──あの子が、いない。
なんでもすぐに私の先へ行ってしまう、あの理不尽な才能。
いつだって私の遥か前を走っていた、あの眩しい背中。
ここには、私を追い抜いていく者は、もう誰もいない。
最初は救われたのだと思った。これでもう、何かに怯えて完璧を追い求める必要もない。 けれど、それは間違いだった。競うべき相手を失った私の剣には、意味も、重さも、何も残っていなかった。
あの子の顔や、自分の名前、何故戦っているのかすら曖昧になって行く。
──駄目。忘れては、いけない……?
名前を、あの子の、私の大切な──日──。
そこから先の音が、どうしても霧に溶けて思い出せない。指の隙間からこぼれ落ちていく。
忘れたら最後だ。それを完全に失くしてしまえば、ただ物言わぬ抜け殻の亡者になるだけだ。
それだけは、まだ、絶対に…?
だから、私はただ人間性を繋ぎ止めるためだけに、惰性で赤瞳のオーブを掲げていた。
──その日も、作業のつもりだった。
王刃の腰巻きを揺らし、盾を持たないその男の背中に、侵入直後の私が不意打ち気味の一撃を放った、その瞬間。
──パリィ
金属の弾ける、甲高くて冷徹な音が響いた。
─何故?確かに盾は持っていなかった筈なのに。
私の体勢が大きく崩れる。その、わずか一秒にも満たない硬直の間。
男の指先が信じられない速度で動き、スズメバチの指輪に付け替えると同時に、ムラクモから暗銀の殲滅へと持ち替えた。
視界が反転し、胸元に冷徹な刃が深く深く突き刺さる。
「……っ、あ……!」
冷たい石床に叩きつけられ、血の泡を吐きながら、私はただ目を見開いていた。
霧がかかっていた脳が、摩耗した人間性が、その一瞬の衝撃で完全に覚醒する。
届かない。掠りもしない。
私の必死の努力など一瞬で見切られ、完璧に否定される。
私の遥か前を、──が走っている。
鳥肌が立つほど、馴染み深い絶望だった。
崩壊していく身体の中で、私は指先を床に突き立てる。
──男が右手を左胸の前に持ってきて、静かに一礼をしている。
あの間合い、あの換装速度、どうすれば防げた? どう動けば、あの領域に一歩近づける──?
私の中に目指すべき完璧が─び生まれた瞬間だった。
私はまた、赤瞳のオーブを強く握りしめる。
──侵入。
呑気にも両手を広げているホストに斬りかかるが、白霊の特大剣が割って入る。
盾のない左手で、強引に。
──パリィ。
僅かな間。指先がもつれ、換装がコンマ数秒遅れる。
致命は外れ、刃が肉を浅く裂くだけ。
──遅い。浅い。
追いすがる二人を前に反転し、全速力で銀騎士の元へと逃げる。銀騎士の放った大矢の隙を突き、ようやく背後から泥臭く宿主を突き殺した。
───お話になりません。これでは、到底……。
あの圧倒的な背中を見上げ、血を吐きながら追いつこうと足掻いている間だけ──
私は、─川─夜でいられる。