[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
ティーカップを満たす濃いダージリンの水面に、ナギサの顔が映っていた。
普段よりも深く刻まれた眉間の皺。うっすらと青ざめた顔色。そして、無理に平静を装っている目元。
彼女は優雅な手つきでティースプーンを回し、水面に浮かぶ残像をかき乱した。しかし、銀色のスプーン一本で紅茶の上に浮かぶ影を消すことはできても、心の中で波打つ騒ぎまで鎮めることはできなかった。
テーブルの片側には、ワイルドハント芸術学院から届いた公式書類が整然と置かれていた。
展示館内で発生した展示造形物の一部構造破損に関する経緯書。展示室の床タイルおよび内壁の修理見積書。そして、損害額の算定表。
文書の文章は、驚くほど無味乾燥だった。ワイルドハント側は、トリニティ自治区に居住するイズレ・ナホトが自校の展示館内で銃器を使用し、展示物と施設の一部を損壊したため、その実費が適正に弁済されるよう行政上の協力を要請する、と書き送ってきただけだった。
冷淡でありながら、どこか傍観的な態度だった。
ワイルドハントは、モデル本人が自らの姿をかたどった作品を破壊した行為について、低俗なヴァンダリズムというよりは、本人が自らの主体性と作品の解釈権を取り戻そうとした、極めて個人的な衝突として解釈したらしい。
そのため、彫像の背面構造部が破損した行為そのものについては、あえて律法の物差しや美学的な断罪を持ち出すことはなかった。
ただ、砕けた大理石、破損したタイル、傷ついた内壁、そして臨時休館によって発生した管理費用だけを正直に計算し、請求書に記して送ってきたにすぎなかった。
意外にも、ワイルドハントとの外交問題は予想よりも軽かった。
本当の問題は、トリニティの内部にあった。
公式文書の上では、この事件は単なる展示物の一部構造破損にすぎなかった。しかし、ひとたびトリニティの生徒たちの口に上れば、その乾いた行政用語はまったく別の名前へと変わった。
トリニティの生徒たちにとって、翼とは神聖さの証明であり、天から授けられた高貴なるアイデンティティの象徴だった。
それを一発の弾丸で破壊する行為は、翼のない天使が展示されたこと以上に、トリニティの根幹を揺るがす冒瀆として受け止められていた。
翼を持つ生徒たちのうち強硬派は、ナホトに対して『思想検証』や『自治区からの追放』といった物騒な言葉を、烙印のように押しつけていた。穏健派に属する者たちでさえ、ナホトの行動に対する不快感を隠しきれずにいた。
ナギサは、再びティーカップを見下ろした。
ダージリンの濃い水面に、再び自分の顔が映った。
しかし、その残像の上から、紅茶の香りの代わりに病院特有の鼻を刺す消毒薬の匂いが立ち上ってくるようだった。記憶の深海へと押し込めていた古びた光景が一つ、幽霊のように浮かび上がった。
重い沈黙の中を歩いた、病院の廊下。
片手には、翼のケア用品が詰め込まれた紙袋を提げていた。
強い衝撃と摩擦によって熱を持った翼を落ち着かせる軟膏とクーリングジェル。折れたりひび割れたりした羽軸を補強する栄養剤。翼の羽毛についた粉を整えるドライシャンプーまで。
彼が入院するたびに、見舞いの品のように用意して持っていったものだった。
自らの背に生えた翼を消耗品のように酷使するお兄様に対する、ナギサなりの気遣いだった。
病室の扉を開けて入るなり、まずクーリングジェルを塗ってやり、少しは自分の体を大切にするよう小言を浴びせるつもりだった。
今回は大怪我をしたと聞いていたため、絶対に曖昧な態度でごまかさせるものかと心に決めていた。
だが、病室の中に広がっていた光景は、ナギサの思考回路のすべてを凍りつかせた。
患者服を着たままベッドの枕元にもたれ、読書をしていたナホト。
彼の背後にあるはずの、誰よりも大きく、まばゆかった白い翼が見えなかった。
なかった。
