グリッチワーカー~歪んだ理のその先で、独り世界の綻びを繕う~ 作:かんぱく
アラームより5分早く目が覚めた。
天井のシミが、いつもと同じ形をしている。6畳一間の壁は薄く、隣室の誰かが夜中に立てた物音の残響が、朝になってもどこかに漂っているような気がした。堺市西区、家賃38,000円。築30年の木造アパートは、その値段通りに、何一つ余計なものを持っていない。
布団を畳まずに立ち上がる。歯を磨く。カップ麺を1つ。
左腕の包帯が、袖口から少し見えていた。
窓の外では、もう国道43号線が唸り始めていた。
世界が変わったことを、探索者たちは気づいていた。
しかし何が変わったのかは、誰も分かっていなかった。
魔法の威力が、以前より安定している。スキルの発動に、ラグがない。ダンジョンの壁の手触りが、以前より確かだ。床を踏む感触が重い。魔物の動きが、予測より少し遅い。
管理局は「聖域到達を契機とした、ダンジョン構造の変化」という見解を発表した。
スペクタクル社は「より高度な挑戦の時代の到来」という広告を打った。ダンジョン関連の株価が、1週間で8%上がった。
探索者のコミュニティでは、配信事故の夜に何があったのかについて、今も様々な説が飛び交っていた。
神隠し、聖域の開放、世界の再設計。橘ライカが「奇跡の生還を果たした聖女」として新しいCMに出るという話も出ていた。
春山には、関係のない話だ。少なくとも今は。
軽自動車のエンジンは、3回目のキーで目を覚ました。
走行距離は20万キロを超えている。以前より、また少し進んだ。ドアの内張りの補修テープは、まだ剥がれていない。スピーカーの右チャンネルは、相変わらず音が籠もっている。左腕の包帯が、ハンドルに当たるたびに感触がある。痛みではない。
バックミラーで後ろを確認して、43号線に繋がる側道へゆっくりと出る。7時20分。43号線は今日も詰まっていた。対向の大型トラックが、潮の匂いを乗せた排気を吐き出していく。春山はウィンカーを出して車線変更し、コンビニで買っておいた缶コーヒーのプルタブを、信号待ちの間に静かに開けた。
フロントガラスの向こうで、高架橋に貼り付いた大型広告が流れていく。整った顔の若い女性が、光の粒をまとって笑っている。「スペクタクル所属、Aランク探索者・橘ライカ、新CM解禁」。キャッチコピーは「世界は、続く。」
春山は一瞬だけそちらを見て、缶コーヒーを一口飲んだ。
前のキャッチコピーより、少しましだ、と思った。
病院から戻ったのは、昼過ぎだった。
左腕の診断は、軽度の熱傷だった。表皮の損傷にとどまっているため、処置は外用薬の塗布と、しばらくの安静だ。1週間から10日で、ほぼ回復する見込みだと言われた。
包帯を巻いた左腕を見ながら、アパートに戻った。
コンビニで買ったサンドイッチを、立ったまま食べる。
味が、いつもより確かだった。以前のコンビニのサンドイッチと同じものだが、素材の感触が少し変わっている。
仕様の変化だ。
食べ終わって、テーブルに座り、PCを開く。
電源を入れて、起動を待つ。起動音がして、デスクトップが現れた。
メールを確認すると、本田から1件来ていた。
件名が「確認事項」。
メールを開く。
『春山さん
昨夜はお疲れ様でした。
腕の状態はいかがですか。
もしよければ、春山さんの所感などお聞かせ願えますか。
それと、ライカから預かっています。
以下に転載します。
---
(ライカより)
---』
本田のメールが、そこで切れていた。
その下に、別の書体で文章が続いていた。
『春山さんへ
メールのやり方がわからなくて、
本田さんに頼みました。
変なやり方でごめんなさい。
まず、ありがとうございました。
言葉が足りないのは分かってるんですけど、
ありがとう以外に言葉が見つからないです。
腕、大丈夫ですか。
病院には行きましたか。
行ってなかったら、行ってください。
行ったなら、よかったです。
1つだけ、書いてもいいですか。
あの部屋で春山さんが話してくれたこと、
覚えています。
川辺の家族のこと。
スイカを切ってた父親と、走り出した女の子と、
笑ってた母親のこと。
2人分の食卓のこと。
砂場の子供のこと。
膝に泥をつけて、カメラに向かって笑ってた子のこと。
夕暮れの釣り人のこと。
雨の日のアパートの窓のこと。
冷蔵庫の絵のこと。
全部じゃないけど、覚えています。
消えても、私の中にあります。
だから大丈夫です。
