ゴーシュキラー! 作:ナナッシー
原作のカンピオーネも大体そう
生と死が、あまりにも無造作に交錯する場所だった。
インドの古都ヴァーラーナシーまたの名をベナレス。ヒンドゥー教徒にとっての至高の聖地は、夕暮れ時の強烈な熱気に包まれていた。
ガンジス川の西岸に沿ってどこまでも続く、石造りの階段。その数ある階段の一つ、ダシャーシュワメード・ガートでは、神々に捧げる日没の祈りの儀式であるアルティが始まろうとしていた。夜の帳が下りる寸前の紫色の空の下、何百もの真鍮の燭台に火が灯され、朗々と響き渡るマントラの合唱と、激しい鐘の音が聖地の空気を震わせる。すぐ近くのマニカルニカー・ガートからは、二十四時間絶えることなく死者を焼き続ける薪の煙が、どろりと重く立ち上っていた。
だが、その聖なる日常は、一瞬にして天の怒りによって消し飛ばされた。
ゴロゴロ、と世界そのものが軋むような地鳴りが響いた。
マントラの合唱がぴたりと止まる。観光客や巡礼者たちが一斉に天を仰いだ。
夕焼けの茜色を強引に塗りつぶすようにして、天空の裂け目から墨汁を流したような漆黒の雷雲が急速に湧き出し、ヴァーラーナシーの街を完全に覆い尽くした。
ドガァァァァン!!!
閃光。鼓膜を物理的に破壊せんばかりの雷鳴が炸裂し、古い石造りの寺院群が激しく震える。
異常なのはそれだけではない。聖なるガンジス川の濁流が、まるで下から巨大なバーナーで炙られたかのように、ぶくぶくと泡立ち、激しく逆巻き始めたのだ。死者を弔う火葬場の煙は、大気中に充満する圧倒的な静電気によって青白く発光し、プラズマの霧となって辺りに立ち込める。
人間たちがパニックを起こして逃げ惑う中、ガートの最上段に一人の少年が立っていた。
黒い外套を羽織ったその少年は新たなる魔王として、神殺しの列に加わった彼は、不快そうに顔をしかめ、迫り来るオゾン臭を肺に吸い込んだ。
「……アーサー王の次は、インド神話の元・最高神かよ。ずいぶんと景気のいいお出ましじゃねえか、酔っ払いオヤジ」
彼の名は伏せるが、その身に宿る神殺しの特権は本物だ。先のロンドンにおけるまつろわぬアーサー王との死闘により、かつてメキシコで失明したはずの右目は、簒奪した『アヴァロンの鞘』の超回復によって完全な視力を取り戻している。だが、彼はあえて右目の視力を意識的に抑え、北欧の主神オーディンから奪った英知の魔力を、左目の奥へと集中させていた。彼の左目は、冷徹な青い魔火を宿してぎらついている。
彼が視線を向けた先、沸騰するガンジス川の真上、雷雲を割ってそれは降臨した。
巨大な、山と見紛うばかりの三本の牙を持つ白い神象アイラーヴァタ。その背に跨るようにして座しているのは、黄金の頑強な肌と、はち切れんばかりの筋骨逞しい肉体を持つ、傲岸不遜な巨漢だった。
衣服は赤く、絢爛豪華な宝石を無数に身に纏っている。だが、その何よりも異様なのは、彼の顔面、両腕、胸筋、そして露出した全身の至る所に、不気味に蠢く一千の眼の紋様が浮き上がっていることだった。千の目すべてが、獰猛な意思を持って彼を睨みつけている。
その右手に握られているのは、触れるだけで周囲の空間を火花で歪ませる、兵器ヴァジュラ。
まつろわぬ神、インド最古の雷霆神インドラ。またの名を帝釈天。
「ハハハハハ! 良いな、実に良い! 地に這う東方の魔王よ! 我が雷霆の前に、退屈な夜を吹き飛ばすだけの戦いを見せてみよ!」
インドラは豪快に笑い飛ばした。その声自体が、ヴァーラーナシーのすべての建造物を物理的に破壊しかねない衝撃波となって吹き抜ける。ガートに並べられていた真鍮の燭台が次々と吹き飛び、ガンジス川の水面が大きく割れた。
「諸神の王、ねえ。ずいぶんと懐かしい全盛期の肩書きを引っ張り出してきたじゃねえか」
彼は護岸の石畳を強く踏みしめ、全身の呪力を駆動させた。
「だけど、その千の目ん玉、全部ひっくり返るような現実を見せてやるよ。神話の時代の王様が、現代の聖地で暴れるんじゃねえ!」
「ぬかせ若造! 我がヴァジュラの錆となれ!」
インドラが右手の金剛杵を軽く一振りした。
それだけで、天空の雷雲から数百万ボルトの青白い電光の束が、彼の頭上に向けて容赦なく収束爆撃された。
ドォォォォン!!!
