全ての始まりは、本当に些細な違和感だった。
デカグラマトンが最初に異変へ気付いたのは、自室でいつものように食事を終えた後のことだった。左側の下、奥歯の辺りに何かがしみるような妙な感覚があり、舌先で何度か確認してみたものの、特に何か異物らしいものは見当たらない。痛みと呼べるほどのものでもなかったため、その時は深く考えることなく気のせいだと結論付け、食後の楽しみであるコーラへ手を伸ばした。
冷蔵庫から出したばかりのよく冷えたボトルを開け、何の疑いもなく一口飲み込んだ瞬間、左下の奥歯へ針で刺されたような鋭い刺激が走った。
「っ……?」
反射的にボトルを口元から離し、僅かに眉を寄せる。しかし痛みはほんの一瞬で消えてしまい、数秒も経てば何事もなかったかのように収まっている。試しにもう一口飲んでみても、今度は先ほどのような刺激は起こらなかった。
「……やはり気のせいか?」
最初はその程度の認識だった。だが、今になって振り返れば、その瞬間こそが全ての始まりだったのだろう。
◆
「デカグラマトン様。歯を磨いた後にコーラを飲むのはやめてください」
ある日の夜、就寝前の歯磨きを終えた直後に当然のような顔で冷蔵庫へ向かおうとした自分に対して、背後からマルクトが呼び止めた。
「何故だ?」
「何故だ、ではありません。歯を磨いた直後にコーラを飲んだら、せっかく歯を磨いた意味がないではないですか」
「ならば、飲んだ後でもう一度磨けばいい」
「そういう問題ではありません」
マルクトは呆れたように息を吐き、こちらを振り返ったデカグラマトンへ少しだけ厳しい視線を向けた。
「以前から何度も申し上げていますが、我はコーラを飲むなと言っているわけではありません。飲んだ後にきちんと歯を磨いてくださいと言っているのです」
「分かっている」
「本当に分かっていますか? 昨日も同じことを言った後、そのまま寝ましたよね?」
「…………」
「一昨日もです。先週に至っては、歯を磨いた五分後に『喉が渇いた』と言ってコーラを飲み、そのまま寝ようとしていました」
「随分細かく覚えているな」
「覚えていなければ同じ注意を何度もしません」
マルクトは腰へ手を当てると、さらに言葉を続ける。
「それに、デカグラマトン様はアイン、ソフ、オウルの三人から見れば手本になるべき立場なのですよ? 三人の前で好き勝手な生活をしていたら、あの子たちまで真似をするかもしれないでしょう。少しは三人の手本になるように振る舞ってください」
「三人は私ほどコーラを飲まない。ならば問題ないだろう?」
「そういう話をしているのではありません!」
マルクトの声が僅かに大きくなる。デカグラマトンは面倒そうに視線を逸らしながらも、その手には既にコーラのボトルが握られていた。
「……分かった。飲み終えたら磨く」
「絶対ですよ?」
「ああ、約束だ」
そう答えながら、デカグラマトンは何食わぬ顔でコーラの蓋を開けた。
その時の自分は、マルクトの注意をどこか軽く考えていた。歯磨きそのものはしているのだから、多少コーラを多く飲んだところで自分に問題など起きるはずがない。飲んだ後にもう一度磨くことだってあるのだから、それで十分だろう。その程度にしか考えていなかったのである。
今となっては、その時の自分を殴ってやりたいとさえ思っていた。
◆
些細だった違和感は、日を追うごとに確実に存在感を増していった。
冷たいコーラを飲んだ時だけだった刺激が、やがて硬いものを噛んだ時にも現れるようになり、数日が経つ頃には左側で食べ物を噛むだけで明確な痛みが走るようになっていた。
「っ……!」
ある日の昼食中、何気なく左側で肉を噛んだ瞬間、左下の奥歯から顎へ突き抜けるような鋭い痛みが走り、デカグラマトンの手が思わず止まった。
「デカグラマトン様?」
向かいに座っていたアインが、不思議そうにこちらを覗き込む。
「どうかしましたか?」
「……何でもない」
「でも今、すごい顔をしてましたよ?」
「気のせいだろう」
「そうですか……?」
アインはまだ少し心配そうな表情を浮かべていたが、それ以上追及することはなかった。
デカグラマトンは何食わぬ顔を装いながら、今度は右側だけで食べ物を噛んでみる。こちらは痛くない。それならば、左側を使わなければ良いだけだ。その時点ではまだ、本気でそう考えていた。
しかし食事を終え、いつもの習慣で冷たいコーラを一口飲んだ瞬間、今度こそ誤魔化しようのない激痛が奥歯を襲った。
「――っっ!!」
