レクイエム・フレーム   作:momomotototo

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第一話 異常生存

 

 あまりにも、静かだった。

 

 耳鳴りがない。

 

 あれほど頭の奥で鳴り続けていた、あの音が消えている。

 

 キィィィィィ――という不快な音も。

 

 脳を掻き回すような痛みも。

 

 何もない。

 

 ただ、崩れた建物の奥で、火花が弾ける音だけが小さく響いていた。

 

「……ぁ……」

 

 天音海斗は、ゆっくりと目を開けた。

 

 視界は暗い。

 

 赤黒い煙。

 

 割れた天井。

 

 崩れた鉄骨。

 

 砕けたコンクリート。

 

 自分はまだ、瓦礫の下にいた。

 

 喉が渇いている。

 

 視界は暗かった。

 

 自分はまだ、瓦礫の下にいる。

 

 喉はひどく渇いていた。

 

 肺も痛む。

 

 けれど、身体そのものが重いわけではなかった。

 

 むしろ、感覚だけが妙にはっきりしている。

 

 瓦礫の重さ。

 

 肌に張りついた血。

 

 指先に触れる砂粒のざらつき。

 

 その全部が、気味が悪いほど鮮明だった。

 

 だが。

 

 生きていた。

 

「……俺……」

 

 声が掠れる。

 

 何が起きたのか、すぐには思い出せなかった。

 

 灰色のFRAME。

 

 白い異形。

 

 女の声。

 

 生き残れ。

 

 何してでも。

 

 化け物になってでも。

 

 そして。

 

 白い肉。

 

「……っ」

 

 海斗は息を呑んだ。

 

 胃の奥が、ぐらりと揺れた。

 

 口の中に、まだ鉄の味が残っている気がした。

 

 血の味。

 

 肉の感触。

 

 喉を通っていく、あの生温かい塊。

 

「……う、ぁ……」

 

 吐き気が込み上げる。

 

 だが、何も出なかった。

 

 腹の奥だけが、熱い。

 

 まるで、そこに別の心臓ができたみたいに。

 

 どくん。

 

 小さく。

 

 身体の内側で、何かが脈打った気がした。

 

 海斗は、反射的に左腕へ意識を向けた。

 

 あの時。

 

 潰れていたはずだった。

 

 瓦礫に押し潰され、骨の奥をドリルで掻き回されるような激痛があった。

 

 動くどころか、考えるだけで吐きそうになるほど痛かった。

 

 なのに。

 

 今は、痛くない。

 

「……え」

 

 痛みがない。

 

 それどころか。

 

 普通に、感覚があった。

 

 指先。

 

 手のひら。

 

 手首。

 

 肘。

 

 全部、自分のものみたいに感じる。

 

 いや。

 

 自分の腕なのだから、当たり前のはずだった。

 

 なのに、その当たり前が気持ち悪かった。

 

 海斗は恐る恐る、左手の指先へ力を入れた。

 

 ぴくり。

 

 指が動く。

 

 その瞬間。

 

 上に乗っていた瓦礫が、ギ、と音を立ててズレた。

 

「……は?」

 

 海斗の呼吸が止まる。

 

 今、何をした。

 

 ただ、指を動かしただけだ。

 

 力を入れたつもりなんてない。

 

 なのに。

 

 身体を押し潰していたコンクリート片が、ほんのわずかに浮いていた。

 

 重いはずだった。

 

 何トンもあるはずだった。

 

 それなのに、左腕へ返ってくる感触は、異様なほど軽い。

 

 まるで。

 

 発泡スチロールを押しているみたいだった。

 

「……なんだよ……これ」

 

 声が震える。

 

 海斗は恐る恐る、左腕に力を込めた。

 

 ギギギ、と鉄骨が軋む。

 

 瓦礫が持ち上がる。

 

 持ち上がってしまう。

 

「嘘だろ……」

 

 さらに押し上げる。

 

 重低音。

 

 上に乗っていたコンクリートの塊が、あっさりと横へ傾いた。

 

 床へ落ちる。

 

 粉塵が舞った。

 

 空間が開く。

 

 赤い光が差し込む。

 

 海斗は、呆然としたまま、その隙間から這い出した。

 

 膝が瓦礫を擦る。

 

 手のひらが血で滑る。

 