彼がいたガートの最上段が、一瞬で超高温のプラズマによって爆砕され、ガラス状に融解した。
だが、その瞬間に彼はすでに地上にはいなかった。
「『天を回れ、生命を運ぶ緑の息吹よ』!!」
彼が紡いだのは、メソアメリカの最高神ケツァルコアトルから簒奪した第三権能『天を駆ける天翼の蛇風』の言霊だ。
彼の背後に、まばゆいエメラルドグリーンに輝く光の羽毛の翼が爆発的に展開される。物理的な空気抵抗と重力を完全にゼロにする神速の加護。彼は一陣の緑の嵐となり、インドラが放った雷撃の網目を縫うようにして、垂直に天空へと飛翔した。
「スピード勝負なら負けねえよ! 零距離からアポロンの弓で」
空中を音速で駆け抜け、白象の背に乗るインドラの完全な死角、真後ろへと回り込もうとした、その瞬間だった。
バチバチバチッ!!!
突然、彼の背負うエメラルドの光翼が、何の前触れもなく激しく火花を散らして炭化し始めた。
「っ!? なんだ、これ……!?」
驚愕が彼を襲う。まだインドラの雷撃には触れてすらいない。ただ、インドラの周囲に立ち込める静電気の霧に近づいただけで、ケツァルコアトルの呪力が悲鳴を上げ、翼の輝きが急速に失われていくのだ。
それと同時に、インドラの放った青白い雷霆が、まるで意志を持つ蛇のように空中で不自然に直角に軌道を曲げ、猛烈な速度で彼を追尾してきた。
「ハハハハ! 甘いわ魔王! 貴様の持つその翼、どこかで見覚えのあるヴリドラの匂いがするぞ!」
インドラが振り返りもせず、背後の彼に向けてヴァジュラを突き出す。
「我がヴァジュラの前で、大蛇の真似事など片腹痛いわ! 落ちよ、虫けらが!」
(忘れてた、最悪だ……!)
彼の脳内で、オーディンの英知が警告のアラームを最大音量で鳴らした。
インドラという神の最も有名な偉業。それは、世界中の水を体内に閉じ込め、世界を過酷な干魃で苦しめていた巨大な魔蛇ヴリトラを退治したことだ。すなわち、インドラという概念の本質の一つは、強力無比な蛇殺し。
対して、彼が今使っているケツァルコアトルは、メソアメリカにおける『羽毛ある大蛇』。
どれほど最高神の格を持っていようとも、『蛇』の属性を持つ以上、インドラの雷霆は彼にとって掠っただけで致命傷になりかねない究極の天敵として機能してしまうのだ。
「クソッ、属性相性が最悪なんてレベルじゃねえ……!」
必死に翼を羽ばたかせ、重力制御で軌道を逸らそうとするが、追尾する雷霆の速度が上回る。
ドガァァン!と、右側の光翼に雷撃が直撃した。
それだけで、ケツァルコアトルの権能が強制解除され、エメラルドの光は消滅。彼は生身の身体のまま、激しい衝撃とともにヴァーラーナシーの上空数百メートルから、沸騰するガンジス川へと真っ逆さまに叩き落とされた。
ザブァァァァン!!!