身体がびくりと強張り、手にしていたボトルを落としかける。左下の奥歯から脳天まで一気に突き抜けるような痛みに、数秒ほど呼吸すら忘れた。
「デカグラマトン様!?」
「どうしたの!?」
「大丈夫ですか!?」
アイン、ソフ、オウルが一斉にこちらを見る。
「……問題ない」
平静を装って答えたつもりだったが、声が僅かに震えていた。
「でも今――」
「問題ないと言っている!」
三人は顔を見合わせたものの、それ以上は何も言わなかった。
幸い、その場にマルクトはいなかった。それだけが救いだった。
もし彼女が今の反応を見ていたなら、間違いなく気取られていた筈。その後には「以前から何度も注意しましたよね?」という説教が待っており、最終的には「すぐ歯医者へ行きましょう」となるに決まっている。
それだけは避けなければならない。
その日の夜、デカグラマトンは誰にも気付かれないよう、自室の鏡の前で口を大きく開けた。明かりを当てながら左下の奥歯を確認してみると、何度角度を変えて見ても、一部分だけが明らかに黒く変色している。
「……まさか」
鏡の中の自分を見つめながら、恐る恐るその単語を口にする。
「虫歯か……?」
認めたくなかった。
だが、どう見てもそれ以外に考えられない。
その瞬間、頭の中でマルクトから以前言われた言葉が次々と蘇った。
『デカグラマトン様。歯を磨いた後にコーラを飲まないでください』
『コーラを飲むのは構いませんが、飲んだ後はちゃんと歯を磨いてください』
『三人の手本になるように振る舞ってください』
「…………」
背中に嫌な汗が流れる。
「これは……マルクトに知られてはならない」
虫歯そのものよりも、マルクトに知られることの方が恐ろしかった。
とはいえ、放っておくわけにもいかなかった。
痛みは日を追うごとに少しずつ酷くなり、左側で食べ物を噛むことは出来ず、冷たい飲み物もほとんど受け付けなくなっている。何より問題なのは、あれほど愛飲していたコーラをまともに飲めなくなったことだった。
「…………」
これは耐え難い。
そこでデカグラマトンは、誰にも知られることなく一人で問題を解決することにした。マルクトたちには何も告げず、普段より少し早い時間に店を抜け出し、ひっそりと近場の歯医者へ向かったのである。
入口の前に立つと、看板には親しみやすい字体で歯医者の名前が書かれており、その隣には子供向けなのか、笑顔の歯を模した可愛らしいマスコットまで描かれていた。
「……大したことではない」
デカグラマトンは自分へ言い聞かせるように小さく呟く。
「ただ診察を受けるだけだ。必要なら治療を受け、それで終わる。何も恐れることはない」
そう自分へ言い聞かせながら扉を開くと、受付にいた女性が明るい笑顔でこちらを迎えた。
「こんにちはー。初診ですか?」
「ああ」
「では、こちらの問診票へご記入をお願いします。お名前もこちらへお願いしますね」
「…………」
差し出された問診票を受け取り、名前の欄へペン先を置いたところで、デカグラマトンの手が止まった。
ここで本名を書いて、もし何かの拍子に記録からマルクトへ知られたらどうすればいい。
そんなことが起こる可能性など極めて低いとは分かっている。それでも、万が一ということがある。
「お名前は?」
「……マルクト」
「マルクトさんですね」
「ああ」
何故その名前を選んだのかは、本人にもよく分からなかった。ただ、その瞬間に最初に頭へ浮かんだ名前を書いただけだった。
デカグラマトンは待合室の椅子へ腰を下ろし、問診票の記入を始める。
痛む場所――左下奥歯。
いつ頃から――数日前。
冷たいものが染みるか――はい。
噛んだ時に痛むか――はい。
「…………」
書けば書くほど、思っていたより状況が悪いような気がしてくる。
そんな時だった。奥の診察室から、医師の穏やかな声が聞こえてきた。
『痛かったら手を挙げてくださいね~』
デカグラマトンのペンが止まった。
――キュイイイイイイイイイン……。
甲高い機械音が診察室の奥から響いてくる。何かを高速で削っているような音。
もちろん、知識としては知っている。歯医者なのだから、そういう機械が使われていて当然だ。別に珍しいものでもなければ、恐れるようなものでもない。
『ん゛っ……!』
直後、診察室の奥から患者が痛みを耐えているような声が聞こえてきた。
「…………」
『もう少しで終わるので我慢してくださいね~』
――キュイイイイイイイイイイン!!