 ようやく身体を起こして、海斗は左腕を見た。

 

 そこに、腕があった。

 

 血に汚れている。

 

 皮膚には裂けた痕が残っている。

 

 だが。

 

 潰れていない。

 

 折れていない。

 

 指が動く。

 

 手首が曲がる。

 

 肘も動く。

 

 何もかも、元に戻っている。

 

「……なんで」

 

 嬉しさはなかった。

 

 助かった。

 

 治っている。

 

 そう思うより先に、背筋が冷たくなった。

 

 自分の身体じゃない。

 

 そんな感覚だけが、胸の奥に沈んでいく。

 

 海斗は立ち上がろうとして、よろめいた。

 

 足元には、黒い血。

 

 砕けた装甲片。

 

 白く焼けた壁。

 

 赤黒い肉片。

 

 焦げた床には、無数の亀裂が走っている。

 

 天井の割れ目から、赤い空が覗いていた。

 

 火花が散るたび、崩れた教室の壁に影が揺れる。

 

 その中に。

 

 女がいた。

 

 少し離れた場所。

 

 崩れた壁にもたれるようにして、動かずに座っていた。

 

 長い銀灰色の髪。

 

 血に濡れた黒いインナースーツ。

 

 腹部を押さえた手の隙間から、乾きかけた赤が固まっている。

 

 首元には、神経コネクタの痕。

 

 背中には、沈黙した機械脊椎ユニット。

 

 さっきまで全身を覆っていた灰色の装甲は、もうそこにはなかった。

 

 赤い瞳は、海斗を見ていなかった。

 

「……あ」

 

 喉から、声にならない音が漏れた。

 

 分かっていた。

 

 分かっていたはずだった。

 

 あの時、女の身体から力が抜けた瞬間に。

 

 この人はもう助からないと、分かっていた。

 

 それでも。

 

 目の前で動かない姿を見ると、胸の奥が壊れたみたいに痛んだ。

 

 海斗はふらつきながら近づいた。

 

 一歩。

 

 砕けた装甲片が、靴の下で小さく鳴る。

 

 二歩。

 

 足元の血が、瓦礫の溝を伝って黒く広がっている。

 

 三歩目で、膝から力が抜けた。

 

 女の前に、崩れるように膝をつく。

 

 近くで見ると、彼女はひどく小さく見えた。

 

 さっきまで、あの白い異形の前に立っていた。

 

 あれほど速く、あれほど強く、手の届かない存在に見えた。

 

 なのに今は。

 

 血に濡れた髪が頬に張りつき、浅い呼吸さえ残っていない。

 

 ただの人間だった。

 

 自分と同じ。

 

 血を流せば死ぬ、人間だった。

 

「……なんで……」

 

 海斗は手を伸ばしかけて、止めた。

 

 触れてしまえば、本当に死んでいると分かってしまう気がした。

 

 それが怖かった。

 

 名前も知らない。

 

 何者なのかも知らない。

 

 どうして自分を助けたのかも、分からない。

 

 けれど。

 

 この人は、自分を守った。

 

 自分のために、戦った。

 

 自分の前で、死んだ。

 

「……っ……」

 

 息が詰まる。

 

 喉が震える。

 

 視界が滲んだ。

 

 一滴。

 

 涙が落ちる。

 

 灰と血で汚れた床へ、ぽたりと落ちた。

 

 それを見た瞬間、もう止まらなかった。

 

「ごめん……」

 

 声が掠れた。

 

「ごめんなさい……」

 

 何に謝っているのか、自分でも分からなかった。

 

 助けてもらったことか。

 

 生き残ってしまったことか。

 

 この人の名前すら知らないことか。

 

 それとも。

 

 あの白い肉を食べてまで、まだ生きている自分自身にか。

 

 答えは出ない。

 

 ただ、涙だけが落ちていく。

 

 ぽた。

 

 ぽた。

 

  その時、女の胸元で、何かが小さく揺れた。

 

 割れた認識票だった。

 

 煤と血で汚れ、端は焼け焦げている。細い鎖は途中で千切れ、黒ずんだ金属片だけが、かろうじてインナースーツに引っかかっていた。

 

 海斗は震える手を伸ばした。

 

 触れていいのか、迷った。

 