翼が生えているはずの場所には、痛々しい包帯と、押し潰された患者服の皺だけが残されていた。
まるで初めから、そこには何も存在していなかったかのように、背中は平らに沈んでいた。
手から力が抜けた。
どさり。
紙袋が床へ落ち、栄養剤の瓶や軟膏のチューブが病室の床を騒々しく転がった。
ナギサは呼吸の仕方さえ忘れたまま、彼の背中を見つめた。声はまるで自分のものではないかのように、押し潰されながら漏れ出した。
「お兄様……これは、いったいどういうことですか?」
ナホトがゆっくりと顔を上げた。
「翼は……お兄様の翼は、どこへ行ったのですか」
返ってきたものは、悲鳴でも、怒りでも、慟哭でもなかった。
ナホトはただ、普段と変わらない、少し疲れているように見える彼特有の苦笑を浮かべただけだった。そして、読んでいた古びた本を静かに閉じた。
「ああ、ナギサ。来てたのか」
その平然とした態度が、かえって恐ろしかった。
「翼? ああ……まあ、いろいろあってね。なくした、ということにしておこうか」
「なくした……ですって!?」
ナギサの声が細かく震えた。
「翼は、道端で落とすハンカチか何かなのですか!? いったい、どうしてこんなことに――!」
ヒステリーに近い詰問だった。
しかし、ナホトは最後まで視線を逸らした。包帯の巻かれた背中を慎重にベッドのマットレスへ預けながら、本当に大したことではないかのように笑った。
「そんなに怒るなって、ナギサ。いざなくなってみると、案外悪くないんだ。寝るときも楽でさ。前は翼を潰さないように気を遣ったけど、今はどんなふうにもたれても平気だから」
彼は冗談を言うように肩をすくめた。
「それに、背中がずいぶん軽くなった。冗談じゃなく、利点だってある」
その瞬間、ナギサは言葉を失った。
楽だ。
軽い。
利点もある。
その言葉の一つ一つが、信じられないほど卑怯に聞こえた。
ひどく優しく、だからこそ、なおさら残酷だった。
彼は今、自らの喪失を説明しているのではなかった。他人が悲しむことのないよう、あらかじめ自分の傷が持つ重さを削り落としていた。
ナギサには、彼が何と向き合い、どのような経緯をたどったのか分からなかった。
ただ、一つだけは確信できた。
この愚かなお兄様は、いつも自分の痛みを他人の心配より後回しにしていた。
他人だけへと向けられるその優しさが、その日に限っては刃のように冷たく感じられた。
ナギサは、幼く小さな手を固く握り締めた。指先が真っ白になるほど、強く力が入った。
震える声が辛うじて唇の隙間から押し出された瞬間、堰が切れたように言葉があふれ出した。
「……それを、本気でおっしゃっているのですか? 『なくした』だなんて、そんな言葉でごまかさないで、きちんと説明してください! 戦車の履帯に轢かれても、少し跡が残るだけだったお兄様の翼が、どうしてこんなことになったのかと聞いているのです!」
ナホトは、読んでいた古い書物をサイドテーブルの上へ置いた。
目元を赤くし、涙までいっぱいにためているナギサに向かって、彼は困ったような苦笑を浮かべた。
「ナギサがもう少し大きくなったら……そうだな。そのときに話すよ」
「いつも、都合が悪くなると『もう少し大きくなったら』ばかり! いったいいつになったら話してくださるのですか! 子ども扱いしないでください! お兄様だって、私よりたった二つ年上なだけではありませんか!」
ナギサは荒い息を吐きながら、腕で涙を拭った。そして、歯を食いしばったまま言った。
「お兄様」
ナホトの瞳が、かすかに揺れた。
「お兄様がいつも子ども扱いなさる私にだって分かります。他人のために自分を削ることは、優しさではありません。ただの愚かさです」
その厳しい言葉は病室の白い壁にぶつかり、いつまでも残響していた。
ナギサは落としてしまった見舞いの品を拾い上げた。そして、このまま残っていれば、さらにひどい言葉でナホトを責めてしまいそうだったため、苛立たしげな足取りで病室の扉へ向かった。
バタン――!