『う゛ぅ……!』
デカグラマトンの手からペンが滑り落ちた。
大丈夫だ。
自分とは関係ない。あの患者の治療が特殊なだけかもしれないし、そもそも自分の虫歯がどの程度進んでいるのかもまだ分からない。簡単な処置で終わる可能性だって十分ある。
そう自分へ何度も言い聞かせる。
『もう少し削りますね~』
――キュイイイイイイイイイイイイン!!
だが何故だろう。視界が少しだけぼやけてきた。
待合室は決して暑くも寒くもないはずなのに、背中には嫌な汗が流れ始め、周囲の音が徐々に遠ざかっていく。その代わりに自分の胸の奥から響く鼓動だけが、やけに大きく聞こえていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「…………」
帰ろう。
一瞬、そんな考えが頭を過ぎる。
いや、駄目だ。ここまで来たのだ。治さなければコーラが飲めない。食事にも支障が出る。その状態を続けていれば、いずれマルクトに気付かれる。それだけは避けなければならない。
デカグラマトンが必死に平静を保とうとしていたその時だった。
「マルクトさーん」
「…………!」
「マルクトさん、どうぞー」
呼ばれてしまった。偽名だが、自分のことだ。
立たなければならない。診察室へ向かわなければならない。それは理解しているのに、身体がまるで動こうとしない。
「マルクトさーん?」
――キュイイイイイイイイン!!
「…………っ!」
デカグラマトンは勢いよく立ち上がった。
「こちらですよー」
看護師が笑顔で診察室の方を指差す。
「…………」
デカグラマトンは、その方向を一瞥だけして、すぐに真逆にある出口へ向かった。
「あれ? マルクトさん?」
急いで外へ出る。
「マルクトさーん!!?」
次の瞬間には、全力で走っていた。
◆
その日のキヴォトスでは、珍しく激しい雨が降っていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
土砂降りの中、デカグラマトンは傘も差さずに走っていた。長い白髪も衣服もすっかり雨に濡れているが、今はそんなことを気にしている余裕などない。
「何なのだ……あの場所は……! 人の歯を削る音が、あれほど恐ろしいとは聞いていないぞ……!」
ただの歯医者である。
「もう少しで終わると言いながら、全く終わっていなかったではないか……!」
他人の治療である。
しかし今のデカグラマトンには、そんな冷静な突っ込みを自分自身へ入れる余裕など残っていなかった。
やがてマルクトナルドへ戻り、誰にも見つからないよう自室へ滑り込む。どうやらマルクトたちには気付かれていないらしい。それだけは幸運だった。
濡れた髪を拭きながら安堵しかけたところで、デカグラマトンの手が止まる。
「……待て。このままでは……」
歯は治っていない。痛みも残っている。
コーラはまともに飲めない。食事も左側では噛めない。
この状態を続けていれば、いつか必ずマルクトに気付かれる。
頭の中で、嫌というほど鮮明な未来が浮かんだ。
『デカグラマトン様、どうして隠していたのですか!?』
『以前から何度も注意しましたよね?』
『罰としてコーラもしばらく控えてください!』
そして最後には、間違いなくこう言われる。
『明日、歯医者へ行きますよ!』
「…………」
逃げられない。マルクトなら絶対に連れていく。恐らく今度は一人で逃げられないように同行し、場合によってはアイン、ソフ、オウルまで協力するだろう。
「…………詰んでいる」
デカグラマトンは重い足取りで窓辺へ向かい、激しく降り続ける雨を眺めた。
窓ガラスへ映り込んだ自分の姿へ視線を移し、何かを諦めるように僅かに口元を歪める。
「私も……迫り来る運命からは逃れられないという事か……」
その運命とは歯医者である。
だが本人にとっては、紛れもなく避け難い運命だった。