 けれど、そのまま置いていけば、瓦礫と血の中に埋もれてしまう気がした。

 

 認識票には、かろうじて白い文字が残っている。

 

 《GRIM REAPER》

 

 《REAPER-1》

 

「……リーパー……?」

 

 それが名前なのか、部隊なのか、海斗には分からなかった。

 

 ただ、その文字だけは目に焼きついた。

 

 海斗は、震える指で認識票をそっと摘んだ。

 

 握りしめるのが怖かった。

 

 今の自分が力を込めれば、この薄い金属片まで壊してしまいそうだった。

 

 だから、壊れ物に触れるみたいに拾い上げ、血で汚れた制服の胸元へしまう。

 

 この人が、確かにここにいた証。

 

 そう思うと、また涙が落ちた。

 

 海斗は女の前に膝をついたまま、しばらく動けなかった。

 

 赤い瞳は閉じられないまま、崩れた天井の向こうを見ている。

 

 その視線の先には、血のように赤い空があった。

 

 海斗は、血で汚れた自分の左手を見る。

 

 潰れていたはずの腕。

 

 戻ってしまった腕。

 

 もう普通ではないかもしれない身体。

 

 それでも、この手でまだ生きている。

 

 この人が残した命で、まだ息をしている。

 

 女の最後の言葉が、頭の奥で繰り返された。

 

 ――お前は、生き残れ。

 

 ――何してでも生きろ。

 

 ――化け物になってでもだ。

 

「……俺」

 

 声は震えていた。

 

 弱くて、情けなくて、自分でも嫌になるくらい掠れていた。

 

「……助かる」

 

 涙がまた落ちる。

 

 女は何も答えない。

 

 それでも、海斗は言った。

 

「必ず……助かるから……」

 

 約束だった。

 

 誰に届くのかも分からない。

 

 もう聞こえていないかもしれない。

 

 それでも、言わなければならなかった。

 

 このまま何も言わずに立ち去ったら、女が命をかけて残したものまで、自分が踏みにじってしまう気がした。

 

 海斗は震える拳を握った。

 

 手の中で、割れた認識票が小さく軋む。

 

「だから……」

 

 喉が詰まる。

 

 息が震える。

 

 それでも、吐き出す。

 

「……生きる」

 

 遠くで、また爆発音が響いた。

 

 戦場は、まだ終わっていない。

 

 海斗はゆっくりと立ち上がった。

 

 足元はふらついている。

 

 涙も止まっていない。

 

 それでも、前を見る。

 

 崩れた教室の出口。

 

 赤黒い煙の向こう。

 

 そこから先に、まだ道がある。

 

 生きる。

 

 女が命をかけて残した言葉を、無駄にしないために。

 

 海斗は、瓦礫を踏み越えて歩き出した。

 

 振り返らなかった。

 

 振り返れば、また動けなくなる気がした。

 

 崩れた教室の出口を抜けると、赤黒い煙が廊下の奥へ流れていた。

 

 廊下は、原形をほとんど残していなかった。

 

 天井の一部は崩れ落ち、剥き出しになった配線が赤黒い煙の中で火花を散らしている。床には割れたガラス片と焦げた教材が散乱し、踏み出すたびに靴底の下で乾いた音を立てた。

 

 壁際には、半分焼け落ちた避難誘導表示が残っている。

 

『地下シェルターへ――』

 

『地下シェ――避難――』

 

 壊れた音声だけが、同じ言葉を繰り返していた。

 

 数時間前まで、ここはただの学園の廊下だった。

 

 授業終わりの生徒たちが騒ぎながら歩き、教官に怒鳴られた誰かが実習棟へ走っていき、窓際では訓練場のSTRIKERを見て歓声が上がっていた。

 

 その全部が、今は血と灰の臭いに塗り潰されている。

 

「……」

 

 海斗は、無意識に左腕を見た。

 

 動く。

 

 普通に動く。

 

 指を曲げれば、曲がる。

 手首を捻れば、何の抵抗もなく動く。

 

 潰れていたはずの腕が、まるで最初から何もなかったみたいに、自分の身体へ戻っている。

 

 助かった。

 

 そう思うべきなのに。

 

 海斗は、その腕から目を離せなかった。

 

 皮膚の下で、何か知らないものが息をしているような気がした。

 