乱暴に閉じられた病室の扉の音が、回想の中に響いた。
ことり。
同時に、現実のナギサがティーカップを置く音が小さく響いた。
鼻先をかすめていた消毒薬の匂いと、病室の白いカーテン、床を転がっていた軟膏のチューブの残像が、一瞬にして消え去った。
現実のティーパーティーのサロンへ戻ってきたものの、頭の中では、遠い昔の自分の声が今もなお反響していた。
他人のために自らのすべてを削り落とすことは、優しさではなく愚かさなのだと叫んだ、あの声が。
ナギサはティーカップから手を離すことができなかった。
「ナギちゃん?」
聖園ミカの明るい声が、ティーパーティーの静寂を破った。
「みんな揃ってるのに、さっきから何をそんなに考え込んでるの?」
ナギサは、はっと我に返った。手にしていたティースプーンを静かに受け皿の上へ置いた。
ナホトが『天使の彫像』の翼を破壊したことに対する宗教的、感情的な反発を調整するため、ナギサはシスターフッドの院長である歌住サクラコを招いていた。
しかし、サクラコのすぐ隣の席に座っている意外な人物が、ナギサの目に留まった。
救護騎士団長、蒼森ミネ。
「……サクラコさんをお招きした席に、ミネさんまで同席なさるとは思いませんでした。救護活動でお忙しいと伺っておりますが」
ナギサのさりげない牽制にも、ミネは眉一つ動かさなかった。彼女は持ち前の実直で揺るぎない口調で応じた。
「トリニティでもっとも長い歴史を持つ部活動、救護騎士団の団長として、その務めを果たしに参ったまでです。学園の教義と象徴の価値を論じる場に、騎士団が不在であるわけにはまいりません」
騎士団の義務。
ナギサは心の中で、乾いた唾を飲み込んだ。
騎士団の歴史的な起源をさかのぼれば、それは教義と聖像を守るために、聖徒会とともに剣を抜いた古き聖戦の記憶へと行き着く。
ミネは宗教的な断罪を下そうとするシスターフッドに加勢し、ナホトを処罰しようとしているのではないか。
予想外の変数に、ナギサの緊張は高まった。
「それでは、始めるとしようか」
会議室の片隅から、百合園セイアが重々しく沈んだ声で口火を切った。
彼女は目を閉じていたが、会議場に漂う奇妙な気配を、すでにすべて読み取っていた。
ナギサは書類を整理しながら、最初に発言権を取った。
「事件の概要は、すでに共有したとおりです。トリニティ外縁部の民間人、イズレ・ナホトさんが、ワイルドハント芸術学院の展示場内で無断発砲を行い、展示中だった大型石像の構造物の一部を破損させました」
彼女は、わざと『翼』という言葉を飲み込んだ。
「ワイルドハント芸術学院は、当該行為の美学的・倫理的評価については別途扱うものとし、展示場の復旧に必要な実費が適正に弁済されるよう、行政上の協力を求めています。この点は、通常の行政手続きに従って処理すべき事案です」
ナギサは一度言葉を止めた。
「ただし、本校の一部生徒は、破損箇所が『翼』であったことを重く受け止め、これをトリニティの象徴に対する冒瀆と解釈しています。現在、一部の過激な生徒たちが、ナホトさんへの私的制裁と厳罰を求める連判状を回しています」
ナギサは、ことさらに厳粛な表情を作って付け加えた。
「翼を持つ生徒たちが抱く怒りと屈辱は、私にも理解できます。ですが、神聖さを守る手段が、狂気や私的制裁であってよいはずがありません。怒りが、正当な法的手続きに代わることはできないのです。彼が責任を負うべきであるならば、なおさらトリニティの法と秩序のもとで、正当に責任を問われるべきでしょう」
精緻な弁論だった。
『法と秩序』という厳粛な盾を掲げることで、外部からの暴力やシスターフッドによる思想検証からナホトを守り、ティーパーティーの権限下に置こうとする、高度な隠蔽機構だった。