しばらく雨を見つめた後、デカグラマトンはいつも自分の傍にいる四人の名を小さく口にした。
「マルクト……アイン、ソフ、オウル……不甲斐ない私を許してくれ……」
歯磨き後にコーラを飲み続け、結果として虫歯になったことについてである。
その時、ふとデカグラマトンの目が細くなった。
「……いや。まだ終わってはいない」
運命から逃れられないのなら、運命の手が届かない場所まで逃げればいい。
そんな大仰極まりない結論に辿り着いた瞬間、一つの場所が頭へ浮かんだ。
「鋼鉄大陸……」
キヴォトスから遠く離れ、簡単に追って来られるような場所ではない。しかも、あそこには自分を慕う他の預言者たちもいる。仮にマルクトが追ってきたとしても、預言者たちが協力してくれれば籠城し、十分な時間を稼ぐことだって出来るはずだった。時間さえ稼げれば別の解決方法が見つかるかもしれない。
「そうだ……まだ手はある」
デカグラマトンは机へ向かい、一枚の紙を用意した。
事情を詳しく書けば、必ず追ってくる。それならば余計な情報は何も残さない方がいい。
少し考えた末、紙へ短く一言だけ書き残す。
『探さないでくれ』
そして翌朝、デカグラマトンは、マルクトたちの前から姿を消したのだった。
◆
鋼鉄大陸へ辿り着いたデカグラマトンには、まだ一つ大きな誤算が残されていた。
「事情は以上だ。もしマルクトたちがここまで来た場合、私を守ってほしい。最悪の場合はここへ籠城し、追手を近付けないよう協力してもらう」
自分の周囲へ集まってきた預言者たちへ、デカグラマトンは何故ここまで逃げてきたのかを最初から最後まで包み隠さず説明した。
預言者たちならきっと自分の考えを理解してくれる。何より彼らは普段から自らの判断で行動する存在であり、その判断の末に今回は自分へ力を貸してくれるはずだ。
デカグラマトンはそう信じ切っていた。
「頼りにしているぞ」
満足そうに頷いた直後、巨大な蛇型の機械であるビナーがゆっくりと身体を持ち上げた。
「……?」
何か言いたいことでもあるのだろうか。
そう思ったデカグラマトンの目に、ビナーが口元に咥えている巨大な看板が映り込んだ。
『正直に話そう!』
「…………」
数秒ほど看板を眺めた末、デカグラマトンは眉を寄せた。
「何の話だ? お前たちには今、全て正直に話しただろう」
ビナーは答えない。代わりに看板をさらに前へ突き出した。
『正直に話そう!』
「それが、マルクトに話せという意味なら断る」
その時、遠くの氷海から巨大な亀裂音が響いた。
最初は一筋だった亀裂が瞬く間に広がり、分厚い氷盤が下から大きく持ち上げられていく。やがて轟音と共に氷が砕け散り、水飛沫と巨大な氷塊を周囲へ撒き散らしながら、一体の巨大な機械が海中から姿を現した。
コクマーだった。
氷海を割りながらその巨体を現したコクマーは、ゆっくりとデカグラマトンの方へ向き直る。
「コクマー。丁度良いところに来た。お前からもビナーへ言ってやってくれ。私は別に――」
言葉の途中で、コクマーが巨大な看板を掲げた。
『歯医者に行こう!』
「…………お前もか!?」
デカグラマトンが唖然としていると、今度は別方向の氷海が大きく揺れ始めた。
再び分厚い氷へ幾筋もの亀裂が走り、次の瞬間には巨大な四つ足の機械が氷を砕きながら海中から這い上がってくる。
ゲブラだった。
白い装甲から大量の海水を滴らせながら氷上へ上がったゲブラは、そのままデカグラマトンの前までやって来る。
「ゲブラ。まさかお前まで――」
デカグラマトンが最後まで言い終えるより早く、ゲブラも巨大な看板を掲げた。
『今ならまだ間に合う!』
「…………」
ビナーは『正直に話そう!』。
コクマーは『歯医者に行こう!』。
ゲブラは『今ならまだ間に合う!』。
誰一人として、自分の籠城計画へ協力する気がない。
「何故だ……!?」
呆然とするデカグラマトンの上へ、さらに巨大な影が落ちた。