 自分の腕なのに。

 

 自分のものじゃない。

 

 それが、どうしようもなく気持ち悪かった。

 

 痛みはある。

 

 けれど、それは怪我の痛みではない。

 

 身体の奥で、力だけが余っているような感覚。骨の芯に熱が残り、皮膚の下で何かがまだ蠢いているような、説明できない違和感。

 

 海斗は拳を握った。

 

 骨が鳴る。

 

 思ったよりも大きな音だった。

 

「……なんなんだよ」

 

 小さく呟いた声は、赤煙に呑まれて消えた。

 

 歩くたび、視界の端に日常の残骸が映る。

 

 倒れた机。

 

 割れたホログラム教材。

 

 焦げた制服の切れ端。

 

 床に転がった訓練用ヘルメット。

 

 そのどれもが、数時間前まで確かに誰かのものだった。誰かが触れて、使って、笑いながら置いていったものだった。

 

 海斗は目を逸らした。

 

 見ていたら、足が止まりそうだった。

 

 生きる。

 

 女の言葉を、何度も胸の中で繰り返す。

 

 生きる。

 

 何してでも。

 

 そう思った時だった。

 

 ギチ。

 

 音がした。

 

 海斗の足が止まる。

 

 ギチ、ギチ。

 

 硬い爪が、床を引っ掻く音。

 

 人間の足音じゃない。

 

「……っ」

 

 息が詰まった。

 

 近い。

 

 すぐそこにいる。

 

 廊下の角。

 

 赤煙の奥。

 

 さっき海斗を襲った、あの四足の異形。

 

 喉の奥が凍りつく。

 

 ギチ。

 

 ギチギチ。

 

 音が、さらに鮮明になる。

 

 爪がコンクリートを削る音。

 

 濡れた喉が鳴る音。

 

 牙の隙間から漏れる呼吸。

 

 ぬちゃり、と唾液が落ちる音まで聞こえた。

 

 近い。

 

 近すぎる。

 

 海斗はゆっくりと顔を上げた。

 

 崩れた壁の向こう。

 

 赤煙の隙間。

 

 そこに、いた。

 

 四足。

 

 異様に長い前脚。

 

 裂けた口。

 

 白濁した複眼。

 

 黒く脈動する筋肉。

 

 異形が、ゆっくりと頭を上げる。

 

 海斗は、それと目が合った気がした。

 

「……ぁ」

 

 見つかった。

 

 そう思った瞬間、身体が動いていた。

 

 考えるより先に、足が床を蹴る。

 

 一歩。

 

 床が砕けた。

 

「え――」

 

 視界が流れる。

 

 速い。

 

 速すぎる。

 

 廊下の壁が、赤い線みたいに横へ飛んでいく。

 

 二歩目。

 

 コンクリートが蜘蛛の巣状に割れる。

 

 三歩目。

 

 身体がさらに前へ押し出された。

 

 自分の脚じゃない。

 

 自分の速度じゃない。

 

 呼吸が追いつかない。

 

 心臓だけが、やけに静かだった。

 

「止まれ……!」

 

 曲がり角が迫る。

 

 近い。

 

 速い。

 

 海斗は足を踏ん張ろうとした。

 

 だが、床が先に砕けた。

 

 靴底の下でコンクリートが弾け、身体が前へ滑る。

 

「止まれって……!」

 

 壁が迫る。

 

 白く焼けたコンクリート壁。

 

 曲がった鉄筋。

 

 割れた警告灯。

 

 全部が、一瞬で目の前に来た。

 

 止まれ。

 

 止まれ。

 

 止まれ。

 

 轟音。

 

 海斗の身体が、壁へ突っ込んだ。

 

 コンクリートが砕ける。

 

 鉄筋が曲がる。

 

 粉塵が爆ぜる。

 

 崩れた壁の向こう側へ、海斗の身体が転がり込んだ。

 

「がっ……!」

 

 床に叩きつけられる。

 

 肺から息が抜けた。

 

 瓦礫が背中に当たる。

 

 痛い。

 

 確かに痛い。

 

 だが。

 

 折れていない。

 

 潰れていない。

 

 死んでいない。

 

 海斗は粉塵の中で、荒く息を吐いた。

 