そのとき、テーブルの向かい側で頬杖をついていたミカが、こてんと首を傾けた。
「私はさ、これってシスターフッドまで呼んで、『神聖冒瀆だ』とか『思想を調べろ』とか、そこまで騒ぐような話なのかなって思うんだよね」
ミカは気の抜けた様子で続けた。
「自分そっくりの彫像を、モデル本人が『その翼は気に入らない』って、自分で壊しただけでしょ?」
ミカの話し方は軽かったが、かなり本質を突いていた。
ありとあらゆる大義名分で飾り立てられた魔女狩りを自ら経験したミカにとって、『翼の象徴性』という名分の背後に隠れた本校の生徒たちのヒステリーなど、滑稽に見えるだけだった。
しかし、ミカの言葉が終わった瞬間、サクラコの指先がほんのわずかに止まった。
モデル本人が、自らをかたどった彫像の翼を気に入らず、破壊した。
あまりにも軽すぎる要約だった。
ミカが聖像を冒瀆しようとしたのではなく、聖像という名分の後ろに隠れ、誰かに性急な烙印を押そうとする狂気を警戒して、嘲笑の混じった言葉を口にしたのだということは、サクラコも理解していた。
それでもサクラコは、シスターフッドの院長として、聖像が持つ宗教的な重みを改めて示さなければならなかった。
ただし、その重みが人を押し潰す石塊にならないよう、支えなければならなかった。
「聖像を破壊する行為は、決して軽んじてよいものではありません」
会議室の空気が、一瞬にして凍りついた。
『やはり、シスターフッドとしては、この件に強硬な態度を取らざるを得ないのでしょうか』
ナギサは押し寄せる焦燥を隠そうとするように、かすかに震える指先でティーカップを持ち上げた。
そして、冷めつつある紅茶で、焼けつくように乾いた口の中を軽く潤し、緊張に満ちた沈黙の中でサクラコの次の発言を待った。
しかし、続くサクラコの言葉は、ナギサの予想を完全に覆す方向へと進んだ。
「ですが、怒りに任せ、状況証拠だけで彼を『異端者』や『信仰の敵』と決めつけるのであれば、私たちが守ろうとしている聖像は、もはや信仰の純粋な象徴ではなくなります」
サクラコの声は低く、静かだった。
「宗教指導者の扇動に流された群衆が、総督に強盗を釈放し、預言者を十字架につけよと叫んだ、あの瞬間と何が違うのでしょう」
「聖像の翼を破壊した。ただそれだけを理由に、盲目的な処罰と排斥を行えば、聖像は信仰のしるしではなく、残酷な政治の道具へと堕してしまいます。それこそ、聖像を最も深く汚す、真の神聖冒瀆ではないでしょうか」
サクラコの口調は穏やかだった。
しかし、その中には宗教的指導者としての、侵すことのできない高潔さと揺るぎない哲学が刻み込まれていた。
「件の農場主が、トリニティの信仰を嘲る意図を有していたのか。あるいは、私たちの象徴を狙い、計画的に破壊したのか。それを示す明確な証拠は、現時点では確認されていません」
「したがって、一部生徒の感情的な反発には理解を示せますが、それをシスターフッドの公式見解として受け入れることはできません」
サクラコは一度言葉を止めると、はっきりと結論を告げた。
「今、必要なのは断罪ではありません。当事者との、冷静な面談です」
「……意外ですね、サクラコさん」
ナギサは静かに呟いた。
硬直した表情の裏側で、彼女は心の中に巨大な安堵の息を吐いていた。
最大の難関であったシスターフッドを、予想よりもはるかに円滑に乗り越えたことになる。
残るものは、ただ一つ。
いまだ沈黙を守っている、蒼森ミネだった。
ナギサは緊張を帯びた眼差しでミネを見つめた。