ガンジス川の濁流に激しく叩きつけられ、水底の泥に背中を打ち付ける。
普通の人間の肉体なら水面の衝撃だけで肉片に変わっていただろうし、通常カンピオーネであっても骨折は免れない。だが、水中に沈む彼の肉体は、すでに次の呪力を完全に起動させていた。
「『消え去りし白銀の鞘よ、原初の緑の島へと還れ。我が身は朽ちず、我が血は流れず。常若の異界よ、冬の眠りを以て我が傷を塞げ。溢れよ生命』……!」
イギリスの騎士王から剥ぎ取った第四の権能『不死を誓う常若の島』
その言霊が水中で唱えられた瞬間、ガンジス川の濁流の中に、熱帯のインドには絶対に存在するはずのない、冷涼で清らかなケルトの常若の緑の霧が爆発的に混ざり合った。
彼の肉体に、アーサー王の不死身の鞘の概念が完全に定着する。雷撃によって焼き焦げ、皮膚が炭化していた彼の右半身が、文字通り秒速で新しい細胞へと作り替えられ、無傷の状態へと戻っていく。骨の軋みも、内臓のダメージも、発生した先からすべて消滅していく。
「よし、スピード勝負がダメなら、泥仕合だ」
彼はガンジス川の水面を爆発させて、再び飛び出した。
水面に立ち、目の前の白象を見上げる。インドラは彼が五体満足で戻ってきたのを見て、一瞬だけ驚きに千の目を丸くしたが、すぐに楽しげに顔を歪めた。
「ほう? 我が雷を浴びてなお、傷一つないか。西方の不壊の鞘の逸話だな! ならば、どちらの命数が先に尽きるか、力比べといこうじゃないか!」
「受けて立つよ、クソオヤジ。ただし、俺はただ殴られるだけじゃねえぞ!」
彼はアヴァロンの超回復を起動したまま、今度は掲げた右手にドス黒い呪力を収束させた。
ギリシャの太陽神アポロンから簒奪した第二権能『不浄なる病魔の黒弓』の具現化だ。
漆黒の木製長弓が彼の手に現れる。
本来、この弓は使うだけで体内が沸騰し、呪力が腐食するという凄まじい自傷ダメージを伴う、諸刃の剣だった。使うたびに血を吐き、寿命を削られる激痛に耐えなければならなかった。
だが、今の彼には『アヴァロン』がある。
ミシミシ、と彼が黒弓の弦を限界まで引き絞る。彼の体内でアポロンの疫病の呪いが暴れ狂い、細胞を内側から焼きにかかる。しかし、そのダメージが発生したコンマ一秒後には、アヴァロンの不死の加護と超回復が、その破壊された細胞を完全に修復し尽くしていた。
激痛が、リアルタイムで相殺されていく。脳が痛みを認識する前に、肉体が無傷に戻るのだ。
「痛みが……ねえ! これなら、いくらでも撃てる!」
彼は人間固定砲台と化した。
パァン! パァン! パァン! と、空間を切り裂くような弦音が連続して響き渡る。
放たれたのは、漆黒の疫病の矢。それは空中で分裂し、数万、数百万匹の黒いネズミの霊体となって、ガンジス川の水面を黒く染め上げながらインドラへと押し寄せた。ネズミの津波が、インドラの跨る白象アイラーヴァタの脚に群がり、その強固な神の肉体をガリガリと腐食させ始める。
「オオオオオオオ!」
インドラが吼え、ヴァジュラを力任せに振り下ろした。
絶対的な破壊の雷霆が、彼の胸の真ん中を直撃する。ドガァッ!と、彼の胸骨が粉砕され、心臓が物理的に停止した。だが、彼は血の一滴すら流さない。アヴァロンの加護により、破壊された心臓は即座に脈動を取り戻し、ひしゃげた胸骨は一瞬で結合する。
彼は無傷のまま、さらに黒弓を引き絞り、病魔の矢を連射し続けた。
ヴァーラーナシーのガンジス川が、インドラの放つ青白い雷と、彼が放つ黒いネズミの呪縛によって真っ二つに割れる。神殺しの魔王と、インドの戦神による、常軌を逸した不滅の泥仕合が始まった。
だが、不敗のゾンビ戦法は、長くは続かなかった。
「フハハハハ! 素晴らしい回復力だ! だが、我が千眼の前で、同じ手が何度も通じると思うなよ!」
インドラが叫んだ瞬間、彼の全身の肌に浮き上がっていた一千の眼が、ギラリと怪しく、同時に発光した。
その千の目が一斉に彼を捉えた瞬間、彼は全身の毛穴が逆立つような強烈な悪寒を覚えた。
(……な、んだこれ……呪力の流れが、全部読まれてる……!?)