 目の前には、自分が突き破った壁があった。厚いコンクリートは内側から爆ぜたように砕け、曲がった鉄筋が肋骨みたいに剥き出しになっている。

 

 人間がぶつかって壊せるものではない。

 

 少なくとも、昨日までの海斗なら、壁にぶつかった時点で骨が折れていた。肺が潰れて、立ち上がることさえできなかったはずだ。

 

 なのに、今は違う。

 

 痛い。

 

 けれど、壊れていない。

 

 壊れたのは、壁の方だった。

 

「……なんだよ、これ」

 

 声が震える。

 

 左腕だけじゃない。

 

 身体全部が、おかしい。

 

 力も。

 

 速度も。

 

 痛みも。

 

 何もかも、知っている自分と違っていた。

 

 海斗は震える手で胸元を押さえた。

 

 服の下。

 

 腹の奥。

 

 そこが、まだ熱い。

 

 どくん。

 

 また、小さく何かが脈打った気がした。

 

「やめろ……」

 

 歯を食いしばる。

 

「勝手に……動くなよ……」

 

 返事はない。

 

 ただ、身体だけが生きている。

 

 自分より先に。

 

 自分の意思より先に。

 

 生きようとしている。

 

 それが、怖かった。

 

 粉塵が少しずつ薄れていく。

 

 崩れた壁の穴から、外が見えた。

 

 焼けたグラウンド。

 

 ひしゃげた訓練用STRIKERの残骸。

 

 倒れた照明塔。

 

 赤い煙。

 

 そのさらに向こう。

 

 崩壊した校舎の外縁部。

 

 そこに、四足の異形がいた。

 

 遠い。

 

 あまりにも遠い。

 

 少なくとも、数百メートルは離れている。

 

「……は?」

 

 海斗は言葉を失った。

 

 さっき、すぐ近くだと思った。

 

 廊下の角にいると思った。

 

 目が合ったと思った。

 

 息遣いまで聞こえた。

 

 唾液が落ちる音まで聞こえた。

 

 なのに。

 

 違った。

 

 異形は、ずっと遠くにいた。

 

 遠くにいるはずだった。

 

 それなのに、今も聞こえる。

 

 ギチ。

 

 ギチ、ギチ。

 

 爪が瓦礫を掻く音。

 

 濡れた呼吸。

 

 喉の奥で鳴る、低い唸り。

 

 近い。

 

 遠い。

 

 分からない。

 

 音が近すぎる。

 

 視界が鮮明すぎる。

 

 異形の白濁した複眼が、微かに動くのまで見えてしまう。

 

 海斗の背筋に、冷たいものが走った。

 

「……嘘だろ」

 

 近かったのは、異形じゃない。

 

 おかしかったのは、距離じゃない。

 

 自分の感覚だった。

 

 海斗は後ずさった。

 

 砕けた壁の破片が、足元で崩れる。

 

 手が震えている。

 

 膝も震えている。

 

 なのに、身体の奥だけは熱い。

 

 生きろ。

 

 そう急かすみたいに。

 

 動け。

 

 逃げろ。

 

 まだ終わっていない。

 

 海斗は唇を噛んだ。

 

「……なんなんだよ、俺……」

 

 赤い煙が流れ込む。

 

 遠くで異形が、ゆっくりとこちらを向いた。

 

 今度こそ。

 

 本当に、見られた気がした。

 

 海斗は息を殺し、崩れた壁の陰へ身を沈めた。

 

 外では炎が揺れている。

 

 壊れた学園のどこかで、警報がまだ鳴っている。

 

 その音に混じって、別の音が聞こえた。

 

 重い足音。

 

 規則正しい駆動音。

 

 人間の声。

 

 無線のノイズ。

 

 海斗は思わず顔を上げた。

 

 誰かが来る。

 

 人間だ。

 

 救助かもしれない。

 

 助かるかもしれない。

 

 そう思った瞬間。

 

 胸の奥で、何かがまた小さく脈打った。

 

 どくん。

 

 嫌な予感だけが、消えなかった。

 

 重い足音が、近づいてくる。

 

 一定の間隔で床を踏む、硬い駆動音。

 

 瓦礫を踏み砕く音。

 

 そして、ノイズ混じりの人間の声。

 

『第十三戦術学園、B-17区画に到達』

 