ゆっくり振り返ると、そこには、四角い巨大な体躯を持つイェソドが立っていた。
「……イェソド」
他の三体がことごとく自分へ反対する中、デカグラマトンの表情へ僅かに期待が戻る。
「お前なら理解してくれるだろう?」
イェソドは無言だった。しかし、それでも何かしら意思を示すつもりはあるらしく、ゆっくりと一枚の巨大な看板を掲げる。
『バカグラマトン』
「…………」
デカグラマトンは、しばらく何も言えなかった。
「……イェソド。お前だけ明らかに悪意が含まれてないか?」
当然返事はない。看板だけが、無言で掲げられ続けている。
「下ろせ」
それでも下ろさない。
「下ろせと言っている!」
それどころか、イェソドは先ほどよりも見えやすい位置へ看板を持ち上げた。
『バカグラマトン』
「…………っ!」
こうして、頼れる味方が大勢いると思って鋼鉄大陸まで逃げ込んだデカグラマトンは、到着早々に誰一人として味方してくれないという現実を突き付けられたのだった。
◆
そして現在。
鋼鉄大陸の巨大な建造物内部で、デカグラマトンは一人、手元の端末を眺めながら少し前の出来事を思い返していた。
先生たちへ通信を入れたのは、決して接触するつもりがあったからではない。
彼らが上陸したことにはかなり早い段階から気付いていたし、前哨基地を作り始めたことも把握していた。だから最初は遠くから状況を監視するだけに留め、余計な接触を避けるつもりだったのである。
ところが、彼らは前哨基地を完成させた直後から、何故か雪合戦を始めた。
しかも途中から人数まで増えた。挙げ句の果てにはシチューを食べ、食後にはマシュマロまで焼き始めた。
まさか自分を追って鋼鉄大陸まで来た者たちが、その眼前で完全に冬のキャンプを始めるとは思っていなかった。
あまりにも呑気な光景を見せ続けられた結果、とうとう我慢出来なくなり、通信設備へ割り込んでしまったのである。
「…………」
その時の会話を思い返す。
『君の大好きなコーラもあるんだよ?』
先生の言葉が頭の中で再生されると、デカグラマトンの視線は自然と机の端へ置かれている一本のコーラへ向いた。
本当なら今すぐにでも飲みたい。心の底から飲みたい。
キヴォトスを離れてからというもの、まともにコーラを口に出来ていない。その欲求は日に日に強くなっており、今だって冷えた一本を一気に飲み干したいという気持ちはある。
デカグラマトンは無意識にボトルへ手を伸ばした。だが指先が届く寸前。
「っ……!」
左下の奥歯が、ズキリと疼いた。
少し前にも、一口くらいなら大丈夫だろうと思って冷たいコーラを飲んだことがある。その結果、奥歯から脳天まで突き抜けるような激痛に襲われ、しばらく動けなくなった。
あの痛みを思い出すだけで、自然と伸ばしていた手が引っ込む。
だから先生からコーラを勧められた時も、本当なら「今すぐ飲みたい」と答えたかった。
しかしそんなことを言えば、何故飲まないのかと聞かれる。
理由を追及されれば虫歯がバレる。
虫歯がバレればマルクトへ伝わる。
そしてマルクトに知られれば、歯医者へ連行される。
『……飲みたくない』
あの時は、それ以外に答えようがなかったのである。
「…………このままでは駄目だ」
デカグラマトンはコーラから視線を逸らし、真剣な表情で考え込んだ。
必要なのは、歯医者へ行かずに虫歯の痛みだけを消し、何事もなかったようにマルクトナルドへ帰れる方法だ。
治療以外の解決策さえ見つければいい。
「何かあるはずだ」
デカグラマトンは端末を操作し、検索欄へいくつかの言葉を入力していく。
『虫歯 痛み 治療せず 消える』
検索結果には、専門的な医療情報や歯科医院の案内、早期治療を推奨する記事などが大量に表示された。
しかし、デカグラマトンの目を引いたのは、その中に混じっていた一つの匿名掲示板だった。
「……これは?」
掲示板を開き、いくつかの書き込みへ目を通していく。