インドラの持つ千眼の権能。それは単に視野が広いというレベルのものではない。
戦場に存在するすべての因果、呪力の僅かな兆候、筋肉の微小な収縮、そして彼が次に展開しようとする魔術の構成までを、一千の視線によって完全に見切る究極の心眼だった。
「そこだ!」
彼が死角から狙撃しようと放ったアポロンの矢の軌道を、インドラは一切見ることもなく、ヴァジュラの一振りで完璧に叩き落とした。それどころか、ネズミの群れがどの方向から跳躍してくるかをすべて予知し、的確に雷の防壁を展開して塵へと変えていく。
さらに、インドラはヴァジュラの出力を、これまでの数倍へと一気に引き上げた。
「これぞ、世界を閉じ込めしヴリトラを砕きし一撃! 貴様の鞘の再生速度が勝るか、我が雷の純度が勝るか、試そうではないか!!」
「冗談じゃない!!」
ドガガガガガガガガガガガガッ!!!!!
天空から、一本一根がビルの太さほどもある極大の雷霆が、一本の隙間もなく彼に向けて飽和連射された。
「く、あ、あああああああッ!!!」
逃げ場はない。神速の翼は使えない。アヴァロンの加護があるため、彼は血を流すことだけは免れていた。しかし、あまりにも圧倒的な熱量とエネルギーの連続投下により、彼の肉体は再生した瞬間に、次のコンマ一秒でプラズマに焼かれて炭になるという、地獄の無限のリンチ状態に陥った。
肉体が消滅と再生の限界領域でせめぎ合い、脳が過負荷で白く染まっていく。
アヴァロンの緑の霧が、インドラの絶対的な火力の前に徐々に蒸発し、押し負け始めているのが分かった。このままでは、アヴァロンの命数が尽きるか、あるいは再生の概念ごと肉体を完全に無にされる。
(正面からの殴り合いじゃ……この脳筋の戦闘狂に、絶対に勝てねえ……!)
彼は炭化しかける身体を無理やり動かし、濁流の中に膝を突いた。
(だったら、やることは一つだ……。ジジイ、お前の権能の出番だ。あの千の目ん玉の奥にある、歴史の傷跡を弾き出せ……!)
彼は右目の視力を再び完全に遮断し、自らの内なる権能の知恵を限界まで駆動させた。
視界が、雷の白光によって完全に焼き潰される。
だが、その絶対的な光の苦痛の中で、彼の脳内には、冷徹極まりない知識の深海が広がっていた。
北欧の主神オーディンから簒奪した第一権能その第1の力『万象を見通す双翼の眼』
それは、目の前の神が内包する神話の歴史を解剖し、その最大の欺瞞と弱点を暴き出す言霊の英知。彼の思考は、現代のヴァーラーナシーの喧騒を離れ、数千年の時間を遡って、インド神話の栄光と没落のクロニクルを超高速でめくり始めた。
(インドラ、お前は、今でこそヒンドゥー教において三主神の下に位置する、よく負ける神に過ぎない。だが、古代のインダス川流域において、お前は間違いなく、世界のすべてだった)
歴史の最初のページが開く。
紀元前千五百年頃、中央アジアからインド亜大陸へと侵入してきたインド・アーリア人。彼らが携えていた最古の聖典『リグ・ヴェーダ』。
その全賛歌の実に四分の一、およそ二百五十篇以上が、ただ一柱の神インドラという戦神の栄光を讃えるために捧げられている。
その時代のインドラは、まさに最強の代名詞だった。
彼はアーリア人の移動と征服を象徴する神であり、先住民族の強固な城塞を次々と打ち砕くことから、城塞破壊者と畏怖された。
金髪ひげを蓄え、神酒ソーマを浴びるように飲み、ヴァジュラを振るって巨大な大蛇ヴリトラを屠り、世界に光と水をもたらした。彼こそが、神々の王であり、世界の絶対的な支配者だったのだ。その全盛期のお前には、いかなる神も、いかなる魔族もひざまずくしかなかった。