春山さんが決断してくれたこと、
正しかったと思っています。
また一緒に行きましょう、ダンジョン。
ライカ』
春山は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
メールを読み終えた後も、画面から目を離さなかった。
ライカが覚えていた。川辺の家族。2人分の食卓。砂場の子供。春山が読み上げた断片を、暗いサーバー室の中で、目を閉じて聞いていたライカが。
消えても、私の中にあります。
春山はその一文を、もう一度読んだ。
データは消えた。棚のスロットから、光が落ちた。
カチッという音が、空間に響いた。それは取り返しのつかないことだ。
しかしライカが覚えている。
完全ではない。正確でもないかもしれない。
しかし、あの家族の夏の午後が、ライカの記憶の中に、形を持って存在している。
春山には、それが何を意味するのか、うまく言語化できなかった。
だが何かが、胸の奥で静かに動いた。
本田への返信を書いた。
『本田さん
腕は問題ありません。
本日、診察を受けました。
特記事項:異常なし。
春山』
送信した。
特記事項、異常なし。
それが、今回の作業の結論だ。
無数のシミュレーション、50年以上の保守記録、先人たちの痕跡、パージ、防衛プログラム、人体バイパス。全部が、「異常なし」という3文字に収まっている。
それでいい、と春山は思った。
本田が必要としているのは結果だ。プロセスではない。最初にそう言った。春山もそれで構わない。
PCの画面に、ライカのメールがまだ表示されていた。
『また一緒に行きましょう、ダンジョン。』
春山はその一行を見た。
次は工具を持っていく、と約束した。マシな工具を持っていく、と言った。それは今も有効だ。
メモ帳を取り出す。
紙のメモ帳だ。ダンジョンでの作業記録を手書きで残すために、いつも持ち歩いている。
新しいページを開き、書き始めた。
サーバー室の構造。
棚の配置。
スロットの種類。
演算装置の位置と損傷の状態。
メインコンソールの手順。
防衛プログラムの優先度の書き換え方法。
パージの手順と削除対象の選択基準。
再起動のシーケンス。
電源ユニットの損傷箇所と、直接入力端子の位置。
先人たちがパネルに刻んだように、春山は紙に書いた。
パネルに刻む道具はないので、紙に書く。先人たちのように工具で金属に残すことはできない。
しかし内容は同じだ。次に来る人間が使えるように。自分が次に来たときに、また使えるように。
1時間ほどかかった。
書き終えて、メモ帳を閉じた。
次に行くときに、持っていく。
工具も持っていく。今度は最初から。
どんな工具が必要かは、今回の経験でわかっている。
リストを別のページに書いた。
書き終えて、PCに向き直る。
ライカのメールが、まだ画面に表示されていた。
返信を書くべきかどうか、少し考えた。
本田経由で来たメールだ。本田に返信すれば、ライカには届かないかもしれない。ライカ自身のメールアドレスを知らない。
次にダンジョンで会ったとき、直接言えばいい。
しかし次がいつになるかは、わからない。
春山は本田への返信メールを、もう一度開き、追記した。
『追記:
ライカさんへ。
メール、読みました。
腕は問題ありません。
覚えていてくれて、ありがとうございます。
次は、工具を持っていきます。』
送信した。
本田がライカに転送するかどうかは、本田次第だ。
しかし書いた。それで十分だ。
午後から、コンテナに向かった。
尼崎の貸しコンテナだ。軽自動車で15分ほどの距離にある。
コンテナを開けると、圧縮袋が積まれていた。
変わっていない。ダンジョンの最奥に行く前と、同じ状態だ。
フィルターを展開し、コンテナ内の魔石の状態を確認した。
再起動後のシステムでも、魔石の中のデータは読み取れる。形式は変わっていないことを確認した。
だが、変化があった。
データの密度が、以前より均一になっている。
以前はデータの流れに偏りがあった。密度が高い部分と低い部分が混在していた。再起動後は、その偏りが減っている。ラグが減った結果として、データの分布も均一になっている。
解析作業に影響が出るかもしれない。
確認が必要なことが、また増えた。
春山はメモ帳を取り出し、新しいリストを書き始めた。
再起動後に確認すべきこと。
魔石のデータ形式の変化。ドロップ率への影響。シード値のリセット効果の変化。コリジョン抜けへの影響。