『周辺クリアリング開始』

 

『生存者反応を再確認』

 

 海斗は、崩れた壁の陰で息を止めた。

 

 人間だ。

 

 軍だ。

 

 助けが来た。

 

 そう思った瞬間、全身から力が抜けそうになった。

 

「……助かる……」

 

 掠れた声が、喉から漏れる。

 

 ようやく。

 

 ようやく終わる。

 

 もう逃げなくていい。

 

 もう、あの異形に怯えなくていい。

 

 あの女の言葉を、無駄にしなくて済む。

 

 海斗は震える足に力を入れ、壁に手をつきながら、ゆっくりと身体を起こした。

 

 崩れた廊下の向こうから、白いライトが差し込む。

 

 眩しい。

 

 思わず目を細める。

 

 光の向こうに、複数の人影が見えた。

 

 全身を覆う黒灰色の防護装備。

 

 ヘルメット。

 

 呼吸フィルター。

 

 手には小銃。

 

 救助隊にしては、あまりに物々しかった。

 

 担架もない。

 

 医療キットも見えない。

 

 彼らが持っているのは、人を運ぶための装備ではなく、人を撃つための銃だった。

 

 海斗にも、それだけは分かった。

 

 それでも。

 

 人間だった。

 

 そこにいるのは、化け物じゃない。

 

 人間だった。

 

「……こ、こっち……」

 

 声を出そうとする。

 

 だが喉が乾き切っていて、まともな声にならない。

 

 代わりに、足元の瓦礫が小さく鳴った。

 

 それだけだった。

 

 しかし、兵士たちは一斉に反応した。

 

『反応あり』

 

『前方、崩落壁内部』

 

『生存者反応、一』

 

『対象、学生服。負傷あり』

 

 ライトが、海斗の顔を照らす。

 

「……っ」

 

 眩しさに顔を歪めながら、海斗は震える手を上げた。

 

 血に汚れた右手。

 

 戻ってしまった左腕。

 

 灰と赤黒い汚れにまみれた制服。

 

 自分が敵ではないと示したかった。

 

 助けてほしかった。

 

 ただ、それだけだった。

 

「俺……生きて……」

 

 言葉にならない声。

 

 喉の奥で、掠れて消える。

 

 だが。

 

『待て』

 

 兵士の声が変わった。

 

 短く、硬い声だった。

 

『対象からCHORUS反応』

 

『濃度、危険域』

 

 その瞬間。

 

 空気が変わった。

 

 それまで近づこうとしていた足音が止まる。

 

 ライトの角度が変わる。

 

 銃口が、上がった。

 

 カチャ、と。

 

 安全装置が外れる音がした。

 

「……え」

 

 海斗は理解できなかった。

 

 何を言っている。

 

 誰のことを言っている。

 

 CHORUS反応。

 

 危険域。

 

 対象。

 

 その言葉が、自分に向けられているのだと気づくまで、少し時間がかかった。

 

『撃て』

 

 短い声だった。

 

 海斗の呼吸が止まる。

 

『待ってください、学生です』

 

 別の兵士の声が入る。

 

 若い声だった。

 

 迷いが滲んでいた。

 

 だが、すぐに別の声が返る。

 

『さっきもそう見えただろ』

 

 低く、押し殺した声。

 

 震えていた。

 

 怒りなのか、恐怖なのか、海斗には分からなかった。

 

『泣いてた。助けてくれって言ってた。近づいた瞬間、胸が割れて中から出てきた』

 

 沈黙。

 

 赤黒い煙の中で、ライトだけが揺れている。

 

『撃て。近づけるな』

 

 白い光の向こうで、銃口が揺れずに海斗を捉えていた。

 

「違う……」

 

 海斗は首を振った。

 

「俺は……違う……」

 

 だが、兵士たちの声は冷たい。

 

『対象、発声確認』

 

『誘引行動の可能性』

 

「違う!」

 

 叫んだ声は、泣き声みたいに掠れていた。

 

 自分でも情けなくなるほど、震えていた。

 

 海斗は両手を上げたまま、一歩下がる。

 

 ただ怖かった。

 

 撃たれたくなかった。

 

 死にたくなかった。

 

 それだけだった。

 

 だが、兵士たちはさらに銃口を上げる。

 