(だが、時代はお前を裏切った。いや、人間がお前を必要としなくなったんだ)
歴史のページが、残酷にめくられていく。
アーリア人がインドの土地に定住し、過酷な征服戦争の時代が終わり、安定した農耕社会が始まると、インドラの持つ征服と破壊の雷は、次第に時代遅れの野蛮な力とみなされるようになっていった。人々の崇拝は、世界の根本原理や宇宙の維持、生命の循環を司る、より洗練された新たな神々へと移り変わる。
そうして台頭してきたのが、世界の破壊と再生を司る絶対神シヴァ、そして宇宙の維持神ヴィシュヌだった。
後世の巨大な叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』の時代になると、インドラのポジションは見る影もなく失墜していく。
かつて全能を誇った神々の王は、シヴァやヴィシュヌの超絶的なパワーの前には何度も何度も敗北し、格下の魔族にすら王座を追われ、そのたびに三主神の元へと泣きつき、助けを求めるという、哀れで情けないトラブルメーカーの役回りにまで零落させられた。かつての主神は、新世代の神々の偉大さを引き立てるための引き立て役に成り下がったのだ。
(そしてお前が今、俺を追い詰めているその一千の眼。これこそが、お前の神話における、最も恥ずべき去勢と恥辱の証だ)
オーディンの英知が、インドラの神核の最も深い傷に指を突き立てた。
インドラの神話における、ある有名なスキャンダル。
傲慢な神々の王であったインドラは、偉大な聖仙であるゴータマの妻、アハリヤーという美女に目をつけた。彼女を我が物にしたいと欲望したインドラは、聖仙が留守にした隙を狙い、ゴータマ聖仙の姿に変装して彼女の寝所に忍び込み、騙して姦通した。
だが、すべては聖仙に露見した。
自身の妻を穢されたことに激怒したゴータマ聖仙は、神々の王であるインドラに対し、あまりにも凄まじく、そして屈辱的な呪いを言い渡した。
『情欲に溺れ、不倫の快楽に魂を売った好色極まりない王よ。お前のその身体に、お前が愛してやまないものの形を刻んでやる』
聖仙の呪いによって、インドラの全身の皮膚に浮かび上がったもの。
それは眼などではなかった。一千の女性の陰門。
全身を、おぞましい情欲の象徴である性器の紋様で埋め尽くされた神々の王。彼はそのあまりの恥ずかしさと醜さに絶望し、世界の果てへと逃げ隠れて、シヴァや他の神々に泣いて許しを請うた。
後に神々が彼を哀れみ、その全身の悍ましい一千の陰門を、呪いの性質を書き換えることで目ん玉に変えてやったからこそ、今のお前は千眼の神を名乗れている。
つまり、その千の目は、世界を見通す栄光の証などではない。
「好色な不倫の末に、聖仙の怒りによって刻まれた、消えない恥辱の傷跡」に過ぎないのだ。
(それだけじゃない。お前はインドの地すら追い出され、別の宗教のシステムに組み込まれた)
最後のページが開く。
仏教という新たな思想の誕生。インドラはその強大な武力を買われ、仏教の守護神へと取り込まれた。
名前は帝釈天。
かつて生贄の肉を貪り、血の海を好んだ最強のアーリア人の戦神は、仏教の開祖ブッダの教えに感化され、仏法と寺院を守るためのただの守護神へと完全に変化させられた。荒々しい牙と野性を完全に抜かれ、お前は仏教という巨大なシステムの一部として管理される、都合の良い従属神に成り下がったのだ。
(見えたぞ、酔っ払いオヤジ。お前の千の目の正体も、お前が主神の座を追われた歴史の傷跡も。お前は最強の王なんかじゃない。時代に裏切られた、哀れな過去の遺物だ。その千の目の奥に眠る、恥辱の記憶を、いま一度呼び覚ましてやるよ!)