書き終えて、コンテナを閉めた。
やることが、また増えた。
しかし順番は変えない。1つずつだ。
軽自動車に戻った。座席に座り、エンジンをかける。
エンジン音は、以前と変わらない。
43号線に出た。
昼の道路は、そこそこ混んでいた。
信号で止まった。
窓の外を見る。
尼崎の昼の景色だ。ビルと電線と、遠くに海。いつもと同じ景色だ。
しかし輪郭が、少しはっきりしている。光の当たり方が、確かだ。
ラグのない現実が、そこにある。
信号が青になった。
アクセルを踏む。
軽自動車が、43号線を走り始めた。
20万キロを超えたメーターが、また少し進んだ。
夕方、アパートに戻った。
夕飯はコンビニのパンにした。袋を開けて、テーブルで食べた。
PCを開くと、本田から返信が来ていた。
『春山さん
了解しました。
ライカへの追記、転送しました。
本田』
転送した、と書いてあった。
ライカに届いた。
それだけわかれば十分だ。
春山はPCを閉じようとした。
新着メールの通知が来た。
差出人を確認する。
見知らない送信元だった。
しかしメールを開いた。
『件名:春山さん、橘ライカです
春山さん、メールアドレス教えてもらいました。
本田さんから。
ライカです。
追記、読みました。
工具、楽しみにしてます。
それと、1つだけ。
あの家族のこと、また教えてください。
私が覚えてる内容が、正しいかどうか
確認したいんです。
記憶って、時間が経つと変わることがあるから。
春山さんが見たものを、また聞かせてもらえたら
少し安心できます。
次のダンジョン、いつにしますか。
ライカ』
春山はメールを読んだ。
『川辺の家族のこと、また教えてください。』
春山はフィルターを展開した。
コンテナの魔石データの中に、川辺の家族の映像データが残っている可能性がある。パージで削除されたのは棚のスロット内のデータだ。
春山がコンテナで解析作業をした際に、一部のデータを読み取って保持していた可能性がある。
データを確認する。
あった。
断片だ。完全なデータではない。しかしフレームがいくつか残っている。父親がスイカを切っている場面。女の子が川の方へ走り出す場面。母親が笑っている場面。
消えていなかった。
完全ではない。しかし確かにある。
春山は返信を書いた。
『ライカさん
メールアドレス、了解しました。
川辺の家族の件、確認しました。
データの断片が、手元に残っています。
完全ではありませんが、いくつかのシーンが確認できます。
次のダンジョンのとき、詳しく話します。
日程は、来週以降であれば構いません。
春山』
送信した。
PCの画面に、送信完了の表示が出る。
春山は画面を閉じた。
窓の外は、暗くなっていた。
堺の夜だ。
国道43号線の向こうに、工場の灯りが見える。遠くに、大阪湾の水面が光っている。潮の匂いが、窓から入ってくる。
春山は窓の外を見た。
特に感慨があるわけではなかった。
しかし何も感じないわけでもなかった。
先人たちが50年間保守し続けたシステムが、今日も動いている。
ラグのない形で、世界に向かって出力し続けている。
完璧ではない。また何かが起きるかもしれない。
しかし次のためのリストは、もう手元にある。工具のリストも、作業記録も、準備は始まっている。
それで十分だ。
春山は立ち上がった。
歯を磨いて、寝る準備をする。
明日も、仕事がある。
南港ダンジョンの外縁部の清掃作業だ。ラグが減ったことで、作業効率がどう変わるかを確認する必要がある。新しいシード値のパターンも確認したい。
やることが、また増えた。
ベッドに横になった。
左腕を体の横に置くと、包帯の感触がある。
天井を見た。
遮光カーテンの隙間から、外の光が少し入っている。
目を閉じる。
川辺の家族の映像が、魔石の中にある。父親がスイカを切っている。女の子が走り出す。母親が笑っている。
消えていない。
完全ではないが、ある。
そして、ライカが覚えている。
春山は目を閉じたまま、呼吸を整えた。
外から、波の音が聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。しかし聞こえた。
仕様だ、と春山は思った。
これが、ラグのない世界の夜の音だ。
目を閉じたまま、春山は眠りに入った。
堺の夜は、静かに続いていた。
メモ帳は、テーブルの上にある。
次のリストは、まだ途中だ。