『聖像の守護』という名分を手放した騎士団長が、果たしてどのように議論を受け止めるのか。
ミネが、静かに閉ざしていた口を開いた。
彼女の声は、会議室の壁を飾る石造りの浮き彫りを震わせるほど重々しかった。
「サクラコ院長のお考えに、全面的に同意いたします。現時点で公開されている断片的な状況だけをもって、彼の行動に神聖冒瀆の意図があったと断定すべきではありません」
「また、ナギサさんのおっしゃるとおり、法理の観点から状況を改めて精査する必要があります」
ミネの視線が宙を切り裂き、ナギサの視線と真正面から衝突した。
彼女は事件の状況に存在する、理性的な盲点を鋭く指摘し始めた。
「経緯書と供述書によれば、イズレ・ナホトさんは、彫像全体を無差別に破壊したわけではありません。彼は翼の部分だけを正確に射撃し、損壊させたのち、ただちに射撃を中止して武器を収めています」
ミネは淡々と言葉を続けた。
「仮に彼がトリニティ全体に対する反信仰的な憎悪、あるいは破壊衝動を抱えていたのであれば、わざわざ遠方のワイルドハント芸術学院まで赴く必要はなかったはずです。トリニティの内部にも、聖像は数多く存在します」
会議室の空気が、さらに重くなった。
「翼だけを攻撃し、そこで止めたという事実は、単なる反宗教的行為や、トリニティへの侮辱だけでは説明できません」
ミネは身を前へ傾け、ナギサをまっすぐに見据えた。
「彼の行動には、供述書と経緯書だけでは捉えきれない、現場固有の事情が存在する可能性があります」
「したがって救護騎士団は、彼を即時拘束し、思想検証の対象とすることに反対します。まずは本人の状態と、事件に至った経緯を詳細に確認する。それが順序というものでしょう」
状態。
事件に至った経緯。
詳細な確認。
ミネの口からその言葉が流れ出た瞬間、ナギサの背筋に冷たい悪寒が走った。
ミネのこの発言が、政治的な未熟さから生じた失言なのか。
それとも、いかなる妥協も拒み、戦車のように愚直に突き進む騎士団長特有の実直さなのか。
あるいは、ナホトを露骨に擁護するという意思表明なのか。
ナギサには判別できなかった。
ただ、一つ確かなことがあった。
ミネが投げ込んだ、その透明で巨大な善意は、法的手続きという乾いた盾の後ろへ隠そうとしていたお兄様の精神的な傷とトラウマを、いきなり水面へと引きずり上げてしまったも同然だった。
ミカならともかく、サクラコとセイアの目にはあまりにも明白に映る悪手だった。
ナギサは、予想に反してお兄様を擁護してくれたミネの善意には深く感謝しながらも、彼の最も繊細な部分を突然水面へ引きずり出してしまったことに対する、何とも言えない複雑な表情を隠しきれなかった。
「ふむ……実に興味深い光景だね」
一連の論戦と、沈黙の行間まですべて黙って聞いていた百合園セイアが、ついに小さく溜息をつき、ティーカップを置いた。
かちり。
澄んだ陶器の音が、会議場に張り詰めていた緊張をわずかに払いのけた。
「私には翼がない」
セイアの口調は静かだったが、その中には精緻な哲学的論証が込められていた。
「だから、『翼を持つ』という実存的な感覚がどのようなものなのか。それが折られ、あるいは冒瀆されたとき、そこにどれほどの喪失と憤りが生じるのか。私には知りようがない」
彼女は一度言葉を止めた。
「コウモリの生態と超音波の仕組みを、どれほど精緻に説明されたところで、『コウモリであるとは、どのようなことか』という感覚そのものを、代わりに経験することはできない。それと同じだ」
「私にとって翼とは、そういう領域にある。本校の生徒たちが、翼を持つ彫像を破壊されたことに、なぜあれほど激昂するのか。理屈では理解できる」