彼の左目の奥で、青い魔火が爆発的に燃え上がった。
すべてのパズルのピースは揃った。彼は濁流の中から、ガチガチと骨を鳴らしながら立ち上がった。
「オオオオオオオオオッ!!!」
大気を引き裂くような咆哮とともに、彼はガンジス川の水面を激しく蹴り上げた。
全身をインドラの飽和雷撃に焼かれ、皮膚が剥がれ落ち、肉が蒸発していくそばから、アヴァロンの加護が強引に肉体を再生させる。彼はその地獄のような苦痛の中で、左目の魔火をインドラの全身の千眼に向けて真っ直ぐに放射した。
「目を覚ませ、インドラ!!」
彼の喉から、世界の因果そのものを書き換える、オーディンの神話解体の言霊が激唱された。ヴァーラーナシーの夜空に響き渡るその声は、インドラの周囲の静電気の霧を物理的に吹き飛ばしていく。
「お前は世界を統べる無敵の主神じゃない! お前が誇るその一千の眼は、世界を見渡す栄光の目なんかじゃない! 聖仙ゴータマの妻を寝取った罰として全身に刻まれた、恥辱の紋様だ!!」
「な、にっ……!? 貴様、それを、どこで」
インドラの顔が、初めて恐怖と驚愕に歪んだ。
瞬間、インドラの全身で不気味に蠢いていた一千の眼が、激しい拒絶反応を起こすように、一斉に血の涙を流し始めた。
「それは目ではない! 恥辱の傷跡だ! 思い出せ、インドラ! お前はシヴァとヴィシュヌに敗北して主役の座を追われ、最後はブッダの門番へと成り下がった、哀れな道化だ! かつてのリグ・ヴェーダの栄光は、もうお前の中には一滴も残っちゃいねえんだよ!!」
「グ、グアアアアアアアアアアッ!!!!!」
インドラが凄まじい悲鳴を上げて両目で顔を覆った。
言霊が世界の因果を上書きする。それは目ではないというオーディンの知恵の圧力が、インドラのすべてを見切る心眼の権能を破壊したのだ。一千の目が互いに視界を狂わせ、インドラの脳内に強烈な目眩と、数千年前の聖仙の呪いの激痛がリアルタイムで蘇る。
すべてを見切る包囲網が、一瞬で崩壊した。
それだけではない。インドラの身体から放たれていた黄金の覇気が、言霊の力によってベリベリと剥がされていく。彼の纏う豪華な衣装の向こうに、仏教の守護神帝釈天の地味な法衣の幻影が重なり、彼の持つヴァジュラの出力がみるみるうちに減退していった。
蛇殺しの絶対的な特効が、神格の低下とともに完全に霧散していく。
「目が、我が千の目が灼ける……! 恥辱の記憶が、我が雷霆の純度を汚していく……! 去勢された、だと……? この我が、仏法の犬だと……!? 黙れ、黙れぇぇぇ魔王ッ!!」
インドラは狂ったように頭を振り、ヴァジュラを滅茶苦茶に振り回し始めた。だが、すべてを見切る心眼を潰された彼の一撃は、もはやただの盲目の暴力に過ぎなかった。
「酒だ……! 酒を寄こせ! 我に果てなき狂気をもたらす、神の酒を!!」
千眼を潰され、覇気を削がれたインドラは、ついに最後の手段に出た。
彼の周囲の大気が、ねっとりとした甘い香りに包まれる。インドラが神話において、戦いの前に必ずがぶ飲みしたという伝説の神酒ソーマ。彼は自らの呪力を限界まで絞り出し、純粋なソーマの概念を精製すると、それを強引に自らの脳内へと注入した。
ドクン!!!と、インドラの黄金の肌がドス黒く充満した。
正気を完全に失った酩酊状態。インドラは理性を捨て、ただの破壊の怪物と化して、ガンジス川の水を津波のように巻き上げながら突進してきた。ヴァジュラから放たれる荒れ狂う雷が、ヴァーラーナシーのガートの石畳を無差別に粉砕していく。