『後退した』

 

『逃走準備』

 

『撃て』

 

「やめろ……!」

 

 腹の奥が熱くなる。

 

 どくん。

 

 撃たれる。

 

 その実感が、遅れて全身を冷たく貫いた。

 

 逃げたい。

 

 今すぐ、この銃口の前から消えたい。

 

 だが、動けば撃たれる。

 

 逃げれば、もう本当に人間として見てもらえなくなる。

 

 海斗は歯を食いしばった。

 

 足が震える。

 

 指先が強張る。

 

 ほんの少し後ずさっただけなのに、兵士たちの銃口はさらに上がっていた。

 

 ただ、怖かった。

 

 撃たれたくなかった。

 

 死にたくなかった。

 

 それだけだった。

 

 なのに。

 

 このままここにいたら、撃たれる。

 

 殺される。

 

 人間としてではなく。

 

 怪物として。

 

 銃口が並ぶ。

 

 ライトが眩しい。

 

 警告音が鳴る。

 

 兵士たちの呼吸音まで聞こえる。

 

 誰かの指が、引き金へかかる音すら聞こえた気がした。

 

「俺は……」

 

 喉が震える。

 

 声が出ない。

 

 胸の奥で、女の言葉が蘇る。

 

 ――化け物になってでもだ。

 

 違う。

 

 違う。

 

 違う。

 

 俺は、まだ。

 

 まだ、人間だ。

 

「俺は……人間です」

 

 その言葉は、崩れた廊下に小さく落ちた。

 

 誰も答えなかった。

 

 兵士たちの銃口は下がらない。

 

 ライトは眩しいほど白く、赤黒い煙の中で警告音だけが鳴り続けている。

 

『対象、CHORUS反応継続』

 

『生存者判定を撤回』

 

『汚染個体として処理』

 

『発砲許可』

 

 生存者判定を撤回。

 

 その言葉が、海斗の胸を冷たく刺した。

 

 さっきまで、自分は助けられる側だった。

 

 だが今は違う。

 

 撃たれる側だ。

 

「……違う」

 

 声が、喉の奥で潰れる。

 

 自分の左腕を見る。

 

 潰れていたはずなのに、戻ってしまった腕。

 

 瓦礫を押し上げた腕。

 

 壁を砕いた身体。

 

 遠すぎる音を拾う耳。

 

 自分でも、説明できない。

 

 何も答えられない。

 

 それでも。

 

 それでも、海斗は人間だった。

 

 そのはずだった。

 

 腹の奥が、さらに熱くなる。

 

 どくん。

 

 海斗の足が、ほんのわずかに床を掴んだ。

 

 逃げたい。

 

 そう思ってしまった。

 

 その瞬間、足元のコンクリートが小さく軋む。

 

 ほんの少し力を入れただけだった。

 

 だが、強化された身体は、その“少し”さえ許してくれない。

 

 海斗はそれに気づき、顔を歪める。

 

「……やめろ」

 

 自分に向けて言った。

 

 これ以上、力を入れるな。

 

 これ以上、動くな。

 

 そう言い聞かせるように。

 

 だが、兵士たちはその小さな動きを見逃さない。

 

『対象、姿勢変化』

 

『発砲準備』

 

 銃口の奥が、黒く見えた。

 

 その瞬間。

 

 海斗の中で、恐怖が限界を超えた。

 

 逃げなければ。

 

 撃たれる。

 

 殺される。

 

 海斗は、息を吸った。

 

 そして。

 

 白いライトの中で、足元の床が、ひび割れた。

 




STRIKER(汎用高機動型)

コンセプト

万能型。
最も“人型”に近い。

シルエット

細身。
無駄がない。
近未来特殊部隊。

特徴

* 最も軽量
* 高機動
* 人体ラインが見える
* 装甲は必要最低限
* 背部に標準脊椎ユニット

イメージ

* 黒〜灰色
* 発光ライン少なめ
* 高速機動時だけ粒子光
* ヘルメットは流線型

戦闘

* ブレード
* 突撃銃
* 高周波短刀
* 一撃離脱

また背中に

背部スラスターあり

ただし、

* 短距離高機動
* 地上立体機動
* 瞬間加速
* 壁蹴り
* 跳躍補助
用となっている。
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