「だが、私にはその現象的な質感がない。ゆえに、最後まで手触りとしては理解しえない文脈が残る」
セイアはゆっくりと目を開き、会議場にいる人物たちを順番に見渡す、鋭い眼光を放った。
「だが、妙だとは思わないかね?」
「その『翼の感覚』を、私よりはるかによく知る君たち――翼を持つ者たちの代表が、誰よりも慎重にこの件を扱っている」
「宗教的な司法権を有するシスターフッドでさえ判断を留保し、当事者との面談が必要だと言う。であれば、翼を持たない私が厳罰を口にして、あれこれ断ずるべき事柄ではないのだろう」
セイアの視線がミネとナギサへ向けられた。
そして、口元にかすかな笑みを浮かべながら言った。
「それに、何より……どうにかこの場を鎮めようと、ひどく苦心している者もいるようだからね」
セイアの洞察は、会議場の水面下に横たわっていた情報の非対称性を、正確に引き上げた。
宗教的な不敬という問題を、手続き論によって切り離そうとしたナギサの態度。
その言葉に自然な形で便乗しながら、現場の文脈や本人の状態の確認を主張したミネの意図。
ナホトの傷を知る者と、知らない者。
その間に横たわる情報の不均衡を、セイアは正確に見抜いていた。
ナギサはセイアの視線を避けながら、再びティーカップを握った。
「……そのようなことはありません。ただ、過熱した空気に流されて、彼が本来負うべき責任を超える処罰を受けることがないよう、手続きの順守を申し上げているだけです」
「そうかい。君がそう言うのなら、そういうことにしておこう」
セイアはゆっくりと笑った。
「だが、イズレ・ナホトへ向けられた盲目的な矢を退けるとしても、正当な矢まで取り払ってはならない」
「それから、彫像へ向けられた矢も、何らかの形で処理する必要があるだろうね」
ナギサは、その言葉を当然のこととして認めるように、それでいて最も政治家らしい態度で書類を閉じた。
「もちろんです。他自治区での器物損壊に対する処分と賠償は、別途進めます」
「また、当該彫像に不快感を示す生徒が少なくない以上、ワイルドハント芸術学院には、当該造形物の一般公開に対する懸念を正式に伝えます。そのうえで、今回の展示終了後、再展示の可否を慎重に検討するよう要請いたします」
彼女はサクラコのほうへ顔を向けた。
「シスターフッドとの面談も、正式に手配いたします。ただし、興奮した生徒による私的制裁を防ぐため、当面は彼の身辺保護が必要でしょう」
「まあ、そうだろうね」
セイアが肩をすくめた。
「今の彼が中央自治区へ足を踏み入れれば、顔に紅茶の一杯でも浴びせられかねない。私からも異論はないよ」
「皆様も、異論はございませんか?」
「ありません」
ミネは盾を手に取り、席から立ち上がった。
サクラコも静かに頭を下げ、黙祷するように祈りを捧げた。ミカは退屈そうに欠伸をしながら、背伸びをした。
皆が立ち去っていく会議室の開いた扉から、再び初冬の鋭い風が吹き込んできた。
遠ざかっていくミネの背中を見つめながら、ナギサは冷たくなった紅茶を一息に飲み干した。
苦みが喉の奥へ、ゆっくりと沈んでいった。
彫像は、撤去されることになるだろう。
記録の上では、展示造形物の一部構造破損事件として残され、請求書は賠償額と修理費という数字によって整理されるだろう。
しかし、ナギサは知っていた。
数字では整理できないものが、残されていた。
翼が壊された姿。
お兄様が自ら撃ち落とした、あまりにも美しく、不快なその姿。
消えてしまう前に、一度は見なければならなかった。
ナギサは、空になったティーカップを置いた。
それが公的な確認なのか、私的な未練なのかは、まだ分からなかった。