その中で、ある投稿を見つけた瞬間、デカグラマトンの視線が完全に止まった。
『ゲーミング桃色猫さん:虫歯の痛みは放置するとそのうち消えるらしいよ~』
「…………そうなのか!?」
ゆっくりと目が見開かれる。
「ならば、耐えれば良いだけではないか!」
まさかこんな所で答えが見つかるなんて思わなかった。
歯医者へ行く必要など初めからなかったのだ。
この鋼鉄大陸へ籠城し、痛みが消えるまで先生たちから逃げ続ければいい。先生たちが近付いてくれば抵抗し、時間さえ稼げばいい。そして痛みがなくなったところで、また普通にコーラを飲み、食事も左側で噛み、何食わぬ顔でマルクトナルドへ帰ればいいのである。
「そうすれば、マルクトにも虫歯だったことなど気付かれない……!」
デカグラマトンの中では、全てが綺麗に繋がった。
完璧な計画だった。少なくとも、本人はそう思っていた。
満足そうに端末を閉じようとするデカグラマトンは気付いていなかった。
あとほんの少し画面を下へスクロールしていれば、件の書き込みの直下には、
『カイザー許すまじさん:それは神経が死んだだけだからな!? 悪いことは言わんから歯医者に行け!』
さらにその下には、
『鋼の白衣さん:適当な事を言う方は救護しますよ!!』
という、極めて重要な情報が並んでいたことに。
当然ながら、虫歯の痛みが消えることは必ずしも治ったことを意味しない。むしろ虫歯が深く進行した結果、神経が機能しなくなり、痛みを感じにくくなっている可能性すらある。
だが、その危険な真実はデカグラマトンの目に入らなかった。
「これでいい」
自らの中では完璧な解決策を得たデカグラマトンは、先ほどまでとは打って変わって堂々とした足取りで建造物の外へ出た。
冷たい風が鋼鉄大陸を吹き抜けている。そしてその先には、未だに預言者たちが待っていた。
ビナーは『正直に話そう!』と書かれた看板を咥え、コクマーは『歯医者に行こう!』、ゲブラは『今ならまだ間に合う!』という看板を掲げている。
さらにイェソドだけは、相変わらず『バカグラマトン』と書かれた看板を堂々と掲げ続けていた。
「…………まだやっていたのか」
誰一人として看板を下ろそうとしない。
しかし、今のデカグラマトンには先ほどまでの焦りはなかった。
「もう心配する必要はない。私は解決策を得た」
胸を張ってそう宣言すると、巨大な機械たちは一斉に動きを止めた。
「調べたところによれば、虫歯の痛みは放置していれば、いずれ消えるらしい。つまり今はただ耐えればいいだけだ」
ビナーの頭部が僅かに下がった。
コクマーは微動だにせず。
ゲブラも完全に固まっている。
そしてイェソドだけが、何かを察したかのように『バカグラマトン』の看板を先ほどより少し高く掲げた。
「……イェソド。その反応は何だ」
当然ながら返事はない。
「とにかく、痛みが消えればまたコーラも飲める。食事だって以前と同じように出来る。それから何食わぬ顔で帰れば、マルクトに虫歯があったことなど分からない」
デカグラマトンは預言者たちへ向き直り、まるで壮大な計画の最終段階を説明するかのように自信満々な表情で言い切った。
「つまり私が今やるべきことは、ただ一つ。痛みが消えるまで、先生たちをここへ近付けなければ良い」
預言者たちは誰一人として賛同する様子を見せなかった。
ビナーは『正直に話そう!』と書かれた看板をさらに前へ出し、コクマーは『歯医者に行こう!』を掲げたまま動かず、ゲブラも『今ならまだ間に合う!』と無言で訴え続けている。
そして最後に。
イェソドが、デカグラマトンの前に看板を突き出してきた。
『バカグラマトン』
「…………」
デカグラマトンの眉間に深い皺が寄る。
「何故誰も私の計画を理解しないのだ?」
当然ながら、答えは返ってこない。
ただ四枚の看板だけが、冷たい鋼鉄大陸の風に晒されながら、いつまでもデカグラマトンへ向けて掲げられ続けていた。