彼は冷ややかにその突進を見つめていた。
「正気を失った最強の戦神なんて、ただの巨大な標的だろ」
彼は背後に、再びエメラルドグリーンの光翼を展開した。
インドラの蛇殺しの特効が消滅した今、ケツァルコアトルの翼を縛るものは何もない。彼は一陣の緑の流星となり、重力を置き去りにして天空へと急上昇した。そして、ソーマに狂って盲目となったインドラの完全な死角、その真上へと瞬時に回り込む。
彼は天空で静かに右腕を天へと掲げた。
「『高き者の言葉を聞け。宿命は放たれた。この一槍を以て、神話の終焉と成す』」
オーディンの権能を最強たらしめる第2の力『宿命を穿つ神槍』。
彼の右手に、空間のすべてを圧殺するほどの青白い因果の雷光が集束し、一本の荒々しい投槍が形成される。
本来なら、この槍を練成するだけでカンピオーネの魔力回路は焼き切れ、肉体は崩壊しかける。しかし、今の彼の全身にはアヴァロンの鞘の超回復が常にパッシブで働き続けている。魔力の過負荷で身体が焼き切れた先から、秒速で身体が再構成され、完璧な補強が施されていく。
「今の俺は……過去最高の出力が出せるんだよ、クソオヤジ」
アヴァロンの不滅性と、オーディンの必中性。二つの神の力が、彼の右手の中で完璧なシナジーを形成した。
「往け!!グングニル!!!」
彼が右腕を振り下ろした。
放たれたグングニルは、青白い一本の巨大な流星となって天空から降り注いだ。
それはソーマに狂うインドラが巻き起こした破壊の暴風を真っ向から、何の手応えもなく切り裂き、因果律の誘導に従って、インドラの脳天へと一直線に突き刺さった。
ドガァァァァン!!!!!!!
ヴァーラーナシーの夜空が、一瞬だけ純白の光によって完全に支配された。
爆発。
グングニルに宿る主神の知恵の雷光が、インドラの神核を内側から木っ端微塵に粉砕していく。
「……が、は……」
インドラの動きが、ぴたりと止まった。
全身から血の涙を流していた一千の目が、静かに光を失っていく。彼はその潰れた目で、天空に佇む隻眼の魔王を見上げその口元を、満足げに不敵に歪めた。
「……見事なり、隻眼の魔王……。我が千の目でも……貴様のその眼の良さは、見切れなんだ、か……。ハハ、良い酒、だった……」
ドブォォォォン……。
巨神の肉体が、聖なるガンジス川の濁流へと静かに沈んでいく。水面に溶け込むようにして、インドラの身体は黄金の光の粒子へと還り、ヴァーラーナシーの夜空へと静かに霧散していった。
あとに残ったのは、元の静寂だった。
遮るもののなくなった夜空から、本物の月光がガンジス川の水面を穏やかに照らし出す。ガートからは、戦いの終わりを告げるように、再び微かに鐘の音が響き始めた。
「ハハ……毎度のことながら……まじで、死ぬかと思ったわ……」
彼はタワーブリッジの残骸ならぬ、ヴァーラーナシーの崩壊したガートの石畳の上にどさりと仰向けに倒れ込んだ。全身の呪力はすっからかんで、アヴァロンの回復をもってしても、倦怠感だけは拭いきれない。
だが、彼の心臓の奥底では、消滅したインドラから流れ込んできた、第五の権能が、ドクドクと歓喜の鼓動を刻んでいた。
それは、神酒に狂った力、悲劇を繰り返すかは神のみぞ知る。
彼は右目を押さえながら、満足げにニヤリと笑った。
「これで五つ目だ、神様。俺を殺したければ、もっとまともな奴らを持ってこいよ」