルの視線が、壁に掛けられた父ラインハルトの肖像へと上がる。
その峻厳な眼差しを跳ね返すように、ペンを執った。
署名。また一枚、署名。
皇帝としての義務を果たすことでしか、友が愛する「土」を守る術がないことを、若き皇帝は誰よりも理解していた。
ふと視線を戻すと、蕾が、わずかに緩んでいた。
深夜の皇帝執務室の明かりに気づき、ヒルダは静かに扉を開けた。
机に伏した息子のくすんだ金髪が目に入る。その傍らで、黄色い薔薇が咲きかけている。
「アレク……」
顔を上げた皇帝の瞳は赤く、言葉にならない感情が溢れそうに揺れている。
「母上……今日ほど、自分の運命を恨んだことはありません」
悲しみや悔しさや寂しさを内包しながらも、途方にくれた幼さが際立つ表情。故ラインハルトもこのような顔をプライベートではよく見せていたな、とヒルダは一瞬だけ懐かしく思う。
「……あいつが羨ましい」
ヒルダは何も言わず、歩み寄ってその肩を抱きしめた。
皇帝は、父の肖像を見上げたまま、消え入りそうな声で続けた。
「……怖かった。父上のようになったら……」
ヒルダはその意味を追わず、ただ静かに言う。
「フェリックス・ミッターマイヤーは、あなたから離れたのではありません」
二人の視線が、窓辺の黄色い薔薇に向く。
「あなたが守ろうとしているものを——形にするのでしょう。軍人として隣に立つよりも、もっと長く、別のかたちで」
アレクは母の手を強く握り返し、声を殺して泣いた。
肩が小さく震え、指先が白くなるほど力を込めている。
それは、友を自由にした自分への、切ない祝福の儀式だった。
ヒルダは息子を抱いたまま、静かに目を閉じた。
ずっと知っていた。
フェリックスが語る「十年後の庭の構想」を聞くときの息子が、まるで異国の冒険談を聴く子供のような瞳をしていたことを。
この宇宙で、自由に生きる道を選べる者は多くない。
フェリックスが血脈の呪縛を脱ぎ捨て、土を耕すために羽ばたくなら、皇帝アレクサンデルは、この盤石な帝国を維持し続けなければならない。
誰かの自由を支えるための礎として。
けれど、礎は決して孤独ではない。
ヒルダはバルコニーに出て、夜明け前の風に土の香りを嗅いだ。
私の誇り高い息子よ。
あなたは父を超えたのだと、私は胸を張って言える。
pixivから転載